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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

中学校新教科書見本本をどう読むか~児童生徒の知的好奇心・刺激触発に向けて

2020年07月01日 | こども危機
 ◆ 歴史・猿人の「直立二足歩行」記述から教科書観を読みとる
   -指導要領も強調している「思考力」「判断力」の育成と教科書の太字表記の矛盾―
教科書・市民フォーラム 高嶋伸欣

 4月29日に予定していた「第14回 今、なぜ?『昭和の日』」集会が、やむを得ず中止となりました。予定ではメインの「お話し」のあとで約30分、私(高嶋)が最新の教育・教科書問題などについて話題提起をさせていただくことになっていました。今回はそこで提起したいと思っていた事柄について、集会中止の埋め合わせの意味を込めて書くことにしました。少し長めです。
 <猿人の「直立二足歩行」記述を比較する>

 学習指導要領の全面改定に合わせた新中学校用教科書の2019年度検定が2020年3月末に終わり、いよいよそれらの採択の時期になりました。しかし新型コロナウィルス対策で見本本の展示会開催も前例通りにはならないようです。
 教育委員会には展示会場でのアンケートだけでなく、メールや請願・陳情などの形で要望を届ける等の工夫をされているところも少なくありません。この際、不要不急の外出を控えている間に改めて腰を据え、教科書の意味付けや比較検討にも時間をかけ、そうして得た教科書観を意見表明に結びつけることを考えるのも対応策の一案に思えます。
 教科書観に基づく見本本の比較の一例として、私は各社の中学歴史教科書の本文冒頭にある「人類の出現と文明のはじまり」に注目しました。
 そこでサルから進化した猿人の特色である「直立二足歩行」についての説明を比較するためです。
 これは歴史学習の出だしのテーマです。ここで生徒の知的好奇心がどれだけ刺激されるかで、その後の学習への期待感、意欲の高まりが大きく左右されます。工夫が求められるところです。
 検定に合格した7社の歴史教科書は、どれもサルから直立二足歩行をする猿人に進化したのが人類の始まりだと説明しています。
 けれども、気候変動で森が減少して地上の草原に下りなければならなかったことに、育鵬社と日文教、それに学び舎以外は触れていません。
 さらに「草原に出たとき、食料をみつけようと、体をまっすぐにのばして、二本足で立ち上がるようになった」からと、直立二足歩行を始めた理由を説明しているのは、学び舎だけです。
 中学生は4W1HのうちのHOWWHYに関心を向けることで歴史学習の面白みや深みに気付く時期です。
 各社は、直立二足歩行により「重くて大きな脳を支えられるようになり」知能が発達し、自由になった両手(前足)で道具を使えるようになったなどの結果を強調しています。
 一方で学び舎は「食料を運ぶためにも、前足(手)を使う必要がありました」と、説明しています。生徒の知的好奇心や探求心を刺激するのはどちらであるか、明らかです。
 その上、学び舎以外の各社は、新規参入の山川を含め、説明文中の用語の太字標記で、生徒に暗記への圧迫感、機械的緊張感を与えています。こうした表記は生徒の学習意欲を減退させ、“歴史嫌い”の大きな原因になっていると言われ続けて、今は何十年目でしょうか。このことも気になりますので後でふれます。
 <「指導要領」も強調する「思考力」「判断力」育成>

 ともあれ、ここで改めて教科書検定の最大の拠り所とされている学習指導要領(「要領」)をみてみます。
 中学社会科の地理・歴史・公民の3分野のすべての中項目毎に「ア 次のような知識を身に付けること」「イ 次のような思考力、判断力、表現力等を身に付けること」と、あります。
 「ア」はこれまでの覚えさせる学習のことですが、「イ」は今回の改定による新機軸です。
 国際学力比較で日本の順位が下がったままで、文科省は批判に晒されています。知識偏重の「学力観」から思考力、判断力重視への転換に追い込まれた結果で、当然の措置でもあります。
 加えて、学校教育法の「第2章 義務教育」の「21条(義務教育の目標)」の第1項では「公正な判断力」の育成を明記しています。
 「公正な判断力」の育成を、旧学校教育法では中学校の教育目標(旧36条)に掲げているだけで、小学校の目標(旧18条)には含まれていませんでした。それが第1次安倍政権下で強行された教育基本法の全面改定に伴う学教法改定の際に、小学校にも適用されるように改善されたのです。
 「判断力」の育成をめざすには物事に二通り以上の見方、考え方があることを示さなければなりません。従って、「日の丸・君が代」などについて政府見解や都道府県教委の見解、解釈だけを教育現場に強要することは、学教法違反です。そうした強要の根拠に「要領」が位置づけられている現状は、違法状態です。
 それに小学校高学年から中学校1・2年生は、社会的出来事の持つ意味が立場によって異なるという相対的な認識が可能になって、判断力や思考力に多様性が備わる時期です。領土問題などで政府の立場だけを学ばせるのであれば、「要領」はこの点で非教育的ですし、学教法違反です。
 文科省は、「要領」に「法的拘束力」があると最高裁大法廷判決(旭川学力テスト事件、1976年5月21日)で認められたとして、検定などで「要領」を金科玉条のように振りかざしています。
 けれども「要領」は行政指導のための指針として官報に告示しているものにすぎず、所詮は文科省のお手盛り文書なのです。
 一方の学教法は教基法に準ずる公教育の基幹法で、その遵守は官僚の義務です。
 それなのに、裁判所は政治状況に屈したかのように、法である学教法よりも「要領」を優先するという、“法的下克上”の判決を連発している状況です。
 けれども、神奈川県では高校教員や市民の団体などの粘り強い交渉によって、この問題に風穴を開けています。卒業式・入学式以外の場で、「日の丸・君が代」強制をめぐる論争などの存在を生徒に説明することは、学教法の規定に合致し許容されるとの言質を、県教委から獲得しているのです。
 また、「日の丸・君が代」問題などで処分をされた教員の皆さんの裁判などで、学習指導要領を弾力的に解釈するべきとの判決が出されてきています。
 その一つが、東京都立七生養護学校(当時)の性教育は「要領」からの逸脱があるとした都議会議員に迎合し、現場教員たちを処分した都教委の責任が問われた事件です。東京高裁の確定判決(2011年9月16日)で、「要領」の内容は「膨大であり、記述の仕方にも様々なものがあるところ、その一言一句が拘束力すなわち法規としての効力を有するということは困難である」と断言しているのです。
 さらに、文科省や都教委が拠り所にしている「旭川学テ事件大法廷判決」は、「要領」を最低基準と位置づけているにすぎません。極端に言えば、そこに掲げられている内容を一言であっても軽く触れればそれでよいのであって、以後はそれらに関連して教員の創意工夫で厚みや深み、広がりのある学習の場を展開するのを、誰も妨げてはならないのです。
 ところが、文科省は教科書検定や「日の丸・君が代」強制などを通じて、「要領」が内容の上限を規定しているのだと2000年ごろまで、全国の教育委員や学校現場、それに教科書会社等に思い込ませ続けたのです。
 その結果、創意工夫による学習の機会が全国でどれだけ阻害、抹殺されてきたか、想像を絶します。
 しかもそのように大法廷判決を悪用し続けたことを、事実上認めたのは1998年夏でした。
 それも当時文部省生涯学習振興課長だった寺脇研氏個人が、教職向け雑誌に掲載した「今こそ、『たかが学習指導要領』という思いを強く持ってほしいのです」という論考(『総合教育技術』1998年8月号、小学館)でのことでした。
 文科省が「要領」は最低基準で上限を指示するものではない『文部科学白書』(旧『教育白書』)に初めて公式に明記したのは、2002年1月18日です。新聞でそのことを伝えたのは『朝日新聞』の同日夕刊だけで、それも第2面最下段のベタ記事でした。
 文科省はそれまでの思い込ませが誤りであったことを、その後も全国に周知徹底させていません。
 「要領」の総論部分に、最低基準あるという説明をさりげなく盛り込ませているだけです。謝罪もしていません。
 この点で文科省の旧官僚も責任は重いはずですが、是正と責任自覚のきちんとした言動を耳にしたことがありません。このために今でも一部では、指導主事や管理職が「学習指導要領から逸脱するな」と叫んで若い教員を委縮させた、という話が繰り返されています。地方議会などで保守系議員などが、「慰安婦問題を扱うのは『要領』違反だ!」などの違法発言がするのも、このためです。
 <求められる「指導要領」行間からの読み取り>

 さらに先の七生養護学校事件の判決では、「要領」の「理念や方向性のみが示されていると見られる部分、抽象的ないしは多義的で様々な異なる解釈や多様な実践がいずれも成り立ち得るような部分、指導の例を挙げるにとどまる部分等は、法規たりえない」とも、明言しています。
 換言すれば、「要領」の玉虫色でもある文言の行間を読み取り、教員などが様々に解釈し、創意工夫をした実践が可能であるとしているのです。
 ここで思い当たるのは、私が1996年から異動していた琉球大学教育学部社会科教育教室の入試のことです。ある年の小論文課題「あなたは教員となった時に、どのような授業を創りたいと思いますか」との課題を出しました。
 40名弱の受験者の大半が、バレーボールやテニスのラリーのように児童生徒と対話を繰り返すことで、「教え込み」や「押し付け」でない授業を目指すとしました。
 その中でただ一人、「抜け駆けでない協働の宝探しをめざす」と書いていました。一人で教科書を見ているだけでは分からない本文の行間の意味や、添付の図版や資料・副教材との組み合わせで児童生徒が気づいたことを出しあい、45分の授業が協働だからできた“宝探し”になるようにする、というのです。
 この解答について「試験場で急に思いついたのではなく、こうした授業を体験して充実感を持ったので、自分もまずそれを目指すとしたのではないか」と、採点者の間で話題になりました。20年ほど前の話ですが、当時すでにこうした実践が行われていたと考えられます。
 そしてもう一つ思い起こすのは、私が1993年に「高嶋(横浜)教科書裁判」を横浜地裁に起こした際のことです。
 100人を超えた弁護団との打ち合わせでの最初の仕事は、教科書の特質を分かってもらうことでした。「教科書は法律書や学術書さらには一般向けの啓発書などのように、著者が伝えたいこと読み取って欲しいことを、すべて書き込んであるものではありません。すべてを書き込んだのでは自習書と同じで、授業の意味がなくなりますから」という説明をした時、「え~?」と不審の表情が並んだのを今も鮮明に記憶しています。
 90年代、世界の教育潮流は「学力」観を「覚える力」から「考える力」の育成に転換し、日本でも中央教育審議会(中教審)や教育課程審議会などが「生きる力」育成を強調することで「21世紀の教育への転換」を求めていました。
 「高嶋裁判」の契機となった『新高校現代社会』(一橋出版、1994年度用)では、それまで本文に埋もれていた「この教科書が提供する情報について、それを鵜呑みにするのではなく、なぜだろう、どうしてだろう、と疑問をもって学習を進めてほしい」との記述を、前書きに移して強調しました。
 「前書きでは目立ちすぎる。これまでの教科書観の全面否定なので、この2行だけで検定不合格になる」という懸念もありました。けれども、検定では修正の指示がなく、そのまま認められました。
 さらに、93年秋の文部省による東北地区研修会で「現代社会」担当の教科調査官(学習指導要領を作成)が、この部分を読み上げ、「来年度からはこのように書かれた教科書で生徒は学習する。教員は教科書の枠内の授業を用意するだけでは不十分です」と指摘したのです。
 司会進行役の岩手県教委の指導主事は、文部大臣を訴えている高嶋の関わった教科書を調査官が推奨したのに驚き、「そのようなことを言っていいのですか」と発言したそうです。
 「要領」の法的拘束力にこだわる検定官(教科書調査官・身分は一般事務職で教職経験は不要)と違って、「要領」の作成とその趣旨の啓発を主任務とする教科調査官(専門職)は全国のベテラン教員から選考されていて、拘束力にこだわらない人も少なくありません。
 後者には教職体験があるので「要領」の表現は玉虫色になるべくとどめて、その行間からの読み取りで多様な教科書や授業実践の創意工夫の余地を残そうとしています。そのことを、「要領」作成協力者会議に参加していた大学の先輩から聞かされたのは1990 年頃でした。
 それから30年、安倍政権のように偏狭な歴史観に基づく政治的介入が強行される一方で、判断力や思考力を育成することで主権者としての主体性を高める公教育をめざす環境、構造が次第に整ってきています。
 主たる教材である教科書の内容についてもそうした改善、是正の流れを支える取り組みが求められます。その観点からの教科書比較の一例として、私は「直立二足歩行」についての記述に注目しました。皆さんは、どの話題に注目をされるでしょうか。
 このことなら割と詳しいという項目を選んで比較をして、教育委員会に「学習指導要領が繰り返し強調している『思考力』『判断力』『表現力』等を身に付け意欲や知的好奇心を刺激する教科書を選んでください」という要望した場合、それなりの効果が期待できます。何しろ「要領」に即しているのですから。
 <太字表記のない教科書での学習実現に向けて>

 そしてもし可能であれば、要望に加えて欲しい事柄がもう一つあります。それは、大半の教科書記述にある、あの太字の用語表記についてです。
 かつて1970年代の社会科教科書の場合、本文の記述で用語を太字表記にしてあるものは少なく、あっても平均して1ページ当たりで一つ以下が普通でした。それが受験競争の激化や「荒れる学校」の増加で教員の授業準備軽減策などのため、増加の一途をたどってきました。
 それは、「太字の用語の意味を調べておきなさい」など予習・自習の課題が出しやすく、「テストは太字用語を中心に出題する」と予告することで児童生徒の集中力が高められ、教員も主要内容の判別を太字表記に依拠するなどの状況が蔓延してきていることを意味しています。
 大学で社会科教育法を受講している教員志願の学生が「私なら、太字表記の多い教科書を採択します」と言い出しているのが現状です。
 現場教員の多くが、こうした便宜さに引き付けられ、同様の志向を示し始めたのは1980年頃でした。
 その後、多くの社会科教科書の執筆者の主体が、それまでの大学の研究者たちから現場教員に替わってきています。その過程で沸き上がったのが、「教科書を教える」のではなく「教科書で学ぶ授業」、言い換えれば「思考力、判断力」を豊かにする学習をめざして、「児童生徒に大事な内容はどこだろうと問いかけられるように、太字表記をやめよう」という声でした。
 けれども、その声は封殺されました。
 「ウチだけがそうして、よそが太字表記をしていたら、採択で確実に負けます」という営業部門の指摘に抗しきれなかったからです。現在も同じことが言われ、執筆者たちの多くが無念の思いでいます。
 けれども、現在ではすでに明らかにしたように、「要領」も学教法も、司法判断でも「思考力、判断力」の育成こそ教育の本筋とすることで、足並みがみごとに揃っています。文科省のいう「学び方改革」の柱であるアクティブ・ラーニングの推進とも合致しています。
 このことに教育行政上の齟齬や矛盾はないのです。あるのは、営業上の不安感や疑心暗鬼によって必要とは分かっていても、太字表示の廃止に踏み切れないでいる教科書業界の自縄自縛状況です。
 この状況を業界が自主的に改善するのは簡単ではありません。でも方法はあります。世論の力です。
 教育学界や関連の専門家たちや市民が声を上げ、教員や執筆者も声を発することで、文科省から教科書の太字表記は避けるべきであるとの行政指導を、業界に実施するように求めるのです。
 教科書協会などを通じて業界全体が自主的に申し合わせることも可能です。早ければ、次回の小学校教科書の検定(2022年度)から実現可能な事柄です。
 太字表記のない教科書で全国の児童生徒が学ぶことになった時、日本の学校教育は憲法が目指す主権者育成への軌道を確実に進み始めた、と言えるのではないでしょうか。
 ただしそれには、本来の役割を果たすには程遠い教員の皆さんの労働環境の改善が急務です。その上で、太字表記のない教科書に多様な反応を示す児童生徒を指導する力量を高める研修や相互協力の機会を保証することが必要です。
 前途は多難ですが、そうするための一歩として、教科書については主要項目での歴史観や憲法認識などの比較だけでなく、教科書観や学力観の対比にも関心が向けられることを期待しています。
 そしてこの機会に、学力は多様な思考力や判断力なのだということと、教科書は何よりも児童生徒に学ぶ意欲を湧き起こすものであるはずという大原則の確認が望まれます。
『教科書・市民フォーラムNEWS』39号


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