人から褒められるのは、慣れていないけど好きだ。
人から怒られるのは、慣れていないけど嫌いだ。
私は堪忍袋の緒を切ったことがない。
自分でさえ、何が起こったときに堪忍袋の緒が切れるのか分からない。
それどころか、私は本気で人に対して怒りを露わにしたことがないと思う。
怒鳴ったこともないし、ありそうとよく言われるのだが、怒ってまくし立てたこともない。
プチンとどこかが切れたって、切れた斜め上から俯瞰視する自分が見ている。
感情的に泣いている自分だって、涙の斜め上から俯瞰視する自分が見ている。
かと言って怒りの感情がないタイプの人間ではない。
悔しくてか悲しくてか終いにさめざめと泣く。
長持ちしない怒りがほとんどだが、そうでないものについては何年越しにもその怒りを持ち続けていたりする。
それには怒り以外の感情も入っている。
それは所謂トラウマだ。
堪忍袋の緒を切っておけばよかったと後悔するシーンもなくはない。
切れないのは私が小心者で、自分が傷つきたくないからだ。
喧嘩上等、だなんてとんでもなくて、喧嘩するくらいならこちらの非が認められなくても謝るが逃げるかしたい。
下手な苦笑いで済むのであればとりあえず苦笑う。
私はこのままいくと一生人と罵り合ったりすることはないように思う。
怒っている人が怖いのだ。
冷静に考えると放っておけばいいなんてことも、目の前に突き付けられたり矛先を向けられたりすればもちろん、そうでなくても怒りは人の心を絞り上げる。
自分が怒りを大々的に表すことができないから、余計理解が及ばなくて、ただ心を絞り上げられる。
大々的に怒っている人からすれば、それは夏の日の夕立みたいなもので、雷が轟き雨がざーっと降れば、即座に何事もなかったかのような晴天に戻ることも多い。
絞り上げられた方は絞り上げられ損だ。
こんなことを書いているが、怒られたわけでも、今何かに切れたいわけでも全くない。
言いたいことを言おうか言わまいか、小心者の私が迷っているだけだ。
ちょっとなすりつけてしまった罪悪感もある。
自分で撮った花または花のような写真、もしくは友人からもらった花または花のような写真を記事の最後に付けるというしきたりをこのブログの最初になぜか作った私だが、今日は付けられない。
怒りについての記事にふさわしい花なんてない。
人から怒られるのは、慣れていないけど嫌いだ。
私は堪忍袋の緒を切ったことがない。
自分でさえ、何が起こったときに堪忍袋の緒が切れるのか分からない。
それどころか、私は本気で人に対して怒りを露わにしたことがないと思う。
怒鳴ったこともないし、ありそうとよく言われるのだが、怒ってまくし立てたこともない。
プチンとどこかが切れたって、切れた斜め上から俯瞰視する自分が見ている。
感情的に泣いている自分だって、涙の斜め上から俯瞰視する自分が見ている。
かと言って怒りの感情がないタイプの人間ではない。
悔しくてか悲しくてか終いにさめざめと泣く。
長持ちしない怒りがほとんどだが、そうでないものについては何年越しにもその怒りを持ち続けていたりする。
それには怒り以外の感情も入っている。
それは所謂トラウマだ。
堪忍袋の緒を切っておけばよかったと後悔するシーンもなくはない。
切れないのは私が小心者で、自分が傷つきたくないからだ。
喧嘩上等、だなんてとんでもなくて、喧嘩するくらいならこちらの非が認められなくても謝るが逃げるかしたい。
下手な苦笑いで済むのであればとりあえず苦笑う。
私はこのままいくと一生人と罵り合ったりすることはないように思う。
怒っている人が怖いのだ。
冷静に考えると放っておけばいいなんてことも、目の前に突き付けられたり矛先を向けられたりすればもちろん、そうでなくても怒りは人の心を絞り上げる。
自分が怒りを大々的に表すことができないから、余計理解が及ばなくて、ただ心を絞り上げられる。
大々的に怒っている人からすれば、それは夏の日の夕立みたいなもので、雷が轟き雨がざーっと降れば、即座に何事もなかったかのような晴天に戻ることも多い。
絞り上げられた方は絞り上げられ損だ。
こんなことを書いているが、怒られたわけでも、今何かに切れたいわけでも全くない。
言いたいことを言おうか言わまいか、小心者の私が迷っているだけだ。
ちょっとなすりつけてしまった罪悪感もある。
自分で撮った花または花のような写真、もしくは友人からもらった花または花のような写真を記事の最後に付けるというしきたりをこのブログの最初になぜか作った私だが、今日は付けられない。
怒りについての記事にふさわしい花なんてない。