
★ 学校は真に子どもたちのためになる教育活動をやっているか?
池田中央大教授「校則の自主制定、逆算の思考」の陥穽を講演
卒業式等での児童・生徒、教職員への“君が代”起立・斉唱強制を、一層強化した東京都教育委員会の10・23通達(2003年発出)の撤廃を求める現・元教職員、保護者ら市民で結成している、都教委包囲ネットワークが2月4日、都内で卒業式前の総決起集会を開催した。
LGBT問題では“多様性”を装う岸田文雄首相が2月10日、埼玉県戸田市立小学校を“視察”後、「卒業式では、国歌などの斉唱や合唱時を除き、児童・生徒と教職員はマスク不着用を基本としたい」(以下、傍線は筆者)と、“君が代”強制の放言をした。こういう国家権力による「教育への不当な支配」(教育基本法第16条が禁止)と闘う集会のうち、池田賢市・中央大学教授の「学校から始まる戦争と改憲」と題する講演を中心に、筆者のコメントを織り込みながら紹介していく。
★ 大きい記述欄のプリントに苦悩しない児童を育むには
学校総選挙プロジェクト(株式会社Tポイント・ジャパン等)が21年10月31日の衆院選投票日まで約1か月半、全国の10~29歳対象に実施したネット投票で、「今、期待する政党は?」の問いに、1位・自民党が58・2%とダントツ。維新、国民民主党、加憲の公明党を加えると、改憲勢力は計73・1%。衆参両院での明文改憲発議に必要な「3分の2」超、「4分の3」に迫り、若者の保守化が進んでいる(ネット投票は、NHK等が無作為抽出し実施する世論調査に比し、正確さは少し劣る。詳細は月刊『紙の爆弾』22年3月号拙稿)。
こういう状況下、池田さんは「公民科教育法の授業を持っていて感じることだが、20代は授業料値上げ等社会問題に批判的意識を持っている」と切り出した。また、ある小学校の研究授業で「子どもの権利条約」を扱う際、教員同士の話し合いにおいて、「子どもたちに権利を教えることは難しいのではないか。少なくとも、全ての条項を教える必要はない」と考えている教員がいた点に危機感を覚える、と指摘した。
池田さんは続けて、ある小学校教員から聞いた、「『○○について、あなたの意見を書いて下さい』と問いかけ、大きい記述欄=空欄を設けたプリントを配付すると、児童たちは苦痛の表情を浮かべ、頭を抱えたりする」という話を紹介。
「かなり深刻で、日本の教育の特質をよく表わしている事例。『あなたの意見は?』には正答はないので、自由に反応していい、もっとも対応が『簡単』な問いかけのはず。だが、子どもたちは『苦痛』・・・。なぜ?」と、会場の聴衆に問題提起した。
これへの池田さんの答え・見解は、「学校では、自分の意見を形成するのではなく、いかに教員が正しいとする答えを見出(みいだ)すかを子どもたちに強いているから、『積極的に受け身(!?)』な人間が形成されていくのではないか」。
池田さんの考えに首肯する筆者が補足すると、以下のようになる。
○文部科学省が「学校の教育課程編成に大綱的基準として法的拘束力あり」と主張する学習指導要領のうち、総則・社会・音楽・道徳・特別活動の一部は、政府・保守政党の政策や見解に沿った内容であり、政治的中立とは言えず、indoctrinationになっている。/にも関わらず文科省は教科書検定等で、“愛国心”や“君が代斉唱”強制、自衛隊増強・日米軍事同盟強化等の問題で、政府・保守政党の政策や見解、主義・主張に沿う記述にするよう強制。だから「大きい記述欄のプリント」に、政府・保守政党の望む内容を書くか、未記入になってしまうのでは?
○卒業式は児童・生徒の成長を祝う場だ。しかし、文科省や東京・大阪等の教委は、“君が代”の起立・斉唱を強制する等、憲法19~21条(個々人の思想・良心・信教・表現の自由)を侵害してくる。/天皇の治世の永続を願う意の政治色の濃い歌だと気付く児童・生徒が増えれば、子どもの権利条約にある意見表明権を行使し、ノーの意思を示せるようになる。
★ 子どもたち自身による「校則の自主制定」の陥穽
「校則の自主制定」は、「子どもの権利を尊重する教育だ」と最近よく紹介される。しかし、現状の校則は禁止事項の羅列だという点を批判的に検討せず、校則作りを促すなら危険。子どもたち自身に自らの自由を束縛する方法を考えさせることになってしまう。
本来、公共性を有する施設の規則は、その利用規定だ。公共施設としての学校は憲法26条の「教育を受ける権利」保障のためにあり、その権利保障のための規定が校則だということになる。ゆえに校則には、子どもたちの「権利」を書くのが本筋だ。日本では「規則=規制・禁止」というイメージが強いが、規則は権利が侵害されないために存在している。
これを十分周知し校則を自主制定すれば、学校を「権利」の観点からチェックしていくこととなり、権利教育として優れた実践になる。
以上の池田さんの考えに、概ね賛同する筆者が補足すると、以下のようになる。
○中央教育審議会の中に「ルールメイキング」と称し、「生徒による校則の自主制定」に取り組む今村久美(くみ)委員がいるが、同氏が代表を務めるNPOの取組みを、筆者が数回オンライン視聴した範囲では、制服等の一部変更に留まっている。ところで、第1次安倍晋三政権が改悪した教育基本法は第17条で政府に教育振興基本計画の策定を義務付け。これに関し中教審が3月8日出した答申は、well-being(個々人の幸福の意)という語を繰り返す一方で、次の①~③の通り、当初案にはなかった国家主義イデオロギーを加筆してしまう――という、矛盾に満ちている。
22年11月22日の第10回部会で『各論叩き台』を巡り、当時の委員・吉田信解(しんげ)埼玉県本庄市長が、「『日本という国をしょっていく』ことを書き込むべき」等発言。→①文科省総合教育政策局政策課の森友浩史(ひろし)課長と川村匡(ただし)教育企画調整官らは12月12日、「目標、グローバル社会における人材育成」の項に“国を愛する態度”を加筆し、②1月13日の『審議経過報告』の「伝統文化教育推進」に、「日本人としての美徳やよさを生かし」という国粋主義的な文言を加筆。
前記・吉田氏発言に、当時の中教審会長・渡邉光一郎(こういちろう)氏(経団連副会長)が改悪教育基本法を絶賛。その後も2月7日の部会の答申素案の審議等で「教育基本法の条文を記載するように」と主張。→③森友・川村両氏らは2月24日、答申案の最初の「(1)教育の普遍的な使命」にも、“国を愛する態度”を加筆してしまった。
しかし今村氏を含む出席委員らは、何の異論も述べなかった。
★ 「いいところ探し」実践は、相互監視システムを生むことも
「多様性の尊重」をねらいに、児童が互いの「いいところ」を探し、帰りの会などで相互に話す機会を設定する実践を、人権教育の一環として取り組む学校がある。学年当初の友達作り等で有効だとの報告もあるが、恒常化すると、最終的には相互監視システム構築になってしまう。「いいところ」探しは、コインの裏表の関係で、「悪いところ」探しと原理的には同じ。児童たちは常に仲間から「いい・悪い」を判断しようとする眼差しを向けられ続け、相互不信を招く状況にもなりかねない。また「いいところ」捜しは、いずれインフレを起こし、児童たちは一層細部を見ようとし、「監視」が厳しくなるのでは。その「いいところ」も、子ども同士の合意で成り立つより、結局は教員が「いい」と思うことを忖度(そんたく)し、お互いを「評価」し合うことになるのでは?
池田さんの話に、ハッとさせられる思いを抱いた筆者は、以下のように補足したい。
○ 筆者が授業参観した東京の公立小数校は、帰りの会等でクラスメートの「いいところ」を発表。これらの学校が自尊感情・自己肯定感(日本の児童・生徒は他国に比べ低い)を高めたデータはある。しかし池田さんから「わざと鉛筆を落とし、『Aさんは拾ってくれました』と発表した」という実話を聞き、無理のない範囲での実践を望みたい。
広島市立中学校2年の男子生徒が、最低気温零下4・2度だった1月25日、ジャンパーを着て登校したら、教員から「校則に基づき、着てこないよう指導」され、翌日発熱し2月1日まで欠席した事案が発生。
自尊感情・自己肯定感を高めるには、こういう超不適切な“校則”や、児童・生徒が主人公の卒業式に無関係な天皇を讃える“君が代”を、一切なくすことから始めるべきだ。
★ 問題を生み出す貧困等、社会構造を変えていく必要性
「上履きのかかとを踏んづけて履いている生徒」を、「校則違反。厳しく生活指導した」と言う教員は少なくない。しかし、「成長期で足が大きくなっても貧困ゆえ買い替えられず、踏んづけるしかない」という生徒も少なからずいる。こういう生徒を、教員は「だらしない、反抗的」と見てよいのか?
「踏んづける行為を生み出す社会構造」を見抜く必要がある。私たちの課題は、差別・排除を生み出し続ける社会構造自体を変えていくことにある。
しかし私たちは、この構造自体になかなか気付かない。人権侵害(差別)は、特定の人々をカテゴリー化(差異化)してとらえ、そこにマイナスの価値付けをし、集団間に序列を生み出すことによって成り立つ。
以上の池田さんの指摘を踏まえ、筆者も一言。
○「人権侵害は、特定の人々をカテゴリー化してとらえ・・・」は、10・23通達発出前後から、卒業式等の“君が代”不起立教職員(音楽教員の場合はピアノ不伴奏)を”課題教員”と呼び、懲戒処分発令や“いじめ研修”を強制してきた、都教委の官僚ら(もちろん元凶の文部官僚も)に当てはまる。
★ 「準備としての教育」は、優生思想に行き着く危険性
今日、様々な教育政策、学校現場での実践を支えている発想に、「準備としての教育」という考え方がある。「将来、困らないように」という言い方は、子どもにとってはかなりの恐怖だ。なぜ「今学んでいること自体に意味がある」ということにならないのか。「準備せよ」と言われれば、頑張らないといけないし、効率も求められ、「役に立つのかどうか」気になってしまう。
学校での「成功」が「生活(生存権)」と結びついている(と信じられている)ので、その不安に駆り立てられ、「準備」するしかない。それは、「逆算」的思考を一般化させる。現在、大多数の大学で新入生に対し、早期から就職についてガイダンスがある。理由は、将来の就職という目標から「逆算」し、大学での過ごし方を設計するため、とのこと。子どもたちは、小学校入学前からずっと「準備」に追われている。掛け算九九を3歳から始める塾(プログラム)すらある。
このような「よい生活」のための高学歴、そのための家庭学習、親の子育ての工夫といったように「逆算」の思考を突き詰めていくと、何に行きつくのか(?)。
池田さんはこの(?)の所で、「よい遺伝子がほしいという優生思想を正当化する方向に進んでいってしまうだろう。これは相模原での障害者虐殺事件につながっていく発想だ」と警鐘を鳴らした。
そして、「準備としての学びではなく、知ること、考えること自体に意義があり、それゆえに生活が楽しくなるような学校を、子どもと教職員とがともに創造できるような活動を模索したい」と締め括った。
筆者は学ぶことが多かった。読者の皆さんも参考にして頂ければ、と思う。
★ “君が代”不起立教員の排除を、執拗に謀む都教委
池田さんの講演後、現・元教職員から報告があった。定年退職前、都立高校の卒業式等での3回の“君が代”不起立で東京都教育委員会から戒告の不当処分を受け、再任用教諭(本来は65歳までフルタイム勤務でき、担任や校務分掌も持てる)になった後、63歳の年金支給年齢の年度末で雇い止めにされた、川村佐和(さわ)・再任用教諭に絞ってお伝えする。
川村さんは雇い止め後、22年4月から時間講師(非常勤で授業だけ持ち、担任や校務分掌は持てない)として都立高校等で勤務している。だが、臨時的任用教職員(産休・育休教員等の代替で授業等を持つ)は、都教委が22年2月下旬、採用選考実施要項の受験申込書の「賞罰」欄を、「刑罰・処分歴」欄に変えてしまったため、申し込んだが不合格になってしまっていた(筆者の親しい弁護士によると、「賞罰」欄なら「処分歴」は記入不要。詳細は『週刊新社会』22年9月14日号拙稿)。
その都教委は22年9月、今度は時間講師の受験申込書の「賞罰」欄も、「刑罰・処分歴」欄に変えてしまった。川村さんは今回の集会で、「都教委は(“君が代”被処分者を)どこまでも排除しようしており、生徒のことを考えていない。仕事を続けたいが、4月から働く場所があるかとても不安」と述べるとともに、対都教委“君が代”5次訴訟原告として闘い続ける決意を表明し、会場から大きな拍手が湧き起こった。
『マスコミ市民』(2023年4月号)
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