◆ <私見>ニーメラーの「ナチスが共産主義者を攻撃したとき~」よりも
日本での弾圧の教訓化不全に注目を!
皆さま 高嶋伸欣です
1 学術会議の任命選別問題を論じる中で、ドイツの牧師マルティン・ニーメラーの警句「ナチスが共産主義者を攻撃したとき私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。~」に学ぶべきとの指摘がしきりにされています。
警句の内容そのものは極めて的確ですが、今回の問題に併せてこの警句が強調されている日本国内の状況に、私は違和感が強く覚えています。
2 そうした他国の知識人の警句を持ち出す一方で、日本の明治以後の歴史にそれとそっくりの事態があったことを想い起こし、そのことを教訓として権力者の横暴を許してはならないという提起があまりされていないからです。
3 しかも早くから指摘していたように官邸では、政権にたてつく不都合な人物についてのブラックリスト類の作成、
情報収集体制が整備されていたことが、杉田官房副長官の関与判明で、今では明確になってきています。
4 杉田氏は、警察・公安畑でかつての特高警察同様の国民監視業務を指揮して官邸中枢に取り込まれ、長期に居座っていることも判明しています。
5 今必要なのは、日本の歴史から教訓を学びとり、我々自身の警句を創出して共有財産化するという主体的な行動、問題提起ではないでしょうか。
6 私は歴史が専門ではなく、高校で「日本史」を選択していませんでしたが、明治から昭和20年の敗戦までにニーメラーの警句とほぼ同じ状況が日本に存在していたことを、学んでいます。
7 その概略を、私は次のように認識しています。
「思想弾圧は、最初はアナーキスト(無政府主義者)というレッテルを貼られた人々だけに限定して大衆を無関心にさせ、次の社会主義者弾圧では、関係すると怖いと思わせるほどの強権的・暴力的弾圧を加え、さらには天皇制や「聖戦」遂行に少しでも疑問を持つ者は生存を許さないとばかりに自由主義者などを特高警察が取り締まり、あの戦時中の思想統制・挙国一致で侵略に総加担態勢ができあがった」と。
8 このことを、高校と大学でほぼ毎年、生徒・学生に本来の話題に結び付けて説明してきました。
9 たとえば、地理学と地理教育には、アジア侵略の正当化論理と思想を構築し、日本中に広め植え付けた戦争責任があることと、その責任を地理学界と地理教育関係者はこれまでほとんど総括をしていないと説明した時です。
地理学と地理教育の戦争責任の問題は、ナチスの責任問題と表裏一体で、必然的にニーメラーの警句と同様のことが日本側にも起きていたことを示す事柄です。
10 日本陸軍は明治時代の創設当初こそフランスをモデルにしていましたが、まもなくドイツ(プロシャ)流に転換し、ドイツ軍人の招聘と青年将校たちの留学派遣などで、緊密な交流を重ねていました。
また地理学界でも自然地理の地形学や気候学の講座が大学に先にもうけられ、留学先としてはドイツが多く選ばれていました。
11 こうした日独の交流で、日本側がナチスの民衆弾圧と扇動、侵略の手法の基礎となる「ドイツ地政学」の論理に学んだ部分も少なくありません。そのことは、今も神田の古書店などに並ぶドイツの地政学者ハウスホーヘルの著書「地理的な発展における日本帝国」「日本及び日本人」「太平洋の地政学」などの翻訳書が裏付けています。
12 地政学は生物学の進化論を人間社会に適用した「社会ダーウィニズム」とも言われるものから派生した学説です。
優れた能力を持つ種が劣等能力の種を滅ぼすことで生き残り、結果として生物界の進化が営まれる「適者生存」の論理が成立するのであれば、生物の一種である人間界にも適用されるべきだと主張されたのです。
13 当然ながらこの「社会ダーウィニズム」の根幹は、ダーウィンの『種の起源(進化論)』(1859年)ですが、発端にさかのぼるとモンテスキューの『法の精神』(1748年)に行きつくとされています。
14 当時、ヨーロッパではキリスト教の『聖書』の恣意的便宜的な解釈に基づく非合理的かつ非科学的な社会的ルールや権力構造に疑問や不満が高まっている状況でした。そこへ社会制度は宗教的な権威とは無関係で科学的に公平に立証される自然界の形態、自然環境など公正なものに法は基づくべきだと提起したのが『法の精神』でした。
15 高位の宗教者も無宗教者や異教徒も、風雨に同様に降り注ぎ、気温の変化に身分差はなく、自然現象そのものは宗教者でも恣意的に変異させることはできない。こうしたことが、「聖書」よりもはるかに客観的、公正で平等であるように当時の人々には見えたことで、『法の精神』は受け入れられたというわけです。
*ただしこれにロックやルターなどの人権論等が組み合わされたことで、一般自然界の論理を人間社会に適用する動きがうまれるのはしばらく先になります。
16 ダーウィンの『種の起源』登場から3年後の1862年、ドイツの地理学者カール・リッターが『一般比較地理学』を発表。地表上の各地域社会の発展性は、地表が形成された時のその地の個性・自然環境によってすでに規定されているのであるから、地理学の役割は各地の自然環境の分析を通じて、個々の地域社会の先進性や後進性を明らかにすることにある、というものです。
17 これが、日本の地理学・地理教育に今なお残滓がみられる、いわゆる「自然(環境)決定論」です。典型的な話が、先進資本主義国の大半が中緯度に位置しているのは、四季の変化が刺激となって文明が発達したからというものです。
18 でも、現在では赤道直下のシンガポールが急成長し、国民一人当たりの所得等で日本を始め多くの先進資本主義国のそれを大きく上回り、同国民は豊かな生活を謳歌しています。
19 熱帯の人々は暑さのために日中は昼寝をし、怠け者なのだから後進国から抜け出せないのは当然、という俗説は「自然環境決定論」に便乗して、かつての植民地支配国が拡散したものです。
それに後発の植民地支配国の日本も便乗していました。子どもたちは、「のらくろ」や「冒険ダン吉」などの漫画でそうした偏見を植え付けられたわけです。
20 話を元に戻します。リッターの説を受け、ダーウィンの『種の起源』の論理をさらに人間社会に適用させるべきだと主張したのがフリードリヒ・ラッツェルの『政治地理学』(1897年)です。
21 生物学出身の彼は、次のように主張しました。
「ある民族が、歴史的発展の中で土地に富んでいないならば、その最高の使命は、自国の地理的状況を改善する方法をとることにある。すなわち、国内の障害を除いたり、国境を改善したり、隣接の土地を征服するとか、遠くに植民地を獲得して自国の面積を拡大することにあるのである」と。
22 生物学の発想で国家を有機体(生物)の一種とみなしていることから、彼のこの論理は「国家有機体説」とも呼ばれています。
「国家有機体説」は明らかに帝国主義の論理ですが、さらにこれを主として領土拡張問題に絞り込み、露骨な侵略正当化に進めたのがスウェーデンのチェレンの『弱肉強食の思想(地政学)』(1905年)です。
23 このチェレンの説を受け継ぎ「地政学」を侵略正当化の論理としてほぼ完成させたのがハウスホーヘルです。そして彼のミュンヘン大学での教え子が、ヒトラーの右腕として君臨した副総統のルドルフ・ヘスでした。
24 ヒトラーは、ドイツ人をこの論理の大前提である「最優秀の種」と位置付けるために「世界に冠たるアーリア民族(人種)」などという呪文を”百万回”唱え、ベルリン五輪を宣伝の場にすることすなどで、ドイツ国民を洗脳しなければなりませんでした。
25 翻って日本の場合は簡単でした。
すでに1890年の「教育勅語」渙発以後、「御真影」や神話教育の「国史科」「修身科」の国定教科書などで、マインドコントロールが徹底していました。1930年頃には45歳以下の日本国民は神話を信じ込まされ、「現人神」天皇を絶対視する教育勅語体制に取り込まれていました。
ですから「日本の『大和民族』は世界で唯一の『現人神』を戴いている最優秀民族なのであって、劣等な民族の住む大東亜を日本が盟主となって導く態勢を築くのは正当である」と言えばよかったのです。
これが日本版の地政学、「皇国地政学」の論理です。
*上記20のラッツエルから25までの経過については『読売新聞』の長期連載「昭和史の天皇」の第1745回(1972年4月1日)で、平易に説明をしています(後に『昭和史の天皇』全29巻に収録)。
26 この時、近隣のアジア諸国の人々と日本人の間に優劣の差はないと気づいている人々は少なくありませんでした。けれども、すでに弾圧は無政府主義者、社会主義・共産主義者から自由主義者にまで及んでいて、疑問や異議の声を挙げるのは生命の危機を意味するという状況で、すべてが手遅れだったのです。
27 結局、日本は自らの力では誤った道の選択を是正できず、米国を主とする軍事力に敗れ、その占領政策の下、表面上は民主化を進めました。
昭和天皇は戦犯としての訴追を免除される条件の一つとして1946年元旦に詔書を出させられます。
「人間宣言」と呼ばれているものです。
28 そこには「天皇を以て現人神とし、且(かつ)日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延べて世界を支配すべき運命を有す」等は「架空なる観念」であると明示されています。
天皇自身が「現人神」であることを否定し、アジア諸民族とも優劣の差はないとしたことで、「皇国地政学」の誤りが昭和天皇によって明らかにされたという意味をもつものです。
29 けれども、その後の日本の地理学界と地理教育界は、こうした戦争責任について正面から議論することもなく、今日に至っています。
30 もし地理学界や地理教育界が歴史分野の場合と同じように、差別と侵略の正当化理論構築と拡散の責任を総括し、その経過と結論を広く公表していたならば、どうだったでしょうか。
31 少なくとも、「ニーメラーの警句を想い起こすまでもなく、日本自身の苦い体験が想い起こされる」「戦後の総括が不徹底で生き延びた特高警察の人脈を引き継ぐ総務省(旧自治省、戦前の内務省)大臣だった菅首相にとって、戦前と同様の手法を駆使する杉田氏は極めて有能な部下に思えて当然だった」等の分析を導きだす環境形成に寄与したのではないか、と思われます。
32 その点で、地理学と地理教育の分野に属してきた者としての責任を改めて感じます。
同時に、だからこそこの機会に、”知られざる地理学・地理教育の戦争責任”について、その一部分を具体的に説明する責任を果たすことにした次第です。
33 ちなみに、ヒトラーの弾圧の順番を見ると、当時の日本の手法を参考にした可能性を感じます。ヒトラーは1930年頃からですが、日本はそれよりも前からです。
ハウスホーヘルは前出の『読売』連載記事にもありますが、1909年(明治42年)に軍務で来日して以来、日本に関心を持ち続けて情報収集を続けていたことが分かっています。
34 こうした意味でも、ニーメラーの警句を他山の石の如く引用するのではなく、「なぜ日本独自の警句が提唱されなかったのか」という問題提起がされなかったように見える今の状況を自戒を込めて、残念に思っています。
35 加えて、今になって明らかにされている前回の学術会議会員任命の際の水面下のやり取りの件、欠員補充で推薦者を拒否された件や文化功労者の人選に杉田氏が干渉した件なども気がかりです。
36 その時の当事者に過去の歴史を繰り返してはならないという強い意識があれば、仮に抵抗しきれなかったにしても、そうした不公正な実態の存在を広く知らせることができたのではないかと思えます。
37 数年前にことが表面化していれば、杉田氏の関与がその時点であぶり出され、今回の「事件」は防げたのではないかという気さえします。
厳しすぎるでしょうか?
また長文になってしまいました。 ご容赦下さい。
上記はもちろん高嶋の私見で、文責は高嶋にあります。
ご意見等を頂ければ幸いです。 転送・拡散は自由です
日本での弾圧の教訓化不全に注目を!
皆さま 高嶋伸欣です
1 学術会議の任命選別問題を論じる中で、ドイツの牧師マルティン・ニーメラーの警句「ナチスが共産主義者を攻撃したとき私は声をあげなかった。私は共産主義者ではなかったから。~」に学ぶべきとの指摘がしきりにされています。
警句の内容そのものは極めて的確ですが、今回の問題に併せてこの警句が強調されている日本国内の状況に、私は違和感が強く覚えています。
2 そうした他国の知識人の警句を持ち出す一方で、日本の明治以後の歴史にそれとそっくりの事態があったことを想い起こし、そのことを教訓として権力者の横暴を許してはならないという提起があまりされていないからです。
3 しかも早くから指摘していたように官邸では、政権にたてつく不都合な人物についてのブラックリスト類の作成、
情報収集体制が整備されていたことが、杉田官房副長官の関与判明で、今では明確になってきています。
4 杉田氏は、警察・公安畑でかつての特高警察同様の国民監視業務を指揮して官邸中枢に取り込まれ、長期に居座っていることも判明しています。
5 今必要なのは、日本の歴史から教訓を学びとり、我々自身の警句を創出して共有財産化するという主体的な行動、問題提起ではないでしょうか。
6 私は歴史が専門ではなく、高校で「日本史」を選択していませんでしたが、明治から昭和20年の敗戦までにニーメラーの警句とほぼ同じ状況が日本に存在していたことを、学んでいます。
7 その概略を、私は次のように認識しています。
「思想弾圧は、最初はアナーキスト(無政府主義者)というレッテルを貼られた人々だけに限定して大衆を無関心にさせ、次の社会主義者弾圧では、関係すると怖いと思わせるほどの強権的・暴力的弾圧を加え、さらには天皇制や「聖戦」遂行に少しでも疑問を持つ者は生存を許さないとばかりに自由主義者などを特高警察が取り締まり、あの戦時中の思想統制・挙国一致で侵略に総加担態勢ができあがった」と。
8 このことを、高校と大学でほぼ毎年、生徒・学生に本来の話題に結び付けて説明してきました。
9 たとえば、地理学と地理教育には、アジア侵略の正当化論理と思想を構築し、日本中に広め植え付けた戦争責任があることと、その責任を地理学界と地理教育関係者はこれまでほとんど総括をしていないと説明した時です。
地理学と地理教育の戦争責任の問題は、ナチスの責任問題と表裏一体で、必然的にニーメラーの警句と同様のことが日本側にも起きていたことを示す事柄です。
10 日本陸軍は明治時代の創設当初こそフランスをモデルにしていましたが、まもなくドイツ(プロシャ)流に転換し、ドイツ軍人の招聘と青年将校たちの留学派遣などで、緊密な交流を重ねていました。
また地理学界でも自然地理の地形学や気候学の講座が大学に先にもうけられ、留学先としてはドイツが多く選ばれていました。
11 こうした日独の交流で、日本側がナチスの民衆弾圧と扇動、侵略の手法の基礎となる「ドイツ地政学」の論理に学んだ部分も少なくありません。そのことは、今も神田の古書店などに並ぶドイツの地政学者ハウスホーヘルの著書「地理的な発展における日本帝国」「日本及び日本人」「太平洋の地政学」などの翻訳書が裏付けています。
12 地政学は生物学の進化論を人間社会に適用した「社会ダーウィニズム」とも言われるものから派生した学説です。
優れた能力を持つ種が劣等能力の種を滅ぼすことで生き残り、結果として生物界の進化が営まれる「適者生存」の論理が成立するのであれば、生物の一種である人間界にも適用されるべきだと主張されたのです。
13 当然ながらこの「社会ダーウィニズム」の根幹は、ダーウィンの『種の起源(進化論)』(1859年)ですが、発端にさかのぼるとモンテスキューの『法の精神』(1748年)に行きつくとされています。
14 当時、ヨーロッパではキリスト教の『聖書』の恣意的便宜的な解釈に基づく非合理的かつ非科学的な社会的ルールや権力構造に疑問や不満が高まっている状況でした。そこへ社会制度は宗教的な権威とは無関係で科学的に公平に立証される自然界の形態、自然環境など公正なものに法は基づくべきだと提起したのが『法の精神』でした。
15 高位の宗教者も無宗教者や異教徒も、風雨に同様に降り注ぎ、気温の変化に身分差はなく、自然現象そのものは宗教者でも恣意的に変異させることはできない。こうしたことが、「聖書」よりもはるかに客観的、公正で平等であるように当時の人々には見えたことで、『法の精神』は受け入れられたというわけです。
*ただしこれにロックやルターなどの人権論等が組み合わされたことで、一般自然界の論理を人間社会に適用する動きがうまれるのはしばらく先になります。
16 ダーウィンの『種の起源』登場から3年後の1862年、ドイツの地理学者カール・リッターが『一般比較地理学』を発表。地表上の各地域社会の発展性は、地表が形成された時のその地の個性・自然環境によってすでに規定されているのであるから、地理学の役割は各地の自然環境の分析を通じて、個々の地域社会の先進性や後進性を明らかにすることにある、というものです。
17 これが、日本の地理学・地理教育に今なお残滓がみられる、いわゆる「自然(環境)決定論」です。典型的な話が、先進資本主義国の大半が中緯度に位置しているのは、四季の変化が刺激となって文明が発達したからというものです。
18 でも、現在では赤道直下のシンガポールが急成長し、国民一人当たりの所得等で日本を始め多くの先進資本主義国のそれを大きく上回り、同国民は豊かな生活を謳歌しています。
19 熱帯の人々は暑さのために日中は昼寝をし、怠け者なのだから後進国から抜け出せないのは当然、という俗説は「自然環境決定論」に便乗して、かつての植民地支配国が拡散したものです。
それに後発の植民地支配国の日本も便乗していました。子どもたちは、「のらくろ」や「冒険ダン吉」などの漫画でそうした偏見を植え付けられたわけです。
20 話を元に戻します。リッターの説を受け、ダーウィンの『種の起源』の論理をさらに人間社会に適用させるべきだと主張したのがフリードリヒ・ラッツェルの『政治地理学』(1897年)です。
21 生物学出身の彼は、次のように主張しました。
「ある民族が、歴史的発展の中で土地に富んでいないならば、その最高の使命は、自国の地理的状況を改善する方法をとることにある。すなわち、国内の障害を除いたり、国境を改善したり、隣接の土地を征服するとか、遠くに植民地を獲得して自国の面積を拡大することにあるのである」と。
22 生物学の発想で国家を有機体(生物)の一種とみなしていることから、彼のこの論理は「国家有機体説」とも呼ばれています。
「国家有機体説」は明らかに帝国主義の論理ですが、さらにこれを主として領土拡張問題に絞り込み、露骨な侵略正当化に進めたのがスウェーデンのチェレンの『弱肉強食の思想(地政学)』(1905年)です。
23 このチェレンの説を受け継ぎ「地政学」を侵略正当化の論理としてほぼ完成させたのがハウスホーヘルです。そして彼のミュンヘン大学での教え子が、ヒトラーの右腕として君臨した副総統のルドルフ・ヘスでした。
24 ヒトラーは、ドイツ人をこの論理の大前提である「最優秀の種」と位置付けるために「世界に冠たるアーリア民族(人種)」などという呪文を”百万回”唱え、ベルリン五輪を宣伝の場にすることすなどで、ドイツ国民を洗脳しなければなりませんでした。
25 翻って日本の場合は簡単でした。
すでに1890年の「教育勅語」渙発以後、「御真影」や神話教育の「国史科」「修身科」の国定教科書などで、マインドコントロールが徹底していました。1930年頃には45歳以下の日本国民は神話を信じ込まされ、「現人神」天皇を絶対視する教育勅語体制に取り込まれていました。
ですから「日本の『大和民族』は世界で唯一の『現人神』を戴いている最優秀民族なのであって、劣等な民族の住む大東亜を日本が盟主となって導く態勢を築くのは正当である」と言えばよかったのです。
これが日本版の地政学、「皇国地政学」の論理です。
*上記20のラッツエルから25までの経過については『読売新聞』の長期連載「昭和史の天皇」の第1745回(1972年4月1日)で、平易に説明をしています(後に『昭和史の天皇』全29巻に収録)。
26 この時、近隣のアジア諸国の人々と日本人の間に優劣の差はないと気づいている人々は少なくありませんでした。けれども、すでに弾圧は無政府主義者、社会主義・共産主義者から自由主義者にまで及んでいて、疑問や異議の声を挙げるのは生命の危機を意味するという状況で、すべてが手遅れだったのです。
27 結局、日本は自らの力では誤った道の選択を是正できず、米国を主とする軍事力に敗れ、その占領政策の下、表面上は民主化を進めました。
昭和天皇は戦犯としての訴追を免除される条件の一つとして1946年元旦に詔書を出させられます。
「人間宣言」と呼ばれているものです。
28 そこには「天皇を以て現人神とし、且(かつ)日本国民を以て他の民族に優越せる民族にして、延べて世界を支配すべき運命を有す」等は「架空なる観念」であると明示されています。
天皇自身が「現人神」であることを否定し、アジア諸民族とも優劣の差はないとしたことで、「皇国地政学」の誤りが昭和天皇によって明らかにされたという意味をもつものです。
29 けれども、その後の日本の地理学界と地理教育界は、こうした戦争責任について正面から議論することもなく、今日に至っています。
30 もし地理学界や地理教育界が歴史分野の場合と同じように、差別と侵略の正当化理論構築と拡散の責任を総括し、その経過と結論を広く公表していたならば、どうだったでしょうか。
31 少なくとも、「ニーメラーの警句を想い起こすまでもなく、日本自身の苦い体験が想い起こされる」「戦後の総括が不徹底で生き延びた特高警察の人脈を引き継ぐ総務省(旧自治省、戦前の内務省)大臣だった菅首相にとって、戦前と同様の手法を駆使する杉田氏は極めて有能な部下に思えて当然だった」等の分析を導きだす環境形成に寄与したのではないか、と思われます。
32 その点で、地理学と地理教育の分野に属してきた者としての責任を改めて感じます。
同時に、だからこそこの機会に、”知られざる地理学・地理教育の戦争責任”について、その一部分を具体的に説明する責任を果たすことにした次第です。
33 ちなみに、ヒトラーの弾圧の順番を見ると、当時の日本の手法を参考にした可能性を感じます。ヒトラーは1930年頃からですが、日本はそれよりも前からです。
ハウスホーヘルは前出の『読売』連載記事にもありますが、1909年(明治42年)に軍務で来日して以来、日本に関心を持ち続けて情報収集を続けていたことが分かっています。
34 こうした意味でも、ニーメラーの警句を他山の石の如く引用するのではなく、「なぜ日本独自の警句が提唱されなかったのか」という問題提起がされなかったように見える今の状況を自戒を込めて、残念に思っています。
35 加えて、今になって明らかにされている前回の学術会議会員任命の際の水面下のやり取りの件、欠員補充で推薦者を拒否された件や文化功労者の人選に杉田氏が干渉した件なども気がかりです。
36 その時の当事者に過去の歴史を繰り返してはならないという強い意識があれば、仮に抵抗しきれなかったにしても、そうした不公正な実態の存在を広く知らせることができたのではないかと思えます。
37 数年前にことが表面化していれば、杉田氏の関与がその時点であぶり出され、今回の「事件」は防げたのではないかという気さえします。
厳しすぎるでしょうか?
また長文になってしまいました。 ご容赦下さい。
上記はもちろん高嶋の私見で、文責は高嶋にあります。
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