つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

カミアリヅキ

2011-10-31 23:18:23 | 日記
人から褒められるのは、慣れていないけど好きだ。
人から怒られるのは、慣れていないけど嫌いだ。

私は堪忍袋の緒を切ったことがない。
自分でさえ、何が起こったときに堪忍袋の緒が切れるのか分からない。

それどころか、私は本気で人に対して怒りを露わにしたことがないと思う。
怒鳴ったこともないし、ありそうとよく言われるのだが、怒ってまくし立てたこともない。

プチンとどこかが切れたって、切れた斜め上から俯瞰視する自分が見ている。
感情的に泣いている自分だって、涙の斜め上から俯瞰視する自分が見ている。

かと言って怒りの感情がないタイプの人間ではない。
悔しくてか悲しくてか終いにさめざめと泣く。
長持ちしない怒りがほとんどだが、そうでないものについては何年越しにもその怒りを持ち続けていたりする。
それには怒り以外の感情も入っている。
それは所謂トラウマだ。

堪忍袋の緒を切っておけばよかったと後悔するシーンもなくはない。
切れないのは私が小心者で、自分が傷つきたくないからだ。
喧嘩上等、だなんてとんでもなくて、喧嘩するくらいならこちらの非が認められなくても謝るが逃げるかしたい。
下手な苦笑いで済むのであればとりあえず苦笑う。
私はこのままいくと一生人と罵り合ったりすることはないように思う。

怒っている人が怖いのだ。
冷静に考えると放っておけばいいなんてことも、目の前に突き付けられたり矛先を向けられたりすればもちろん、そうでなくても怒りは人の心を絞り上げる。
自分が怒りを大々的に表すことができないから、余計理解が及ばなくて、ただ心を絞り上げられる。

大々的に怒っている人からすれば、それは夏の日の夕立みたいなもので、雷が轟き雨がざーっと降れば、即座に何事もなかったかのような晴天に戻ることも多い。
絞り上げられた方は絞り上げられ損だ。

こんなことを書いているが、怒られたわけでも、今何かに切れたいわけでも全くない。

言いたいことを言おうか言わまいか、小心者の私が迷っているだけだ。
ちょっとなすりつけてしまった罪悪感もある。


自分で撮った花または花のような写真、もしくは友人からもらった花または花のような写真を記事の最後に付けるというしきたりをこのブログの最初になぜか作った私だが、今日は付けられない。
怒りについての記事にふさわしい花なんてない。


玉ちゃんの彼女

2011-10-30 23:00:12 | 日記
けいこが珍しく、というか初めて聞いた気がするが、アイスクリームが食べたいと言い出した。
なぜ炬燵も出していない寒くなりかけのこの時期にアイスクリームと言い出すのか私には分からない。
せっかくだからCMで柴崎コウがおいしそうに食べている「クレープグラッセ ストロベリーチーズケーキ」と「ドルチェ ミルフィーユ ~ナッツ&キャラメル~」をコンビニに買いに出かける。

2年ほど前まで私は好きな食べ物はと聞かれて、ハーゲンダッツだと答えていた。
そのおかげでよく人から頂いていた。
いつ何がきっかけか分からないが、ハーゲンダッツと連発することがなくなった。
実際に食べることもめったになくなった。

久しぶりに、久しぶりだが、新作を買ってみる。
はっきり言って「クレープグラッセ」は駄作であると思う。
クレープ生地が厚めで少しもちもちしているのだが、通常のクレープ生地のあの滑らかさとすべすべの肌感がない。
そしてハーゲンダッツの最も良いところのひとつは間違いなく「濃さ」だと思うのだが、クレープ生地が厚くてアイスクリームの濃さが感じづらい。

一方、相変わらずドルチェの完成度は高い。
ざくざくとしたミルフィーユ生地にざくざくとナッツが入っている。
濃く苦めのキャラメルソースが印象的で、上にかかっている粉糖が優しい。
確かに値段相応の味がするね、と2人で食べる。

以前私の一番のお気に入りだった「クレームブリュレ」はもう販売していないようだ。
代わりに「オレンジのクレームブリュレ」が出ている。
今度、何かのご褒美か、何かとても嫌なことがあったときの慰めに買おうと思う。


手風琴と愛媛みかんとりんごとパイケーキと足ふきマットを持ってとんぼ帰りしてきた。
「あんたが帰ってくるって前の日から楽しみにしとっただで」とおばあちゃんは本当に嬉しそうな顔をする。
おばあちゃんはいつも私の存在を丸ごと承認してくれる。

本を読もうと思って乗り込んだ新幹線だったが、結局品川まで寝てしまう。
東京に戻ってくるときの東京駅は、人が多くて今更ながら驚くけれど、私はまた東京の空気に紛れ込めてほっとする。

東京は、否が応でも見なければいけないものとか押しつけられるものとかが圧倒的に少ない。
地元にあるような、「そういうもの」として敷かれている土壌に肌が合わない。
「そういうもの」として敷かれている土壌に頼った方がたぶんすごくいいこととか楽なこともある。
でも、やっぱり肌に合わないから、大変そうに見える東京の方が結果的に私には大変ではない。

本当はもう人のせいになんてしたくない。
ただの怖がりでただの寂しがり屋。




甘締め

2011-10-29 10:08:59 | 日記
澄んだ晴れ。
高くなる太陽。
お休みの幕開け。

東京駅はいろんな気持ちでごった返している。

行楽日和の10月末の土曜日の朝はお年を召した人がたくさん西に向かうようだ。
私も彼らのその列に混じって西に向かう。

当たりだったローズのシャンプーの弱い香りに纏われて。
昨日は楽しかったなあと思い出し笑い。
正直であることを褒めてもらえて嬉しかったなあとまた思い出し笑い。

自転車がないと来なかっただろう少し辺鄙な場所にある小さなビストロ。
私は一緒にいる人によってお酒を飲む量がだいぶ変わる。
お酒の力を借りることもなくはないが、基本的には飲んでも飲まなくても一緒に過ごす人が好きなら楽しい。

実はそういう場での食べ物もそこまで重要ではなかったりする。
もちろん、美味しい方がいい。
しかしいろんな感覚を同時平行で感じられない私は喋るのに夢中なときは味覚が鈍るのだ。
その場所でその料理について話して向き合えば味覚を優先することもできるのだが、他の感覚が働いていたときは全体的にぽわんとした美味しかった記憶しか残らない。
美味しい、と感覚が勝ってしまうときは私はあまり話を聞いていないかもしれない。

と言いつつ、全体的にぽわんとした美味しい感覚と、美味しかった記憶がほしいから美味しいところには行きたい。
でもファミレスでも公園で菓子パンでも楽しいときは楽しい。
一緒に時間を過ごす好きな人が喜んでくれたら本当にどこでもいい。

昨日も全体的にぽわんとした美味しかった記憶。


初めてスマートフォンからブログを更新。
スマートフォンをやめたくなるくらい、非常にやりづらい。

窓からけいこがいつも見れないという富士山がくっきりとそびえている。



素直な疑い

2011-10-26 23:20:18 | 日記
映画のシーンが移り変わるように、一日で秋が深くなった。
坂道を自転車の進むままに走り抜ける。
全身に冷気が吹き抜ける。

「首」と名前の付くところを冷やすと全身が冷える。
もうこれからの時期にレギンスは良くない。
トレンカならいいか。


映画の話が少しまともに人とできるようになって、そして最近は自分自身が面白いと思える映画も増えてきた。
サスペンスもアクションもファンタジーも苦手で、ヒューマンドラマしか楽しめなかったときに比べれば本当にいろんなジャンルの作品が面白いと思えるようになった。

『ブラッド・ダイヤモンド』
レオナルド・ディカプリオの話をしていて勧められた映画がちょうどGEOBOXに入っていたので借りた。
銃撃戦を見るのは得意ではないが、素手で殴り合うシーンよりは全然いい。
いつものように、1時間観たところで寝てしまって続きを次の日に観る。

とてもいい映画だった。
ディカプリオがよかった。

紛争や戦争の作品を見るといつも、生まれてきた意味と生への執着の不思議を思う。
誰も痛みや悲しみや恐怖を味わうために生まれてきたのではないはずで、だったら早く死んでしまいたいと思うのではないかと思うのだが、皆死に物狂いで生の方向に逃げるのだ。
生物的に、当然と言えば当然、なのかもしれない。
生命が危機に脅かされると本能的にそれに抗う、けれど、感じるのは痛みや恐怖だ。

敵を殺せと洗脳された少年、何としてでも自分の息子を守りたい父親、敵と見なした父親に銃を向ける息子、「You are good boy」と諭す父親、何も喋らない息子。
二人は静かに涙を流しながら、汚されてしまった少年の心は父親の胸の中に戻る。

ジャイモン・フンスーの顔は印象的で、そういえば『アミスタッド』に出ていた人だった。

「あなたと出会えてよかった」
陳腐な言葉ではあるけれど、私はこれを言いたいし言われたい。

6月に切れてしまった近くの映画館の年間パスを改めて買おうかと思う。



巣食っている夢

2011-10-23 23:25:14 | 日記
小さな個展だった。

期待していた花はなかったけれど、大量の葉で創られた作品は植物の血が息づいていて、妙な艶感でいっぱいだった。
ただ活けたりするだけではなくて人の力で襞を作ったり曲げて押しこんだりする。
それでも植物が生気を失っていないところがすごい。

これをやろうと思ったその発想と、実際のものとして魅せる実現力。
本当に作り上げる、というところがすごい。

たぶん微妙なセンスがなかったり、現実的な想像力が欠如していたら成り立たない。
そしてたぶん微妙なセンスのなさや、現実的な想像力の欠如は、ど素人の目にもわかってしまうくらいの駄作にしかならない。

最近東さんの追っかけみたいになっている。


『南極大陸』の日曜日を「ドラマ曜日」に認定することにした。
やっぱり『海猿』的要素が多々あって、観ていて気持ちがいいし安定感がある。
どんなに熱くても、どんなに困難が立ちはだかっても、穏やかさの中で観られる日曜の夜にはもってこいのドラマだ。

ついでに「EXILE魂」も観る。
GLAYの曲を聞いて中学生の頃を思い出した。
あの頃の私は“快”ということを知らなくて、今思えば鬱屈していた。
考える頭も持たなくて、それをとりあえず話すことも知らなくて、抗う強さも意思すらも持っていなかった。
というか、何が何でどう居心地が悪いのかも分からなかったし、そもそも居心地が悪かったのだと知ったのはもっと大きくなってからだった。

当時私はGLAYよりL'Arc~en~Ciel派だった。
その頃が一番音だけで音楽を聞いていたかもしれない。
全然音楽好きではなかったが、心地のいい音、リズム、曲調に忠実だった気がする。
不思議なことにあの頃に聞いていた曲の歌詞の意味を、私はほとんど、考えたことがない。

だから、今改めてGLAYの曲を聞いて、歌詞を聞いて、こんな歌だったのかと少し驚く。
考える術を持つことができて、少々面倒なこともあるけれど、私はよかったと思っている。

それにしても自分が何に“快”であるかに鈍かった。
その発想すら持っていなかった。
そんな状態でよくやっていたと思う。