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パワー・トゥ・ザ・ピープル!!アーカイブ

東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

シリーズあの時4

2008年01月24日 | 日の丸・君が代関連ニュース
 『ほっととーく 61』より

 <<シリーズあのとき>>
 ◎ 大東小卒業式「ボイコット」事件(その2)

大城資子

 87年3月の練馬区立大泉東小卒業式「ボイコット」事件は,21名の処分者(減給4名,戒告15名,訓告2名)を出したが,学校「正常化」にむけた学校・組合一体となった「努力」で,4月の入学式は「滞りなく」行われた。
 6月末に3人の教員が東京都人事委員会に処分を不服として申し立てをした。この闘いは大東小ではほとんど黙殺されていたが,私は一度だけ傍聴に行ったことがある。そこで偶然,大学時代の先輩Fさんに会った。彼は当時たしか西多摩教組にいて,支援に来たと言う。地元では批判されるばかりだったので,同じ教員組合なのにこうも違う対応があるのだと,孤立感がいやされて嬉しかったのを覚えている。
 練教組の「大東小事件から何を学ぶか」という学習会にも参加した。反省ばかりしていないで,自分のやむにやまれぬ思いをどうして認め伝えないのかな,と憤慨し,突っ張って発言していたので,私はどこかの党派の人間らしい,とうわさがたったという笑い話まである。
 大東小「事件」と時を同じくして,沖縄読谷村では生徒が壇上の日の丸を投げ捨てたり,福岡で保護者が日の丸を取り外したりと,市民の抵抗が続いていた。しかし大東小の教員たちは(もちろん私も),年中行事のようにしんどい話し合いを続けることに,次第に疲労する。「もうあんなことはイヤだ」という気分の中,翌年度の卒業式は,教職員の「合意」の上で,会場正面に自の丸が掲揚された。
 一方,練馬区民の動きは活発になっていた。

 私も,子どもを通わせている保育所の仲間たちや,大東小事件をきっかけに立ち上がっていた仲間たちとともに,討論会「日の丸・君が代を練馬で語ろう」を開催。会場内には右翼らしい人も参加していて緊張もしたが,来場した「日の丸OK」の区議を質問攻めにしたりして,元気よく終了。もっとも,それからまもなく,民社党(当時)の積極的なキャンペーンなどにより,練馬区議会は国旗掲揚決詞をあげてしまったけど……。
 人事委員会の公開口頭審査では,3教員の一人0さんが鈴木校長に証人尋問。
 「前年度の卒業式と比べて(「ボイコット事件」の卒業式は)どうでしたか」との問いに,校長は「日の丸があがって,学習指導要領に近づいたので,よかった」と答えた。彼が学習指導要領先取りの確信犯だったことがよく分かる。
 3教員の闘いは,当事者自身が支援や連帯を求めない形であり,広がりきれずに終わったが,彼らの思いのこもった発言をここにとどめておこう。
 Kさん 「不当なことに対しては断固として闘うことを子ども達に示した。」
 Mさん 「こんなことならもっと早い時期に徹底的に抵抗しておけばよかった。」
 Oさん 「(申し立ては)学校教育に再び過ちを犯させようとしているものに対する抵抗であり,鈴木校長こそ,教育行政の不当な支配の生き証人である。」
 89年1月,昭和天皇が死去し,学校に半旗を掲げる朝が来た。私なりのNOを,この日のために買い込んだ真っ赤なコートにこめて「全校朝礼」に臨んだ。天皇恩赦により大東小の処分は取り消しとなった
 この原稿を書くために資料を漁っていて見つけた,この時期の公明党の見解は興味深い。
 「オリンピックや大相撲などでは定着しているとはいえ,思想・信条の自由に抵触する課題でもあり,入学式や卒業式で強制させることは好ましいとはいえない(「公明新聞」89年4月11日号)」。
 ここから,どこをどうたどって,教育現場の「自由」が剥ぎ取られていったのか。私は気づかぬうち見落としたり,見ぬふりをしたり……。不十分さをかみしめながらも,いま何ができるのかを考えるとき,自分の契機となったこの「事件」を忘れまいと思っている。(了)

<<シリーズあのとき>>
◎ 大東小卒業式「ボイコット」事件
(その1)
http://wind.ap.teacup.com/people/1974.html

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