★ <お薦め映画>『ハクソー・リッジ』
=75人の負傷兵を単独で救助した衛生兵の実話モデルが沖縄の現場を再訪!
皆さま 高嶋伸欣です
不愉快な話題ばかりの昨今、最近公開された米国の映画『ハクソー・リッジ』については、新聞などのの紹介記事などから久しぶりに是非とも見に行きたいという思いにされていました。
添付資料1枚目の『東京新聞』の紹介記事をご覧ください。(略)
沖縄戦の激戦地、前田高地で部隊の撤退後もただ一人で75人の負傷兵を救助した衛生兵の実話を再現したとのことでした。前田高地(ハクソー・リッジ=のこぎり崖)は、浦添城址のある高台で、私が琉球大学に在職中に住んでいたのもその高台の北側斜面に立つ公務員住宅でした。
そうしたこともあって、見に行きたいという思いが募っていた処へ、添付資料2・3の記事が『琉球新報』に掲載されたのです。(略)
※ 悪夢苦しんだ戦後 米映画「ハクソー・リッジ」モデルのドスさん 95年来沖
『琉球新報』(2017年6月26日)
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-521541.html
モデルとなった衛生兵のデスモンド・ドス氏は生き延び、戦場での戦時外傷後ストレス障害(PTSD)を克服して、69年と95年に沖縄を再訪していたということです。
しかもこの記事をよく読むと、95年の訪問時に『琉新』の記者がドス氏に取材して送稿したけれども、編集部でボツになり、忘れ去られていたとのことです。
それが、今回の映画の予告編を見た記者が、95年に取材した米兵ではないかと気づき、当時のメモ帳を探し出して新たにまとめたのが、今回の『琉新』の記事ということになります。
記事の内容そのものにも興味を惹かれますが、95年の時には記事が掲載されなかったことにも関心を向けたくなります。
「平和の礎」は95年6月23日に除幕され、日本側だけでなく敵方の連合軍兵士も時代状況によって死に追い込まれた人々として、日本側と同等に刻銘している点が、連合国軍側から高く評価されているものです。
同じ95年ですが、記事の原稿と除幕とどちらが先だったのかは不明ですが、除幕によって一気に米兵への評価が「敵」ではなくなるというものでもないでしょうから、「ボツ」の判断はやはりありえたという気がします。
それにしても今回の映画化によって、95年の時の取材メモが日の目を見たというエピソードも、強い印象を与えてくれました。
『琉新』のこのエピソードが「本土」のマスコミでは紹介されていない模様ですので出しゃばり、添付資料ともども皆さんに紹介することにした次第です。
映画館でパンフを入手したら、何か授業の組み立てができそうな話題ではないかという気もします。
*体調管理の医者の指示で、今少し自重していますが、許しが得られ次第に視にいくつもりです。
以上 ご参考までに
*転送・拡散は自由ですが、著作権にご配慮下さい
※参考 「ハクソー・リッジ」沖縄隠しの理由
『LITERA/リテラ 本と雑誌の知を再発見』(2017.06.27)
http://lite-ra.com/2017/06/post-3276.html
=75人の負傷兵を単独で救助した衛生兵の実話モデルが沖縄の現場を再訪!
皆さま 高嶋伸欣です
不愉快な話題ばかりの昨今、最近公開された米国の映画『ハクソー・リッジ』については、新聞などのの紹介記事などから久しぶりに是非とも見に行きたいという思いにされていました。
添付資料1枚目の『東京新聞』の紹介記事をご覧ください。(略)
沖縄戦の激戦地、前田高地で部隊の撤退後もただ一人で75人の負傷兵を救助した衛生兵の実話を再現したとのことでした。前田高地(ハクソー・リッジ=のこぎり崖)は、浦添城址のある高台で、私が琉球大学に在職中に住んでいたのもその高台の北側斜面に立つ公務員住宅でした。
そうしたこともあって、見に行きたいという思いが募っていた処へ、添付資料2・3の記事が『琉球新報』に掲載されたのです。(略)
※ 悪夢苦しんだ戦後 米映画「ハクソー・リッジ」モデルのドスさん 95年来沖
『琉球新報』(2017年6月26日)
https://ryukyushimpo.jp/news/entry-521541.html
モデルとなった衛生兵のデスモンド・ドス氏は生き延び、戦場での戦時外傷後ストレス障害(PTSD)を克服して、69年と95年に沖縄を再訪していたということです。
しかもこの記事をよく読むと、95年の訪問時に『琉新』の記者がドス氏に取材して送稿したけれども、編集部でボツになり、忘れ去られていたとのことです。
それが、今回の映画の予告編を見た記者が、95年に取材した米兵ではないかと気づき、当時のメモ帳を探し出して新たにまとめたのが、今回の『琉新』の記事ということになります。
記事の内容そのものにも興味を惹かれますが、95年の時には記事が掲載されなかったことにも関心を向けたくなります。
「平和の礎」は95年6月23日に除幕され、日本側だけでなく敵方の連合軍兵士も時代状況によって死に追い込まれた人々として、日本側と同等に刻銘している点が、連合国軍側から高く評価されているものです。
同じ95年ですが、記事の原稿と除幕とどちらが先だったのかは不明ですが、除幕によって一気に米兵への評価が「敵」ではなくなるというものでもないでしょうから、「ボツ」の判断はやはりありえたという気がします。
それにしても今回の映画化によって、95年の時の取材メモが日の目を見たというエピソードも、強い印象を与えてくれました。
『琉新』のこのエピソードが「本土」のマスコミでは紹介されていない模様ですので出しゃばり、添付資料ともども皆さんに紹介することにした次第です。
映画館でパンフを入手したら、何か授業の組み立てができそうな話題ではないかという気もします。
*体調管理の医者の指示で、今少し自重していますが、許しが得られ次第に視にいくつもりです。
以上 ご参考までに
*転送・拡散は自由ですが、著作権にご配慮下さい
※参考 「ハクソー・リッジ」沖縄隠しの理由
『LITERA/リテラ 本と雑誌の知を再発見』(2017.06.27)
http://lite-ra.com/2017/06/post-3276.html
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