=元プロ野球選手 杉下茂さんインタビュー (東京新聞)=
◆ 「戦争は人間の未来を奪う」
~フォークの神様・杉下茂さん(94)がひ孫世代に伝えたいこと

沖縄県糸満市の平和祈念公園で手を合わせる杉下さん。「平和の礎」には兄・安佑さんの名が刻まれている
後世に伝えるべき記憶が風化しつつある今、プロ野球中日で投手として活躍した杉下茂さん(94)は「人の未来を奪う戦争は、何があっても二度と起こしてはならない。あのときのことを言葉にして残しておくのが、生き残ったわれわれの役目でもある」と本紙のインタビューに応じた。(聞き手=編集委員・谷野哲郎)
<抜粋>
◆ 1942年-1943年 「幻の甲子園」
「あれは帝京商3年生の1941年だった。地区予選を勝ち抜いて、さあ、甲子園だというところで、中止になってしまった。残念だったが、大人たちはそれどころではないという感じ。今年はコロナで中止になったが、私たちのとき以来、79年ぶりだというね。この年の12月、日本は太平洋戦争に突入したんだ」
―そのときの思いは。
「日本はどうなってしまうのかという不安と野球をやりたい気持ちが入り交じっていた。1942年は文部省(現文部科学省)が主催となって夏の大会が復活したが、正式な大会ではないため、『幻の甲子園』と呼ばれている。私は予選に出たが、この大会は戦意高揚が目的だったから、投手からぶつけられても『球から逃げるとは何事だ』と怒られ、死球を取ってもらえなかった。ひどい時代だった」
―「魂の野球」と呼ばれた時代ですね。選手は審判におかしいとは言えない雰囲気だったのですか。
「何しろ、世の中全てがそうだった。大人からああしろこうしろと言われれば、『ハイ』と答えるしかなかった。異議を唱えるなんて許されなかった。国はそこのところをよく考えて、子どもたちに『お国のために』と教え込んだ。軍事教育だね。だから、私は教育というのは本当に大事で、国が危うくなるときは教育からおかしくなると思っている」
(略)
◆ 1946年-現在 ひもじいって言葉を知っているかい?
―無事に帰ってこられて、安心できましたか。
「戦争の怖いところは、終戦が本当の終わりではないところだ。戦後はとにかく、食べる物がないんだ。『ひもじい』という言葉を知っているかい。いつもおなかをすかせていた。日本中がそうだった」
―今は本当の意味で「ひもじさ」というのは経験していない人が多いと思います。
「例えば、昼食は小麦粉を水で溶いて、フライパンで焼く。それに塩を振って食べた。具のないクレープみたいなもので、おなかいっぱいになることはなかった。夕飯はおかゆや重湯が少しだけ。『いただきます』と頭を下げて、丼と一緒に頭を上げたときにはもう『ごちそうさま』と、おなかの中に入っていた。1週間、グリーンピースの缶詰だけというときもあった。人間、食べるものがあるだけで幸せなことだと思う」
―戦後、75年がたち、当時の様子を話せる人が少なくなりました。最後に戦争経験者として次の世代に残したい思いを聞かせてください。
「あの戦争では多くの若者が犠牲になった。兄は野球がうまかったから、無事でいたら、私を上回る野球選手になっていたことだろう。人間の未来や可能性を奪ってしまう戦争は二度と起こしてはいけない。そのためには誰もが意見が言える世の中にしておくことだ。戦争中は上官が突撃しろといったら『ハイ』といって従った。それが特攻や自決につながった。そんなのは間違っている。私はおかしいことをおかしいと言えない空気が悲劇を生んだと思う。誰もが自由に声を挙げられる世の中、『そうじゃない』と批判ができる世の中をいつまでも残してほしいと思っています」
『東京新聞Web』2020年8月14日 05時50分
https://www.tokyo-np.co.jp/article/48776
◆ 「戦争は人間の未来を奪う」
~フォークの神様・杉下茂さん(94)がひ孫世代に伝えたいこと

沖縄県糸満市の平和祈念公園で手を合わせる杉下さん。「平和の礎」には兄・安佑さんの名が刻まれている
後世に伝えるべき記憶が風化しつつある今、プロ野球中日で投手として活躍した杉下茂さん(94)は「人の未来を奪う戦争は、何があっても二度と起こしてはならない。あのときのことを言葉にして残しておくのが、生き残ったわれわれの役目でもある」と本紙のインタビューに応じた。(聞き手=編集委員・谷野哲郎)
<抜粋>
◆ 1942年-1943年 「幻の甲子園」
「あれは帝京商3年生の1941年だった。地区予選を勝ち抜いて、さあ、甲子園だというところで、中止になってしまった。残念だったが、大人たちはそれどころではないという感じ。今年はコロナで中止になったが、私たちのとき以来、79年ぶりだというね。この年の12月、日本は太平洋戦争に突入したんだ」
―そのときの思いは。
「日本はどうなってしまうのかという不安と野球をやりたい気持ちが入り交じっていた。1942年は文部省(現文部科学省)が主催となって夏の大会が復活したが、正式な大会ではないため、『幻の甲子園』と呼ばれている。私は予選に出たが、この大会は戦意高揚が目的だったから、投手からぶつけられても『球から逃げるとは何事だ』と怒られ、死球を取ってもらえなかった。ひどい時代だった」
―「魂の野球」と呼ばれた時代ですね。選手は審判におかしいとは言えない雰囲気だったのですか。
「何しろ、世の中全てがそうだった。大人からああしろこうしろと言われれば、『ハイ』と答えるしかなかった。異議を唱えるなんて許されなかった。国はそこのところをよく考えて、子どもたちに『お国のために』と教え込んだ。軍事教育だね。だから、私は教育というのは本当に大事で、国が危うくなるときは教育からおかしくなると思っている」
(略)
◆ 1946年-現在 ひもじいって言葉を知っているかい?
―無事に帰ってこられて、安心できましたか。
「戦争の怖いところは、終戦が本当の終わりではないところだ。戦後はとにかく、食べる物がないんだ。『ひもじい』という言葉を知っているかい。いつもおなかをすかせていた。日本中がそうだった」
―今は本当の意味で「ひもじさ」というのは経験していない人が多いと思います。
「例えば、昼食は小麦粉を水で溶いて、フライパンで焼く。それに塩を振って食べた。具のないクレープみたいなもので、おなかいっぱいになることはなかった。夕飯はおかゆや重湯が少しだけ。『いただきます』と頭を下げて、丼と一緒に頭を上げたときにはもう『ごちそうさま』と、おなかの中に入っていた。1週間、グリーンピースの缶詰だけというときもあった。人間、食べるものがあるだけで幸せなことだと思う」
―戦後、75年がたち、当時の様子を話せる人が少なくなりました。最後に戦争経験者として次の世代に残したい思いを聞かせてください。
「あの戦争では多くの若者が犠牲になった。兄は野球がうまかったから、無事でいたら、私を上回る野球選手になっていたことだろう。人間の未来や可能性を奪ってしまう戦争は二度と起こしてはいけない。そのためには誰もが意見が言える世の中にしておくことだ。戦争中は上官が突撃しろといったら『ハイ』といって従った。それが特攻や自決につながった。そんなのは間違っている。私はおかしいことをおかしいと言えない空気が悲劇を生んだと思う。誰もが自由に声を挙げられる世の中、『そうじゃない』と批判ができる世の中をいつまでも残してほしいと思っています」
『東京新聞Web』2020年8月14日 05時50分
https://www.tokyo-np.co.jp/article/48776
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