≪特集≫福島原発事故 労働現場から告発する (労働情報)
◆ 自らの事例を突破口に全国の仲間たちと闘う元作作業員
高橋圭吾(仮名)は、2011年10月、地震と津波で被災した東北の人たちの支援になればという思いから、福島第二原子力発電所での仕事に携わった。
地元・北九州の企業から20人のチームを率いて出張。現場では、工事長として原子炉建屋のシャッターを鉄板で覆う作業を指導・監督した。作業員は、当時30代だった高橋さんも含め、40代や50代。工事は、さらなる津波から建屋を保護する策だったという。
1号機から3号機までを手がけたが、仕事がはやかったことを認められ、福島第一原発(イチエフ)での仕事の依頼が舞い込んだ。高橋さんは、こう話す。
「第二原発は、東北の人のために仕方なく行ったけど、イチエフは線量が高かったから、最初は断った」。
汚染の状況だけでなく、寮など居住環境についてもプライバシーがない、食事が充実していないなどの報道を見聞きしていたため、「仕事なら地元でなんぼでもあるのに、なおさら行きたいと思わなかった」。しかし、仲間のうちには、特攻隊のようにお国のためにと思って決断した人もいる、と高橋さんは思い出す。
結局、イチエフでは2012年10月から2013年12月まで、同じように建築の鍛冶工事に従事した。
高線量で汚染された職場では、同僚が被ばくの健康への影響など頻繁に話題にしていたが、高橋さんは「男のくせにくよくよ考えすぎだ」と一蹴していた。
自身は、放射能の影響やそれが原因となる病気についての知識も興味ももっていなかった。
◆ イチエフに一年でも発症
2013年頃、原発作業員に危険手当が正当に支払われていなかった事実が報道で明らかになり、それに突き動かされて高橋さんらも元請け企業である鹿島建設と雇用主の3次下請け企業を糾弾した。
結果、間に立つ福井県のS工業からは、危険手当として80万円が振り込まれたが、チームとして働いた全員が同じ処遇を受けたかどうかは定かでない。
こうしたトラブルも重なり、仕事はあったものの嫌気がさした高橋さんは、地元に引き上げることにした。
体調に異変を感じたのはその直後だった。
から咳と37度の微熱が続き、風邪薬を服用したが効果が見られない。
病院で検査をしたところ、白血病だと診断された。「被ばくとの因果関係を否定できない」として全国で初めて白血病が労災認定されたケースとなった。
高橋さんは1月に入院するが、それでも被ばくとの関係を疑わず、ただ死と向き合ったという。
「当時は、ほかに何も考える気力もなかった。ただ、白血病は死ぬ病気。オレは運がなかったんだ、とだけ思った」
そう話す高橋さんには、3人の子どもがいる。
一番小さい子がまだ小学校に行く前のことで、頭に浮かぶのは「ランドセルを背負って通う姿も見れないで俺は逝くのか」という無念さだけだった。
そのあと、10カ月ほどかけて抗がん剤治療を受け、他人ではなく自分の骨髄を移植する療法で回復に向かった。
◆ 使い捨てを許さない
治療中に富岡監督署が労災申請をしてくれ認定を受けたが、その間1年7カ月。医療費は貯蓄と生命保険の解約などでまかなった。
労働災害保障の制度はあるが、生活補償も受られず、査定に時間がかかりすぎるこの制度に、高橋さんは疑問を投げかける。
「自分には気持ちに余裕があったけど、労災申請から認定までの間、生活していくのは大変。それに、表向きはだれでも受給できるようにうたってはいても、認定されればいいが、国の労災認定の基準は厳しすぎるし、時間がかかりすぎる」。高橋さんは指摘する。
元請けの鹿島建設は、高橋さんの労災申請について、化学的根拠がないうえに、賠償の責任は東電にあると回答している。
それを受けて、高橋さんは「日本一の建設会社なのに、書いていることは“イモ”のよう」と怒りを隠せない。
北九州市でも友人や知人に原発で働く仲間が多い高橋さんは、いまでこそ原発に反対する立場で労働組合や活動家たちと声をあわせるが、ついーカ月前まで原発容認派だったという。
視点の変化をこう説明する。
「(元請け企業や東電や政府の)やり方がきたない。原子力は国策と言いつつも、収束や廃炉のために働く労働者は公務員として保護されず、社会保障や医療保険さえ自己負担とされている」
自分の事例を突破口として、原発災害から5年の間、放射能汚染された職場で働いてきた4万人以上もの労働者が、必要とあれば労災申請しても認定されるよう、仲間とともに闘っていくー。いま高橋さんは、そう決意している。
『労働情報 930号』(2016.3.1)
◆ 自らの事例を突破口に全国の仲間たちと闘う元作作業員
松元千枝(team rodojoho)
高橋圭吾(仮名)は、2011年10月、地震と津波で被災した東北の人たちの支援になればという思いから、福島第二原子力発電所での仕事に携わった。
地元・北九州の企業から20人のチームを率いて出張。現場では、工事長として原子炉建屋のシャッターを鉄板で覆う作業を指導・監督した。作業員は、当時30代だった高橋さんも含め、40代や50代。工事は、さらなる津波から建屋を保護する策だったという。
1号機から3号機までを手がけたが、仕事がはやかったことを認められ、福島第一原発(イチエフ)での仕事の依頼が舞い込んだ。高橋さんは、こう話す。
「第二原発は、東北の人のために仕方なく行ったけど、イチエフは線量が高かったから、最初は断った」。
汚染の状況だけでなく、寮など居住環境についてもプライバシーがない、食事が充実していないなどの報道を見聞きしていたため、「仕事なら地元でなんぼでもあるのに、なおさら行きたいと思わなかった」。しかし、仲間のうちには、特攻隊のようにお国のためにと思って決断した人もいる、と高橋さんは思い出す。
結局、イチエフでは2012年10月から2013年12月まで、同じように建築の鍛冶工事に従事した。
高線量で汚染された職場では、同僚が被ばくの健康への影響など頻繁に話題にしていたが、高橋さんは「男のくせにくよくよ考えすぎだ」と一蹴していた。
自身は、放射能の影響やそれが原因となる病気についての知識も興味ももっていなかった。
◆ イチエフに一年でも発症
2013年頃、原発作業員に危険手当が正当に支払われていなかった事実が報道で明らかになり、それに突き動かされて高橋さんらも元請け企業である鹿島建設と雇用主の3次下請け企業を糾弾した。
結果、間に立つ福井県のS工業からは、危険手当として80万円が振り込まれたが、チームとして働いた全員が同じ処遇を受けたかどうかは定かでない。
こうしたトラブルも重なり、仕事はあったものの嫌気がさした高橋さんは、地元に引き上げることにした。
体調に異変を感じたのはその直後だった。
から咳と37度の微熱が続き、風邪薬を服用したが効果が見られない。
病院で検査をしたところ、白血病だと診断された。「被ばくとの因果関係を否定できない」として全国で初めて白血病が労災認定されたケースとなった。
高橋さんは1月に入院するが、それでも被ばくとの関係を疑わず、ただ死と向き合ったという。
「当時は、ほかに何も考える気力もなかった。ただ、白血病は死ぬ病気。オレは運がなかったんだ、とだけ思った」
そう話す高橋さんには、3人の子どもがいる。
一番小さい子がまだ小学校に行く前のことで、頭に浮かぶのは「ランドセルを背負って通う姿も見れないで俺は逝くのか」という無念さだけだった。
そのあと、10カ月ほどかけて抗がん剤治療を受け、他人ではなく自分の骨髄を移植する療法で回復に向かった。
◆ 使い捨てを許さない
治療中に富岡監督署が労災申請をしてくれ認定を受けたが、その間1年7カ月。医療費は貯蓄と生命保険の解約などでまかなった。
労働災害保障の制度はあるが、生活補償も受られず、査定に時間がかかりすぎるこの制度に、高橋さんは疑問を投げかける。
「自分には気持ちに余裕があったけど、労災申請から認定までの間、生活していくのは大変。それに、表向きはだれでも受給できるようにうたってはいても、認定されればいいが、国の労災認定の基準は厳しすぎるし、時間がかかりすぎる」。高橋さんは指摘する。
元請けの鹿島建設は、高橋さんの労災申請について、化学的根拠がないうえに、賠償の責任は東電にあると回答している。
それを受けて、高橋さんは「日本一の建設会社なのに、書いていることは“イモ”のよう」と怒りを隠せない。
北九州市でも友人や知人に原発で働く仲間が多い高橋さんは、いまでこそ原発に反対する立場で労働組合や活動家たちと声をあわせるが、ついーカ月前まで原発容認派だったという。
視点の変化をこう説明する。
「(元請け企業や東電や政府の)やり方がきたない。原子力は国策と言いつつも、収束や廃炉のために働く労働者は公務員として保護されず、社会保障や医療保険さえ自己負担とされている」
自分の事例を突破口として、原発災害から5年の間、放射能汚染された職場で働いてきた4万人以上もの労働者が、必要とあれば労災申請しても認定されるよう、仲間とともに闘っていくー。いま高橋さんは、そう決意している。
『労働情報 930号』(2016.3.1)
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