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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

学校は子どもたちの「生活の場所」です、「能力開発工場」ではありません。

2017年11月14日 | こども危機
  《子どもと教科書全国ネット21ニュースから》
 ◆ 小学校「外国語科(英語科)」について考える
大和俊広 藤沢市立長後小学校教諭

 管理職や指導主事でもない限り、「小学校『外国語科』についてどう思われますか?」と問われても、「まあ、忙しくなるのは間違いないだろうけど、実際のところは、よくわからない」「教科書が来て、指導書を見てから考えます」というあたりが、多くの教員の反応ではないでしょうか?
 それくらい、今の学校現場は、目の前の仕事をどうこなすかということに手一杯で、「教育論」とか「学校論」などについては、思考停止に追い込まれています。
 だから、ボクも正直、勉強不足で、今後どうなるのかはっきりとしたことはわかりません。だけど、今、明らかになっていることと、過去の教育施策により学校の風景がどんな風に変わっていったかということを考え合わせて、これから導入される小学校「外国語科」について述べてみたいと思います。
 ◆ 布石となった「外国語活動」の目標と実際
 今回の小学校「外国語科」の布石となったのは、前回の指導要領改訂で導入された「外国語活動」です。
 この時に、コミュニケーション能力の育成がさかんに教育行政からいわれるようになりました。コミュニケーション能力育成の背景をざっくりいうと、
・子どもを取り巻く社会構造の変化が、子どもたちに影響を及ぼし(地域でのコミュニティ形成が難しくなった、いじめ児童生徒間における暴力行為が増加した、外遊びや自然体験等の機会の減少により身体性や身体感覚が乏しくなったなど)、近年の若者は良好な人間関係の形成やコミュニケーションに課題がある
・経団連の調査でも、企業が学生を採用するに当たって重視する能力1位であり、グローバル化に対応レた能力の育成を求める社会的要請が高まっている。
 というようなことだったと理解しています。
 指導要領の外国語活動(英語活動)の目標にも「コミュニケーション能力の素地を養う」と明記され、「なーんで、英語を学ぶ必然性のない小学生が英語でコミュニケーション?」とか「コミュニケーションのためというなら、まずは子どもたちの生活言語である日本語ではないの?」と考えるフツーの教員たちを混乱させながら、「取りあえず、やるしかないか~!」と半ば諦め気味に、でも、みんなそこそこ真面目に取り組んできたように思います。
 現場では、ALT(外国語指導助手)の先生を中心に試行錯誤が行われ、簡単な英会話やリズム遊び、ゲーム等を中心に、それなりに子どもたちが喜ぶ授業になることもあります。
 でも、もともと引っ込み思案な子や、緊張が高い子、繊細な子の中には、ALTの先生に話しかけられること自体に抵抗があり、途中で涙ぐんだり、固まったりする子もいて、フォローが大変だったこともありました。
 明るく元気で物怖じしない子どもや、「英語習い事」をしている子どもは、嬉々として取り組むのに対し、控えめだったり、繊細だったりして、おとなしくしていたい子どもにとっては、緊張の高い苦痛な授業となる…そんな二極化を招いたような気がします。
 小学校「外国語科」でも、同様のことは予想されます。「外国語活動」は3、4年生に移され、2020年度からは、5、6年生で週2時間、年70時間ほどの「外国語科」が始まるわけですが、中学1年生の内容の一部が、小学校に降ろされることを考えると、「中一英語」と今までやっていた「外国語活動」がミックスされたような内容になるのではないでしょうか。
 ◆ 教科化に伴い「評定」により進む多忙化
 もう一つ、ポイントとして「外国語活動」という活動そのものが目的だったものが、「外国語科」として「教科化」されることがあります。
 「教科化」されれば、当然「評定」を行います。
 例えば、中学校のように、英語も「話すこと」「聞くこと」「書くこと」「読み取ること」「関心や態度」などの複数の項目が通知表に作られ、子どもたちがそのような「評価の眼差し」にさらされます
 今、教員は、説明責任の名の下に、非常に細かい資料を集め、「評定」をしなければならなくなりました。一つの項目を細かく「評定」するための材料として、テストや複数の資料が必要になるのです。
 本来は、子どもにとっては、どれくらい自分が授業内容を理解したか、教員にとっては、自分の授業がどれくらい子どもたちに伝わったかという「診断的な材料」であるはずのテストも、子どものラベル貼りとしての道具になりがちです。
 もはや、「テストから教員自身の教え方や授業内容を振り返る」ということは、死語(死行動)になってしましました。
 授業の準備だけでなく、「評定」をすることで教員の仕事量は増え、具体的な授業時数増や研修増、道徳の教科化とも関係しながら、多忙化が進む、という大きな問題を含んでいるのです。
 ボクは「教育条件」=「労働条件」だと色々な場所で言ってきました。
 教育も子育てです。「教員の働く条件がよくないと、いい教育はできない」、逆説的に言えば「ゆとりがなくなり、教員の働く条件が悪ければ、悪い教育ができる」ということです。
 今年は10年ぶりの「教員の勤務実態調査」が行われ、過労死ラインが6割などと報道されています。教員が忙しいということが、世問的にも行政的にも了解されているにもかかわらず、ほとんどひき算はされることなく、「よいと思われること」がたし算され続けているのです。
 「○○が大事」と言われても、学校現場では、いろいろな教育活動の中で、子どもたちとの関係も考えながら、バランスを取ってやってきたわけで、何かが特別に重視されれば、何かが「軽く」なるのは常でしょう。
 ボクが最初に「軽く」なると思うことは、子どもを「じっくり、のんびりみる」「子どもに思いを寄せ、ゆったり対応する」ということです。実は、成果を数値化できず、手間のかかる複雑で相対的な対応(状況に応じた対応)が必要だから、仕事としては「非効率」なのです。
 ◆ 「あれもこれもどれもそれも」の学校
 中学校の英語は、本来「中学校英語免許」を取得していなければ教えることができなかったはずですが、小学校の教員の中には「英語」が大嫌い、大の苦手という人も少なくありません。例えるなら、「英語アレルギー」の人でも「なんとか料理して食べなさい。今までは食べられなくても、よかったのですが、これからはだめです。食べなさい」ということです。
 教員だけのことならいざ知らず、「えい、びい、しい、でえ」と教えられる子どもたちだってたまらないでしょう。
 年間70時間の授業だって、小刻みに週2回やるより、3週間まとめて全部英語の方が言語の習得には効果的だという意見もありますし、日本語が得意ではないALTとの連携の問題、授業時数増で時間割をどうするか、休み時間や夏休みを削るという、子どもの気持ちを忘れた「せこい大人」路線でいいのか、などなど、他にも問題はたくさんあります。
 教育行政の善意?によって、学校は「あれもこれもどれもそれも」の状況になりました。ストレスを発散する運動もできずに、あれもこれもの「大事なこと」でお腹がいっぱいの子どもたちがたくさんいるのです。
 お腹がいっぱいになると、どんなに美味しいと言われる料理(英語)も食べられません。無理をして食べれば、嘔吐か下痢です。
 ましてや、美味しいと言われても、食べたくないものを無理やり食べさせれば、作った料理人(教員、大人)を恨むようになるのだと思います。
 学校は、子どもたちの「生活の場所」です。「能力開発工場」ではありません。
 工場では「わかりにくく非効率なことは、無駄なこと」かもしれませんが、生活の場では「大切なことほど、複雑」だから丁寧に向き合おうとします。さて、「学校」はどこへ行くのでしょうか。(やまととしひろ)
『子どもと教科書全国ネット21ニュース 115号』(2017.8)

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