◆ 道徳の教科化と『わたし(私)たちの道徳』を読む
◆ 保護者達の意見から
ある保護者達は、道徳教育は人間として、「してはいけないこと」、「すべきこと」を教えてくれるのだから、学校で道徳教育を教科にすることは賛成だと言います。
この意見は、道徳の教科化で教えようとしている道徳と自分達が考えているそれが一致しているとの思いと、学校で教えるのだから子どもが心からそうだと納得するようにしっかりと教えてくれるだろうと期待してのことと思います。
そこで、道徳の教科化を前提にした冊子(2014.4 全ての小・中学生に配布された『わたし(私)たちの道徳』(「わたし」は小学生1-2年生用、3-4年生用、「私」は5二6年生用、中学生用)から見た場合に、道徳の教科化は、そのような保護者の思いに応えるものであるかどうか、紙面の許す範囲で検討しようと思います。
◆ 人格としての道徳性を身につけるために
道徳は、社会規範と言えますが、強制力をもつ「法」と違って、それが個人の実生活の中で自主的に自覚され、その人の性格や人間性、人格を構成しているものと言えます。
従って、道徳の教科化を提言した「道徳教育の充実に関する懇談会報告」(2013.12)でも、「道徳は特定の価値観をおしつけたり、主体性をもたず誰かのいいなりになるような人間をつくってはならない」と述べます。
学校で教える道徳教育で重要なことは、子どもの良心の自由(子どもの権利条約第14条)を尊重しながら、自分や他人に対する姿勢や出来事に出合った時などに、どうあったらいいかを考え「自主的に判断する力」=道徳性が身につくよう指導することです。
いろいろな規範・徳目が個別に教えられたりしますが、うそをつくことが思いやりになったりなど、規範と規範の対立などがあるのが現実です。
だからこそ、道徳教育は、「実生活」に即して「教科で学んだ知識(学問)」も踏まえながら個々人の「葛藤」やクラス集団等の討論などのプロセスを経て判断力をつけていくことになります。
◆ 『わたし(私)たちの道徳』について
検討してみると、上の懇談会の言っていることとは全く違っていました。
1)主体性を育てるようになっていない
例①様々な手法で規範・価値のおしつけ
「きそく正しく気もちのよい毎日を」(小学生1-2年生用)から始まって、規範・価値が大文字のタイトルで4冊計約80示されています。
次に、およそ、規範に照らして自分を見つめる記入欄、○○しましょうという指示、伝えようとする規範・価値がすぐわかる「読み物」、さらに「規範を実行し成功した人物の紹介やその人物の文章」「格言やコラム」というように、幾通りのもの手法を用いて一つの規範・価値へ誘導します。
現実生活に照らして、違う価値、別の見方などを考えさせたり葛藤させる手だてはほとんどありません。
例②ひたすら「反省」し「主張」しない人間
自分自身に関しては、正直・勇気・誠実・努力・自律など、他人とのかかわりに関しては、礼儀・思いやり・親切・感謝・謙虚などの内容が、ソフトなタイトルで示されます。
紙面の都合上、このような徳目自体の検討は省きますが、とりあげている例は、いたらない自分を反省し努力して克服するという手だてがとられているのがほとんどです。
現実には相手にも非があることが多々ありますが、小学校3-4年生(勇気のところ)を除いて、正しいと思う自分の意見を述べ伝えること-自己主張という価値は全く取りあげていません。自分を抑えて他人のために行動することが推奨されています。
2)きまりだから守れの強調
人を傷つけない・人の物をぬすまない・うそを言わない・弱いものいじめをしない・ひきょうなことはしない、も、きまりに入れて、きまりを守ることを何度も強調し(中・高学年、中学生)、きまり・法・スポーツのルールも区別することなく、きまりを守らないと罰せられると述べます(中)。
ぬすみ以外は人間関係の事柄と思います。小3-4年生用にだけ相手の立場にたって考えましょうという言葉はありますが、それをされた人はどう感じるのか、なぜそれをしてはいけないのか、など、考えさせるようにはなっていません。これでは道徳性は育ちません。
また、きまりを自分達でつくる例が1例ありますが(小3-4年生)、他は全てきまりは「善いもの」という前提にたって話をすすめています。
3)公平な取り上げ方をしていない
例①「限りある生命」はあるが「生命への権利」はない
生命尊重のところで“限りある命を大切に”を中心にとりあげていますが、様々な要因で“生命への権利”が奪われた(いる)こと、それをしてはならないことは取り上げていません。5-6年生用のきまりの箇所に福沢諭吉の家訓として「ひとを殺すべからず」があるのみです。
現学習指導要領でも平和をとりあげる価値を解説しており、民間会社発行の副読本でも戦争と平和はとりあげています。この冊子では二人の著名人のタイトルと文章等に「平和」の文字があるだけです。
例②集団のプラス面だけをみせて負を見せない
ものごとを見るには少なくとも正負・長短の両面からみることが重要ですが、家庭・学校・ふるさと・日本の伝統文化・日本の国、全て、いい面・プラス面のみ記述しマイナス面はみさせようともしていません。
東日本大震災における救護活動はとりあげても、原子力発電所事故による放射線汚染はとりあげていません。そして、一足飛びに、このようにいいものを受け継ぎ、日本人としての自覚をもってこの国を愛しましょうと続きます。
子どもは「道徳ってうその世界のこと」と思うに違いありません。現実の正負両面をみつめ考えてこそ確かな判断力がつくものと思います。
4)学問の水準を反映していない
例①権利と義務の扱い
権利・義務については、日常普段の物事に関して言う場合と、憲法における権利と義務との関係を混同して説明しています。
憲法での権利は、基本的人権に基づいて国家が権利として国民に保障する事を意味し、国民は国家運営のために行うものというのが義務ということになります。このように権利と義務は別個にあるものではありません。
憲法では、勤労について、「勤労の権利を有し、義務を負う」ことを記していますが。この冊子では働くことを義務のみに記しています。そして権利だけ主張して義務を果さないのはいけないと繰り返し述べます。単純な誤記ではないと思います。
例②男女の関係の扱い
高学年以上では、生き方として自分の性を考える時期ですが、社会的・文化的性の説明はなく、男女共同参画社会も説明はなく条文のみが書かれています。
また、性は男女二つしかいないという前提で語られ、それ以外の多様な性の存在の承認という学問の水準が反映されていません。現実には、このことが子どもに理解されないためのいじめは多く起きています。
5)いじめの根源を見させない取り上げ方
小学校5-6年で、いじめに対する自分のかかわり方をみつめさせたり、中学校では、読み物で、いじめられた側の苦悩やいじめた側の強い後悔をとりあげていますが、いじめはなぜいけないか、してはいけないことがわかっているのになぜいじめたり傍観者になってしまうかなど深く考えさせてはいません。
いじめは、いじめられている子どもの人権侵害の行為・差別の芽(法務省人権擁護連合会、2012)です。
いじめの要因は①他人に対する人権意識の希薄さ、②満たされない自分の存在感・自尊感情の欲求不満の解消としての他者攻撃、③蔓延する背景に受験戦争や少子化などの社会の変化があると言われます(同上法務省)。
国連子どもの権利委員会も、1998・2004・2010各年の勧告いずれでも、日本の子ども達のいじめ・不登校・自殺等の原因に過度な学力の競争主義による子ども達のストレスがあることを指摘しています。
従って、いじめ問題に向かう道徳は、この冊子のように「思いやり」は「きまりだから守れ」ではなく、いじめをされた人の気持ちを重々に受けとめることを軸にして、人権尊重・人権を侵害してはならないことへの十分な理解、さらに学校生活のいいところだけみるのではなく、いじめに限らず問題をみつけ原因や解決策を考えるとともに改善していく、授業でも教え合う関係の創出や、場合によっては保護者とも一緒に自治的な取り組みをする中で、共生する関係を創り出せる力を育む事ではないかと思います。
少なくとも、自己肯定・意見表明・人権尊重・共生・自治などを道徳的価値としてとらえ、現実生活に照らして考える内容を加味すべきではないかと思います。
以上、これらの冊子は保護者の期待とはほど遠いものと思います。自分のいたらなさを反省し、努力して克服し、自己主張せず、きまりをよく守って他人や集団・国家のために働いて責任を果す人間像が期待されているように思います。
◆ 道徳の教科化について
1)道徳は中立ではない
1950年代、特設道徳の問題が起きた時、日本教育学会教育政策特別委員会「道徳教育に関する問題点(素案)」は、「…近代民主主義政治のもとで、個人の自由と良心の問題である道徳とその教育について、公権力が一定の方向づけやわくづけをすることが、果たして妥当であるかどうかが考えられなければならない。……政党政治がほとんど恣意的と思われるような方向づけた統制を企てることは、それ自体教育の中立性をおかすものと言えないだろうか」と述べていました。
2)国家にとって教育とは統治行為
歴史を遡れば、道徳教育の必要性は人々の間からではなく、常に、国家から、子どもや人々の道徳心・規範意識の低下を理由に持ち出されてきています。それは、国民を統治するためであることを『21世紀日本の構想』(小渕内閣2001.1、第5章)は明言します。
「国家にとって教育とは一つの統治行為だということである。……合理的思考力の欠如した国民に対して、暴力や抑圧によらない治安を供与することは不可能である。そうした点から考えると、教育は一面において警察や司法機関などに許された権能に近いものを備え、それを補完する機能を持つと考えられる。」と。この後の森内閣教育改革国民会議(2000.12)で教科化が具体的に構想されたわけです。
今、安倍内閣での教科化は、戦争できる国づくりを頂点とする諸政策を完遂するために、国民意識の統制手段としてあることを見極める必要があります。
子どもには、自分も他者をも肯定的に認め合い、誰でもが尊重される権利をもっていることを理解して行動できるようになって欲しいと思います。教育の力が及ぼないことも多々ありますが、それでもなお、保護者・教師・地域住民・民主的学識者達と討論・討議を重ね、合意を創り出し、下からの民主的な道徳教育を編み出していけたらと思います。(つるたあつこ)
「子どもと教科書全国ネット21ニュース」96号(2014.6)
鶴田敦子(子どもと教科書全国ネット21代表委員)
◆ 保護者達の意見から
ある保護者達は、道徳教育は人間として、「してはいけないこと」、「すべきこと」を教えてくれるのだから、学校で道徳教育を教科にすることは賛成だと言います。
この意見は、道徳の教科化で教えようとしている道徳と自分達が考えているそれが一致しているとの思いと、学校で教えるのだから子どもが心からそうだと納得するようにしっかりと教えてくれるだろうと期待してのことと思います。
そこで、道徳の教科化を前提にした冊子(2014.4 全ての小・中学生に配布された『わたし(私)たちの道徳』(「わたし」は小学生1-2年生用、3-4年生用、「私」は5二6年生用、中学生用)から見た場合に、道徳の教科化は、そのような保護者の思いに応えるものであるかどうか、紙面の許す範囲で検討しようと思います。
◆ 人格としての道徳性を身につけるために
道徳は、社会規範と言えますが、強制力をもつ「法」と違って、それが個人の実生活の中で自主的に自覚され、その人の性格や人間性、人格を構成しているものと言えます。
従って、道徳の教科化を提言した「道徳教育の充実に関する懇談会報告」(2013.12)でも、「道徳は特定の価値観をおしつけたり、主体性をもたず誰かのいいなりになるような人間をつくってはならない」と述べます。
学校で教える道徳教育で重要なことは、子どもの良心の自由(子どもの権利条約第14条)を尊重しながら、自分や他人に対する姿勢や出来事に出合った時などに、どうあったらいいかを考え「自主的に判断する力」=道徳性が身につくよう指導することです。
いろいろな規範・徳目が個別に教えられたりしますが、うそをつくことが思いやりになったりなど、規範と規範の対立などがあるのが現実です。
だからこそ、道徳教育は、「実生活」に即して「教科で学んだ知識(学問)」も踏まえながら個々人の「葛藤」やクラス集団等の討論などのプロセスを経て判断力をつけていくことになります。
◆ 『わたし(私)たちの道徳』について
検討してみると、上の懇談会の言っていることとは全く違っていました。
1)主体性を育てるようになっていない
例①様々な手法で規範・価値のおしつけ
「きそく正しく気もちのよい毎日を」(小学生1-2年生用)から始まって、規範・価値が大文字のタイトルで4冊計約80示されています。
次に、およそ、規範に照らして自分を見つめる記入欄、○○しましょうという指示、伝えようとする規範・価値がすぐわかる「読み物」、さらに「規範を実行し成功した人物の紹介やその人物の文章」「格言やコラム」というように、幾通りのもの手法を用いて一つの規範・価値へ誘導します。
現実生活に照らして、違う価値、別の見方などを考えさせたり葛藤させる手だてはほとんどありません。
例②ひたすら「反省」し「主張」しない人間
自分自身に関しては、正直・勇気・誠実・努力・自律など、他人とのかかわりに関しては、礼儀・思いやり・親切・感謝・謙虚などの内容が、ソフトなタイトルで示されます。
紙面の都合上、このような徳目自体の検討は省きますが、とりあげている例は、いたらない自分を反省し努力して克服するという手だてがとられているのがほとんどです。
現実には相手にも非があることが多々ありますが、小学校3-4年生(勇気のところ)を除いて、正しいと思う自分の意見を述べ伝えること-自己主張という価値は全く取りあげていません。自分を抑えて他人のために行動することが推奨されています。
2)きまりだから守れの強調
人を傷つけない・人の物をぬすまない・うそを言わない・弱いものいじめをしない・ひきょうなことはしない、も、きまりに入れて、きまりを守ることを何度も強調し(中・高学年、中学生)、きまり・法・スポーツのルールも区別することなく、きまりを守らないと罰せられると述べます(中)。
ぬすみ以外は人間関係の事柄と思います。小3-4年生用にだけ相手の立場にたって考えましょうという言葉はありますが、それをされた人はどう感じるのか、なぜそれをしてはいけないのか、など、考えさせるようにはなっていません。これでは道徳性は育ちません。
また、きまりを自分達でつくる例が1例ありますが(小3-4年生)、他は全てきまりは「善いもの」という前提にたって話をすすめています。
3)公平な取り上げ方をしていない
例①「限りある生命」はあるが「生命への権利」はない
生命尊重のところで“限りある命を大切に”を中心にとりあげていますが、様々な要因で“生命への権利”が奪われた(いる)こと、それをしてはならないことは取り上げていません。5-6年生用のきまりの箇所に福沢諭吉の家訓として「ひとを殺すべからず」があるのみです。
現学習指導要領でも平和をとりあげる価値を解説しており、民間会社発行の副読本でも戦争と平和はとりあげています。この冊子では二人の著名人のタイトルと文章等に「平和」の文字があるだけです。
例②集団のプラス面だけをみせて負を見せない
ものごとを見るには少なくとも正負・長短の両面からみることが重要ですが、家庭・学校・ふるさと・日本の伝統文化・日本の国、全て、いい面・プラス面のみ記述しマイナス面はみさせようともしていません。
東日本大震災における救護活動はとりあげても、原子力発電所事故による放射線汚染はとりあげていません。そして、一足飛びに、このようにいいものを受け継ぎ、日本人としての自覚をもってこの国を愛しましょうと続きます。
子どもは「道徳ってうその世界のこと」と思うに違いありません。現実の正負両面をみつめ考えてこそ確かな判断力がつくものと思います。
4)学問の水準を反映していない
例①権利と義務の扱い
権利・義務については、日常普段の物事に関して言う場合と、憲法における権利と義務との関係を混同して説明しています。
憲法での権利は、基本的人権に基づいて国家が権利として国民に保障する事を意味し、国民は国家運営のために行うものというのが義務ということになります。このように権利と義務は別個にあるものではありません。
憲法では、勤労について、「勤労の権利を有し、義務を負う」ことを記していますが。この冊子では働くことを義務のみに記しています。そして権利だけ主張して義務を果さないのはいけないと繰り返し述べます。単純な誤記ではないと思います。
例②男女の関係の扱い
高学年以上では、生き方として自分の性を考える時期ですが、社会的・文化的性の説明はなく、男女共同参画社会も説明はなく条文のみが書かれています。
また、性は男女二つしかいないという前提で語られ、それ以外の多様な性の存在の承認という学問の水準が反映されていません。現実には、このことが子どもに理解されないためのいじめは多く起きています。
5)いじめの根源を見させない取り上げ方
小学校5-6年で、いじめに対する自分のかかわり方をみつめさせたり、中学校では、読み物で、いじめられた側の苦悩やいじめた側の強い後悔をとりあげていますが、いじめはなぜいけないか、してはいけないことがわかっているのになぜいじめたり傍観者になってしまうかなど深く考えさせてはいません。
いじめは、いじめられている子どもの人権侵害の行為・差別の芽(法務省人権擁護連合会、2012)です。
いじめの要因は①他人に対する人権意識の希薄さ、②満たされない自分の存在感・自尊感情の欲求不満の解消としての他者攻撃、③蔓延する背景に受験戦争や少子化などの社会の変化があると言われます(同上法務省)。
国連子どもの権利委員会も、1998・2004・2010各年の勧告いずれでも、日本の子ども達のいじめ・不登校・自殺等の原因に過度な学力の競争主義による子ども達のストレスがあることを指摘しています。
従って、いじめ問題に向かう道徳は、この冊子のように「思いやり」は「きまりだから守れ」ではなく、いじめをされた人の気持ちを重々に受けとめることを軸にして、人権尊重・人権を侵害してはならないことへの十分な理解、さらに学校生活のいいところだけみるのではなく、いじめに限らず問題をみつけ原因や解決策を考えるとともに改善していく、授業でも教え合う関係の創出や、場合によっては保護者とも一緒に自治的な取り組みをする中で、共生する関係を創り出せる力を育む事ではないかと思います。
少なくとも、自己肯定・意見表明・人権尊重・共生・自治などを道徳的価値としてとらえ、現実生活に照らして考える内容を加味すべきではないかと思います。
以上、これらの冊子は保護者の期待とはほど遠いものと思います。自分のいたらなさを反省し、努力して克服し、自己主張せず、きまりをよく守って他人や集団・国家のために働いて責任を果す人間像が期待されているように思います。
◆ 道徳の教科化について
1)道徳は中立ではない
1950年代、特設道徳の問題が起きた時、日本教育学会教育政策特別委員会「道徳教育に関する問題点(素案)」は、「…近代民主主義政治のもとで、個人の自由と良心の問題である道徳とその教育について、公権力が一定の方向づけやわくづけをすることが、果たして妥当であるかどうかが考えられなければならない。……政党政治がほとんど恣意的と思われるような方向づけた統制を企てることは、それ自体教育の中立性をおかすものと言えないだろうか」と述べていました。
2)国家にとって教育とは統治行為
歴史を遡れば、道徳教育の必要性は人々の間からではなく、常に、国家から、子どもや人々の道徳心・規範意識の低下を理由に持ち出されてきています。それは、国民を統治するためであることを『21世紀日本の構想』(小渕内閣2001.1、第5章)は明言します。
「国家にとって教育とは一つの統治行為だということである。……合理的思考力の欠如した国民に対して、暴力や抑圧によらない治安を供与することは不可能である。そうした点から考えると、教育は一面において警察や司法機関などに許された権能に近いものを備え、それを補完する機能を持つと考えられる。」と。この後の森内閣教育改革国民会議(2000.12)で教科化が具体的に構想されたわけです。
今、安倍内閣での教科化は、戦争できる国づくりを頂点とする諸政策を完遂するために、国民意識の統制手段としてあることを見極める必要があります。
子どもには、自分も他者をも肯定的に認め合い、誰でもが尊重される権利をもっていることを理解して行動できるようになって欲しいと思います。教育の力が及ぼないことも多々ありますが、それでもなお、保護者・教師・地域住民・民主的学識者達と討論・討議を重ね、合意を創り出し、下からの民主的な道徳教育を編み出していけたらと思います。(つるたあつこ)
「子どもと教科書全国ネット21ニュース」96号(2014.6)
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