つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

メリメリ

2015-08-24 15:40:24 | 日記
ペンケースについて記憶の最後のお店に問い合わせてみたところ、どなたかが拾ってくださったらしく、お店に保管してあります、とのことだった。
良かった、とてもありがたい、頭が下がる。
財布や携帯電話、大切な落とし物はなんだか全部出てくる。
そういう私は何か落とし物を拾うことがほとんど経験がないのだけれど、そして拾って届けてくださった方には何のお礼をすることもできないのだけれど、何か拾った際には落とし主さんへ戻したい。


9月半ばが締め切りの展覧会の作品を書く。

ここしばらく、しかも結構長い間、私は何かとても停滞と諦めのような気持ちを抱いていた。
昨年、同じ展覧会で何か書きたいというあまりにも強い気持ちが持てず、何なら賞を狙ってみようという方針で出品した。
結果、それまでで最も良い賞を獲れたのだけれど、展覧会場で自分の作品を見たときに「あぁこういうことではない」そんな風に思ったことをよく覚えている。

でもやっぱり、良い賞をいただくことは嬉しい、そんな気持ちもあった。
でもやっぱり、賞ではなく自分の納得だ、とそんなきれいごとのようなことを本気で思った。

しかしながらそれからもどうして良いか分からず、とりあえずちょっとした技術の向上だけを積み重ねてきた。
前作については本当に「自問自答」していた感じがする。

今回書いてみて、少しだけ何かが戻ってきたような気がした。
人から見たら何が変わったか全然わからないだろうし、私でさえも何がどのように変わったのかは作品上で的確に言うことはできない。
でも何となく、手触りのような、テクスチャーのような、そんな風合いが違って見えた。

そして、いつまで経っても「自問自答」など終わりはないけれども。

「ひこうき雲」荒井由実
「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」かまやつひろし
「男の子と女の子」岸田繁(くるり)

の3つをとりあえず。
どれも私は書いている途中に泣きそうになってしまう。
「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」以外の2つは過去に書いたことがある。
最近はもう一度、今の私が触れてみることをやってみたい。

一方で、多方面で活躍するある書家の方が「楷書の臨書は難しい」ということを言っていたことにも、改めて考えさせられる。
そう、当然ながら楷書は難しい。
線のブレも空間のブレも許さないから。
私は中国の古典においては楷書体が一番肉迫するものを感じる。


いもうとの第2子が産まれて、その手伝いにと日程を1か月前ほどから予約されている。
いつも比較的つっけんどんなおばさんだけれど、早く会いたいな、なんて初対面の日を待ち望んでいる。

決まっていたはずの名前は、2つの候補で悩んでいるようで、名前なき空白の数日。
いもうとは私の意見に重きを置くような人ではないので、おばさんとしてはこっちの方が、と言ってみる。
名前がないから「赤ちゃん」と呼ぶ。

赤ちゃんの物づくりに精を出している友人に何かプレゼントを作ってほしいなと頼むと、快くオーケーしてくれた。
「赤さんの身長体重、生年月日時を聞いておいて」と、彼女は「赤さん」と呼んだ。

どうか、赤さんの人生が良きものでありますように、と心から願う。


仏間にて扇風機だけ首を振る




ぷんすいとゲリラゴーレ

2015-08-23 12:53:28 | 日記
中学生のときにオーストラリアで買ったカンガルーの皮のペンケースを失くしてしまった。

財布を落としたり、携帯電話を洗濯機で洗ったり、花瓶を割ったり、ペットボトルのお茶がバッグの中で全部こぼれたりと、何かとヒューマンエラーの多い私であるが、最近はそんなことが前にも増しているような気がする。

いつも、なぜそれが起きたのか、そのときの状況をだいたい事細かに思い出せるのだけれど、今回はさっぱり身に覚えがない。
そして、花瓶のように、失くして良かったなどと思えない。
愛用していた花瓶よりもずっと、毎日愛用していたのだ。

あの年でよくあんなものを、というような類の毛皮のペンケース。
動物が座っていてお尻が皺にならないように、皺にもならず、また毛を削がれた皮のように古ぼけた味わいが出ることもなく、いつでも同じ形と同じ風合いをしていたペンケース。
ときどき、無意識に毛並みを撫でたりして、もう20年弱もの間使ってきた。
ペンケースを新しく他のものにしたいという発想すら、抱いたことがなかった。

それを使った記憶の最後であるカフェに電話をしてみるも、生憎定休日。
明日また電話することにするが、なんだかもう遠く手元を離れてしまった心持ちに耐えられなくて、出てこないことを早いところ納得させたくなる。

服や靴などよりも、私は大切にしている雑貨が多い。
服や靴は自分の体に纏うもので、纏う本体が細胞の変化で常に変わりゆくから、それに着せるものも自然と代謝されていく。
自分の外にある物は、物として変わらない限り、またそれに対する自分の精神が変わらない限り、そこにあってほしいと願う。
これは我が儘だなと思う。

自分の外にある物が、壊れたとき、失くなったとき、よくある言い方で、“失くして初めてその重要性に気が付く”、あるいは“重要でないことに気が付く”。
自分の外にある物、だけでなく、環境などにも言える。

しかしながら、とても重要性の高いものでさえも、お腹が空いたり、どうにも眠かったりという本体の生理現象にはかなわない。
重要なペンケースを失くしたところで、私は食べ物がのどを通らなくなることも眠れなくなることもない。


岡本太郎の『今日の芸術』という本が名著であった。
私は本を読むことが得意ではないけれど、食い入るように読めた。
とても現実的で、地に足が付いた芸術論。

私は、芸術、なんて言葉を自分が発することに恐れ戦いているのだけれど、まさにその考えこそゲスであるというようなことが書かれている。
幼い頃にも全く自由に絵を描いた経験など、ただの一度も、本当にないわけで、そして今でさえ全く自由に私は書を書けるわけでもないわけで。

自分のダメさ加減を思い知りながら、まあでもそれがしたかったので書いた。


フォトチャンネルがいっぱいになっていたので、最近のものをまとめてアップしました。
記事にはアップしていますが、よろしければご覧ください。



ユーカリの思うがままの呼吸かな




大丈夫して

2015-08-21 12:52:38 | 日記
京都駅の階段で足を滑らせ、1,2段正座のような状態で転げた。
「キャッッ」と自分でも似つかわしくないと思うような悲鳴を上げて、ほんの一瞬宙に舞った。

寸分の間もなく、ノースリーブの私の腕を温かい手が触れた。
「だいじょぶ?」と片言の声が聞こえて、「すみません、大丈夫です」と振り返ると、タイ人らしき肌のこんがりした若い男性がいた。
正座の私をすくい上げ、タイ人らしき若者は去って行った。
ヒヤッとした後の混乱した頭で、「ありがとうございました」と言った声は届いたのだろうか。

全然大事には至らなかったけれど、足の甲が少し腫れている。
軽い捻挫だろう。


大きなユーカリの葉っぱが重すぎて、不意に触れたら花瓶がグワンとバランスを崩して倒れ、弾けた。
「うわー」という大きな声が出た。
ソファーや墨池に水が掛からなくてあぁ良かった。

あぁ良かったと思ったのはもう一点あって、比較的よく使う花瓶が割れてくれたこと。
最初は「大事な花瓶が!!」と思ったのだけれど。
こうでもならなければ失くせない、そんな風に思った。
考え物の精神性だ。


いもうとがふたり目を産気づいているらしい。
初めて姪が産まれた三年前、私は産気づいたと聞いて、会社の外に出てうろうろした。

今はそんなことはない。
がんばれ、と念は送る。


なんだかいろいろあったような、何も変わらないような、そして何かが分かったような、だからと言って何でもないような。
床に横たわって瞑想する用の布を買った。
瞑想というほどのものでもないけれど、これをするなら溶けそうなくらいに暑い方がいい。

夏が行ってしまう淋しさは、きちんと私のものだろうか。


似ていることや共感はある種の嬉しさを産む。
最大級のそれが欲しいかもしれない。
しかし、それよりももっと、ただそれだけのもの、の方が欲しい。


今日の書は、お名前の漢字一字をLINEなどのアイコンにしたいと依頼されて書いたもの。
その方は、左上が一番自分らしい感じがします、と言っていた。


ミントが、きれい。


姉になるその日に姉にサマードレス




ジレンマ

2015-08-13 11:30:53 | 日記
揚げたてのセロリと稚鮎といちじくの天ぷら。
花の形の小鉢に入ったひじきの煮物。
手作りのにんじんのバルサミコ酢和え。
普通のキムチ。
大きな湯呑みの茶碗蒸し。
1本だけキリンの缶ビール。

もぎたて剥きたてのいちじく。
セブンイレブンの冷凍アップルマンゴー。
1年前の冷凍ブルーベリー。
冷たいジャスミン茶。
マキシムのインスタントアイスコーヒー。

高い天井。
宇宙感ベッド。
色彩感が美しいマグノリア。
昇る煙。
冷たい井戸水。

ぷっくりしたアロマミント。
分厚い葉っぱのゴムの木。
数年前のハート型の植物。

低い建物。
煤けた駅のホームの屋根。
重たい曇り空。
幾分密度の軽い空気。


「季寄せ」を持って出かけよう。


稲妻よ空を割れよとガラス越し