◎ 佐々木論文は国際社会では通用しない半可通の人権論<前>
最高裁ピアノ判決の「外部的行為論」に影響を与えたと言われる、佐々木弘通「『人権』論・思想良心の自由・国歌斉唱」(成城法学66号、2001年)を、岡山さんから添付ファイルで送ってもらって読んだ。胸くそが悪くなると同時に愕然とした。高校教員風情にも簡単に突っ込めそうなこんな半可通の「人権」論が法曹界で通用するとは信じ難いが、確かに「最高裁ピアノ判決」と論理構造に似ているところがある。「通信」の限られた紙面では、79頁に及ぶ論文全体に触れることは出来ないが、気になる点をいくつか取り上げてみる。
ここに見られるのは、権利と身勝手の混同、公共の福祉と公権力の同一視、人権の相対化、社会権としての教育の誤解などなど、国際社会ではとても通用しない逆立ちした人権論ばかりである。ところがこれが後の下級審判決にも活用?されていくことになるとは・・・
1,違和感を感じるフレーズのいくつか
<権利と身勝手の区別の混乱>
a,「遅刻をするな」「授業中の私語を慎め」等、躾け・マナーの問題。「クラスは仲良く、協力し合って」等、集団生活上のルールの問題。「人を殺すな」「盗むな」等、モラルの問題。これらは学校でも、ある結論に強く方向づける形で教えられるのが望ましいのではないか(p7)
b,本稿は、思想良心の自由に関する「人権」論として論じる限り、両者(注:校旗掲揚・校歌斉唱と国旗掲揚・国歌斉唱)で扱いを変えねばならない理由を見出さない。(p77)
<内心の信念への侮り>
c,その信念を傷つけることなく、その職務上の行為に携わることができるはずである(p67)
d,思想信条に基づく不利益取扱いの場合には、少なくとも理屈のうえでは、その特定内容の信条を捨てることによって不利益措置を避ける可能性が、その個人の手に残されている(p32)
e,あまりに広く義務免除を承認していくと、国家の統治活動じたいが成り立たなくなるからである。(p48)
2,佐々木氏は、「自由権」と「身勝手」を区別できていない。
上記引用の、a,b,の類は、権利とわがままをごっちゃにした俗論である。「権利」と「わがまま」の違いは、「権利=right=正しいこと」をキーワードとすればきちんと区分けできる。
(1)公権力が介入できないこと=自由権
「権利」としての自由とは、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」(憲法97条)であって、教科書風に言えば「身体・精神・経済の自由」といった憲法に明記された事項である。「自由権」は、前国家的権利であり、公権力に優先し、不可侵である。(憲法11条、97条)個人の営みに公権力は原則として介入しないのが近代法の原則である。国家が許す「自由」なら、全体主義と何ら変わらない。そして「思想・良心の自由」はすべての自由権の基礎とされる。
(2)公権力が介入しても良いこと、しなければならないこと=身勝手
「身勝手」は「権利(right)」でないから、公権力により制限され時に外的強制を受けることもある。ただし、制限の根拠は、「他者の人権を侵害する」「特権の要求のようなもの」(不平等)だからであって、国家が個人に超越する独自の権利を持っているからではない(これが公共の福祉)。簡単な譬えで言えば「王様の自由(無制限の自由の要求)」は民主主義社会では否定されると言うことだ。
「人を殺すな」「盗むな」(a)は、モラルの問題ではなく「犯罪」である。強制されるのは当たり前で、これらを「自由権」と呼ぶことはない。
「遅刻をするな」「授業中の私語を慎め」「クラスは仲良く、協力し合って」(a)は、犯罪でこそないが、「王様の自由(わがまま)」であって社会が保障する「自由権」ではない。これを制限することに、一般的に異論はほとんどない。
「これらは学校でも、ある結論に強く方向づける形で教えられるのが望ましいのではないか」(a)。当たり前である。佐々木氏は、上記の例を「権利」と称するのだろうか。身勝手に対する「強制」は、人権侵害とは全く別の話で、同列に論じられるものではない。
(ついでに言えば、ここでの「学校」は「公権力」ではない。罰則ではなく、道徳的感化で人格を育成する「教育機関」なのである。佐々木氏はここも誤解している。)
(3)公権力が介入できない範囲=個性の領域、自然的事実
他者の人権と軋轢が生じない限り(公共の福祉)、市民社会では個人の自由は尊重される。
「タバコが好きだ」「ピカソが好きだ」「巨人が嫌いだ」に、正義も真理もない。公権力からも、多数決からも、個人は自由である。たとえそれが、「手術を受けなさい」「人参を食べなさい」「賭け事は止めなさい」のように、本人のためによいことであっても、不利益を甘受する覚悟の個人に対して強制出来ない類のことである。強制が許されるとしたら「奴隷」である。
「校旗・校歌」(b)なら「好き嫌い」の次元かも知れないが、「国旗・国歌」への抵抗感は「歴史観・世界観、それに由来する信念」であることは最高裁も認めたのだから、「王様の特権」ではなく「思想・良心の自由」なのである。それに対して「その信念を傷つけることなく、その職務上の行為に携わることができるはずである(c)」とは、公務員は奴隷であれと言うに等しい無神経な言説である。
「思想・良心の自由」は世界標準の権利なのに、ことさらに「王様の特権」と同列に並べたり、「奴隷」的待遇に無神経なほど寛大であることは、根本的に人権を理解していないのではないかと疑わざるを得ない。
(4)国際社会の通説=人権の制限は明文化された規定に限る
「身勝手」ではなくて、「人権」を公権力が制限できるのは、明文化された立法によってのみである。公権力による無限定での「自由権」へ介入は許されない。国連人権委、欧州人権裁判所等には長年にわたる多数の判例がある。
【参照】 ICCPR(国連自由権規約)第18条(思想・良心・宗教の自由)
1 すべての者は、思想、良心及び宗教の自由についての権利を有する。この権利には、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由並びに、単独で又は他の者と共同して及び公に又は私的に、礼拝、儀式、行事及び教導によってその宗教又は信念を表明する自由を含む。
2 何人も、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由を侵害するおそれのある強制を受けない。
3 宗教又は信念を表明する自由については、法律で定める制限であって公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要なもののみを課することができる。
4 この規約の締結国は、父母及び場合により法定保護者が、自己の信念に従って児童の宗教的及び道徳的教育を確保する自由を有することを尊重することを約束する。
(続)
<後編>http://wind.ap.teacup.com/people/4560.html
東京「君が代」裁判第3次訴訟『原告団ニュース』号外から
花輪紅一郎(第3次訴訟原告)
最高裁ピアノ判決の「外部的行為論」に影響を与えたと言われる、佐々木弘通「『人権』論・思想良心の自由・国歌斉唱」(成城法学66号、2001年)を、岡山さんから添付ファイルで送ってもらって読んだ。胸くそが悪くなると同時に愕然とした。高校教員風情にも簡単に突っ込めそうなこんな半可通の「人権」論が法曹界で通用するとは信じ難いが、確かに「最高裁ピアノ判決」と論理構造に似ているところがある。「通信」の限られた紙面では、79頁に及ぶ論文全体に触れることは出来ないが、気になる点をいくつか取り上げてみる。
ここに見られるのは、権利と身勝手の混同、公共の福祉と公権力の同一視、人権の相対化、社会権としての教育の誤解などなど、国際社会ではとても通用しない逆立ちした人権論ばかりである。ところがこれが後の下級審判決にも活用?されていくことになるとは・・・
1,違和感を感じるフレーズのいくつか
<権利と身勝手の区別の混乱>
a,「遅刻をするな」「授業中の私語を慎め」等、躾け・マナーの問題。「クラスは仲良く、協力し合って」等、集団生活上のルールの問題。「人を殺すな」「盗むな」等、モラルの問題。これらは学校でも、ある結論に強く方向づける形で教えられるのが望ましいのではないか(p7)
b,本稿は、思想良心の自由に関する「人権」論として論じる限り、両者(注:校旗掲揚・校歌斉唱と国旗掲揚・国歌斉唱)で扱いを変えねばならない理由を見出さない。(p77)
<内心の信念への侮り>
c,その信念を傷つけることなく、その職務上の行為に携わることができるはずである(p67)
d,思想信条に基づく不利益取扱いの場合には、少なくとも理屈のうえでは、その特定内容の信条を捨てることによって不利益措置を避ける可能性が、その個人の手に残されている(p32)
e,あまりに広く義務免除を承認していくと、国家の統治活動じたいが成り立たなくなるからである。(p48)
2,佐々木氏は、「自由権」と「身勝手」を区別できていない。
上記引用の、a,b,の類は、権利とわがままをごっちゃにした俗論である。「権利」と「わがまま」の違いは、「権利=right=正しいこと」をキーワードとすればきちんと区分けできる。
(1)公権力が介入できないこと=自由権
「権利」としての自由とは、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」(憲法97条)であって、教科書風に言えば「身体・精神・経済の自由」といった憲法に明記された事項である。「自由権」は、前国家的権利であり、公権力に優先し、不可侵である。(憲法11条、97条)個人の営みに公権力は原則として介入しないのが近代法の原則である。国家が許す「自由」なら、全体主義と何ら変わらない。そして「思想・良心の自由」はすべての自由権の基礎とされる。
(2)公権力が介入しても良いこと、しなければならないこと=身勝手
「身勝手」は「権利(right)」でないから、公権力により制限され時に外的強制を受けることもある。ただし、制限の根拠は、「他者の人権を侵害する」「特権の要求のようなもの」(不平等)だからであって、国家が個人に超越する独自の権利を持っているからではない(これが公共の福祉)。簡単な譬えで言えば「王様の自由(無制限の自由の要求)」は民主主義社会では否定されると言うことだ。
「人を殺すな」「盗むな」(a)は、モラルの問題ではなく「犯罪」である。強制されるのは当たり前で、これらを「自由権」と呼ぶことはない。
「遅刻をするな」「授業中の私語を慎め」「クラスは仲良く、協力し合って」(a)は、犯罪でこそないが、「王様の自由(わがまま)」であって社会が保障する「自由権」ではない。これを制限することに、一般的に異論はほとんどない。
「これらは学校でも、ある結論に強く方向づける形で教えられるのが望ましいのではないか」(a)。当たり前である。佐々木氏は、上記の例を「権利」と称するのだろうか。身勝手に対する「強制」は、人権侵害とは全く別の話で、同列に論じられるものではない。
(ついでに言えば、ここでの「学校」は「公権力」ではない。罰則ではなく、道徳的感化で人格を育成する「教育機関」なのである。佐々木氏はここも誤解している。)
(3)公権力が介入できない範囲=個性の領域、自然的事実
他者の人権と軋轢が生じない限り(公共の福祉)、市民社会では個人の自由は尊重される。
「タバコが好きだ」「ピカソが好きだ」「巨人が嫌いだ」に、正義も真理もない。公権力からも、多数決からも、個人は自由である。たとえそれが、「手術を受けなさい」「人参を食べなさい」「賭け事は止めなさい」のように、本人のためによいことであっても、不利益を甘受する覚悟の個人に対して強制出来ない類のことである。強制が許されるとしたら「奴隷」である。
「校旗・校歌」(b)なら「好き嫌い」の次元かも知れないが、「国旗・国歌」への抵抗感は「歴史観・世界観、それに由来する信念」であることは最高裁も認めたのだから、「王様の特権」ではなく「思想・良心の自由」なのである。それに対して「その信念を傷つけることなく、その職務上の行為に携わることができるはずである(c)」とは、公務員は奴隷であれと言うに等しい無神経な言説である。
「思想・良心の自由」は世界標準の権利なのに、ことさらに「王様の特権」と同列に並べたり、「奴隷」的待遇に無神経なほど寛大であることは、根本的に人権を理解していないのではないかと疑わざるを得ない。
(4)国際社会の通説=人権の制限は明文化された規定に限る
「身勝手」ではなくて、「人権」を公権力が制限できるのは、明文化された立法によってのみである。公権力による無限定での「自由権」へ介入は許されない。国連人権委、欧州人権裁判所等には長年にわたる多数の判例がある。
【参照】 ICCPR(国連自由権規約)第18条(思想・良心・宗教の自由)
1 すべての者は、思想、良心及び宗教の自由についての権利を有する。この権利には、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由並びに、単独で又は他の者と共同して及び公に又は私的に、礼拝、儀式、行事及び教導によってその宗教又は信念を表明する自由を含む。
2 何人も、自ら選択する宗教又は信念を受け入れ又は有する自由を侵害するおそれのある強制を受けない。
3 宗教又は信念を表明する自由については、法律で定める制限であって公共の安全、公の秩序、公衆の健康若しくは道徳又は他の者の基本的な権利及び自由を保護するために必要なもののみを課することができる。
4 この規約の締結国は、父母及び場合により法定保護者が、自己の信念に従って児童の宗教的及び道徳的教育を確保する自由を有することを尊重することを約束する。
(続)
<後編>http://wind.ap.teacup.com/people/4560.html
東京「君が代」裁判第3次訴訟『原告団ニュース』号外から
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