つぼみな日々

いろんな花の蕾をもっていたい。たくさんの花を咲かせたい。
言葉を紡ぎたい私のブログです。

マイケルUSB

2012-04-27 23:55:54 | 日記
オーバーワークだとその人が感じるとき、それは紛れもなくオーバーワークであって、それは仕事の絶対量ではない。
かと言ってその人がオーバーワークと感じる度合いで仕事を止めたとしたら、目標を成し遂げられるかというとそういうわけにもいかない。

自分の限界がどこかなんて、たぶん一度壊れてからでしか知ることができないようにも思うし、でも壊れてからでは修復が限りなく困難であることもある。
それはもう本当にどう考えても本末転倒であることは言える気がする。

仕事というのは仕事だから、「他の関係者に迷惑をかけない」ということをベースに持った上で、今あることに対する絶えない改善と未来への積み立てが必要になる。
特に今私がいるようなベンチャー企業にとっては、進むことや上がることを望まずして存続はない。

私は、言ったことをやらない、ということが仕事だけでなく全般的に嫌いなくせして、最近自分で言ったことがやれない。
自分に腹立たしいと思う反面、「あんまり無理しないでね」と背後で呟く私もいる。

私はプレッシャーや緊張が嫌いだ。
そして何が仕事で気持ちのいい瞬間なのかを現時点でわかっていることもある。

尊敬できる上司の下で一番の部下になりたい、と新卒の頃私は言っていた。
今でもそれはさほど変わっていなくて、私が売りたいのはサービスでも商品でもなくて、裏方であれる私の存在、に他ならないのだ。
今そうでないことを自分をストレッチしながら続けて、それでもそう思うのであればそのポジションを得たいと思う。

純粋な期待に応え続けることだけがあり方ではないはずだ。
たとえ、どんなに期待に応えたいと思ったとしても。


ひりひりする皮膚に突如塩の雨が空から降ってくる。
優しさや思いやりに見えるものも、それらはエゴの中に包括されているようなもので、少しそれを他人になすりつけて、そう、何も言ってくれなくてもよくて。
ある他人のことから派生して、すっかり自分のことに置き換えて考えている失礼さを嘆き、それでも、安らかであることを心の底から願う。

オフィスの前のワインバーからトランペットの音が聞こえていた。
また類家さんに会いに行ける。



おじいさん先生と上ロース

2012-04-24 14:09:30 | 日記
今日は空気は、何かが眠りから覚めたり、何かが活動を始めたり、何かが背丈を伸ばしたり、そんな生気に満ち溢れている。
アスファルトが温められて、初夏の入り口を匂わす。
でもまた日が落ちると、アスファルトの熱は持続せず冷たさが支配する風が吹くことを、私たちは知っている。

空を見上げるとほんのり霞のヴェールがかかっている淡い水色。
暖かさにまかせてとろとろと歩いていると、水の中みたいに景色が滲んだ。

こんな日は建物の中の方が涼しくて。
ひんやりとした建物の空気は、そうでないのに薄暗い病院みたいな匂いすら感じさせる。

春は苦手だけれど、こんなに苦手ではなかったはずだ。
何かが変わり始めていて、何かが溶け始めている。
理性だけで固めてきたそぼろみたいな理解が、やっぱり形になっていなかったのだと、今ぽろぽろと崩れている。
何かに触れる皮膚の全体が過敏になっていて、その何かは私のどこからでも私の真ん中に向かって入ってくる。
私にこんな感情があったのだと、6年越しに絶頂を迎えているような気さえする。

どんなにロックで前向きな精神を持っても、強さだけで貫き通すことはできない。
背こうとすればするほど、ないがしろにされた感情は濁りを増していくだけだ。

6月の終わりまでに、なんとかなればいいと思う。
けいこからメールをもらって、ゴールデンウィークには帰らない、と返信した私だけど、やっぱり帰ろうか。
でも、私はあの場所で全てを見せることはできないし、全てを溶かすこともできないだろう。
一人きりか、信頼できる誰か、とのシチュエーションしかない。

たぶんこの先にあるのは、本物の静寂と底が遠くに見える悲しみと透明な優しさなのだろうと想像する。
本物の静寂と底が遠くに見える悲しみと透明な優しさ、その心地はどんなだろう。


ぶっ飛びたいから音楽が好きなんだよね?
と聞いたらきょとんとされた。
私は今まで「音楽が好きだ」と公言したことは一度もないはずだから、最近の自分のことしかわからない。
そうか、当たり前だけど、いろんな聴き方があるのか。
まあ何でもいい、一度振り切ってそのあと統合しよう。



だめだね

2012-04-22 20:37:18 | 日記
蜷川実花×水原希子写真集「Girl」
以前からチェックしていたわけでも全然ないのだが、私は二人ともが好きで、発売当日に見つけてそのままこれを買った。

蜷川実花が、被写体として撮るものの中で一番好きなのは「花」で、次が「女子」だ。
「noir」で撮っていたような鋏や肉など色を消したものは良くなかった。
また男性の被写体もあまり見栄えがしなかったように私は感じた。

とにかく私は蜷川実花が魅せる色と色気のバランス感が好きで、「女子」を撮ると花と同じようにその色気のぎりぎりのバランス感がよく出ていて楽しい。
因みに彼女が撮る女は、「女性」というより「女子」といった感じがする。

この写真集の水原希子は、本の中の対談で蜷川実花も言っているが、人が一生の中で一番生物としての肉体的な輝きを持っているとき、という感じがする。
また、ある程度自然に、でも自らのコントロール下で、そういう意味で水原希子の笑顔や目遣いを見ると、時々不意を突かれたように心を突かれる。

写真家もモデルも、双方がアーティストであり表現者だ。
そこにあるものを単純に写しているわけでも、適当にポーズをとっているわけでももちろんない。
着る服やメイク、背景の物の配置やその全ての色と全体の構図。
「ぎりぎり」のところにたぶん新しさや面白さがある。
「やりすぎ」は全体をぶち壊してしまうだろうし、非常に微妙な位置のぎりぎりのある一点、において美しくなる、ような。

全てが万人に響くことはなく、ある一部の人に、ある一部が、あるタイミングで届けられていく。

私がThe Flipper's Guitarに捉えられてしまったのも、どうやら私の中の「ぎりぎり」感というのが彼らの表現物の中に在ることが原因のように思う。
完全に心地よい、という状態は、それはそれでいいのだが、BGMに留まってしまう。
それが例えパンクロックのようなうるさい音楽であったとしても。

何らかの違和感や気恥ずかしさのようなものを含んでいて、それは少し遠回り的に気持ちよさに通じている。


私は10数個の知り合いや知り合いの知り合い、有名人のブログを日常的に読んでいる。
彼らの見方や考え方、好きなものにも割と影響を受けやすいし、ブログサーフィンをしていてそのまま本などの物を買ってしまったことも今まで何度もある。

そのうちの一つに女優の酒井若菜さんのブログがあって、私は彼女のブログを初めて読んだとき、結構な衝撃を受けた。
彼女は女優であるし、もちろん自らについてを書いているのだが、自らもある程度ブログ上で演じることができると書いている。
それを踏まえて、ブログ上の言葉がその人の真意や本意が意図的にずらされていたとしても(読み手側の解釈という点を含めるとまた難しいが)それでも言葉と言うのはその人の内側からしか生まれないことを思うと、その人の内面を少し垣間見ること、すなわち私は継続的に読んでいるブログの書き手本人に興味があるのだと思う。

彼女の昨日のブログを読んで、ますます感じやすい最近の私は、またぷちっと何かが切れて酷く泣いた。
「どうして死ぬと、人は泣くんだろうね」
私はある友人のおかげで、今まで遠ざけていたことが理解できそうな気がしている。
現実的なところの解釈で、好きだったなんて言えないしそれを否定したかったけど、結局のところそうだったのかもしれないと。



宇宙遊泳

2012-04-18 21:35:02 | 日記
キャベツの葉っぱみたいなトルコキキョウの花。
濃い黄緑色をしていて花びらも分厚い。
一枚一枚花びらをはがして、ではなくてお花ごとかぶりつきたい。
きっとキャベツよりもうんと甘くてぱりぱりと歯ごたえもいいだろう。

スーパーで仏花が売られているのを見て、誰があんなところにある花を買うのだろうと不思議に思っていたのだが、私みたいな人が買うのだった。
もう花屋さんは閉まってしまっているけれど、生花を買う習慣がついてしまった最近の私の目線はスーパーでもお花にいってしまう。
なめこと豆腐と生わかめ、黒糖まんじゅうとトルコキキョウ。

なめこと豆腐と生わかめと、冷蔵庫にあった油揚げを入れてお味噌汁を作る。
同じものを食べていて飽きないのか、と時々人に聞かれるが、お味噌汁は飽きない。
これだけは唯一といっていいかもしれない、けいこの味、だ。

黒糖まんじゅうなんて久しぶりに買ったが私は薄皮でこしあんのお饅頭が好きだ。
粒あんもぜんざいやあんみつならいいのだが、お饅頭はこしあんが好きだ。
もらい物と自分で買った各種茶葉が豊富な戸棚から玄米緑茶を選んで淹れる。

トルコキキョウは茎を短く切って真っ赤なホーローのカップに生ける。
食べたい気もするけど、やっぱり食べない。


暖かくなったら時期を押して花粉が飛ぶのかと思っていたが、その花粉の飛散がスルーされて過ぎたようだ。
そういうものなのだろうか。
私はヒノキには反応しないから今年はこれで過ぎ去ったと思っていいのだろうか。

言うだけ言って蹴散らせるのならば言ったらいい。
叫んですっきりするのであれば叫べばいい。
お皿割って気が済むのであれば、1枚くらいであれば、叩きつけたらいい。
その後の支障が許容できるのであれば、携帯電話でも川に投げたらいい。
ちゃぶ台があったら、ひっくり返せばいい。
投げられた賽はもう戻らないのであれば、こちら側が進むしかない。

まあでもロックも度が過ぎると社会生活的には困難なことも増えるからそれなりのバランスを取ることになる。

3階のオフィスの目の前でカラスが針金ハンガーやら木の枝やらを集めて巣を作っている。
カラスの真っ黒ってかっこいい。
そういえばカラスの子供って見たことがない。
私は鳥の卵にはトラウマがあるのだが、ほえましい光景が繰り広げられるといい。




つぼむlips

2012-04-16 13:49:31 | 日記
2週間前に買ったソルボンヌの、残り一つの蕾が開きかけている。
明日の朝には全開するだろう。

これでついていた蕾の全部が咲いたことになる。
もちろん最初に咲いたものはもう朽ちて花びらを落としてしまったが、全部咲くと思っていなかったのでなんだか少し感慨深い。

咲き方が大胆。
朽ち方も大胆。
容姿も大胆。
香りも大胆。

存分に楽しませてもらった。
あと少し、全部が朽ちて花びらを落とすまで見届けよう。

展覧会の提出が迫ってきた。
案の定、大した書き込みもできず、とりあえず提出ということになってしまいそうである。
全て自分で、比較的長文の詩を何とか作品に仕上げるという点においては、よくやったと思う。
通常の書作においてもとりあえず手本なしに書いてみることが怖くなくなったのは大きな進歩である。
しかし、持てる力全部使ったか、と言われれば全力でノーであるし、実際に何割の力を費やしただろうか。

趣味の世界において、自分を追い込んではいけないというスタンスを崩したくないので、という言い訳を私はいつも持っている。
単に覚悟が足りないだけであるが、いつも作品を出し終わってもったいなかったなと思う。
しかしこのことについて私は私を責めてはいけないと思っているので取り立てて反省もない。

そういうスタンスおいてはこれが私の書道に対する全力だと言わざるを得ない。
「趣味だから楽しむ程度に」ということと「自分が納得できる作品を」ということは共存できない。
次はスタンスだけ先に定めて挑むことにしよう。

その前に提出まであと4セットくらいは全文通して書こう。


昨日の情熱大陸はちょっとした衝撃であった。
私は仕事において自分の発信力で食っていこうとは毛頭思っていないからノマドワーカーには憧れはない。
テレビ番組の編集の仕方もあるだろうが、「職業 安藤美冬」と言い切れるのは素敵なことだと思う。

昔、私の友人も「○○○○ブランドという着こなしをしたい」と言っていたことを思い出した。
自分の名前をこのように使うのか、とその時にも軽い衝撃を受けた。
思えば私は昔から自分の名前に愛着があまりない。
会話の中で、例えや強調的にも、自分の名前を出すことはほとんどしない。
「私」が「私の名前」から乖離していることは、自分認識から目を逸らしているような、そんなことに近しいのかもしれない。