◆ 日本人は「円安」がもたらした惨状をわかってない
自ら危機意識を持って脱却する必要がある
中国の工業化に対処するため、日本は「安売り戦略」を志向し、円を著しく減価させた。その結果、輸出は増えたが、貿易収支は悪化した。また、賃金も上昇せず、企業も成長しなかった。昨今の経済現象を鮮やかに斬り、矛盾を指摘し、人々が信じて疑わない「通説」を粉砕する──。野口悠紀雄氏による連載第60回。
韓国や台湾は、通貨を増価させた結果、貿易黒字が拡大した。それにより、経済成長率が高まり、賃金が上昇した。また、企業が成長した。
◆ 中国工業化への対応:「安売り」か、「差別化」か
いま、韓国や台湾の賃金や1人あたりGDPが、日本に近づき、あるいは日本を追い越そうとしている。
20年以上にわたる日本経済の停滞と、韓国・台湾の顕著な経済成長が、この結果をもたらすことになった。
なぜこうしたことが生じたのだろうか?
それは中国の工業化への対処の違いによると考えられる。
1980年頃から始まった中国の工業化が、1990年代に本格化した。安い労働力を使って、それまで先進国の製造業が作っていた製品を、はるかに安い価格で作り、輸出を増大させた。
これによって、先進国の製造業は極めて大きな打撃を受けた。
中国の工業化に対応するのに、2つの方策がある。
第1は、輸出品の価格を切り下げて、中国の低価格製品に対抗することだ。これを「安売り戦略」と呼ぶことにしよう。
第2は、中国が作れないもの、あるいは中国製品より品質が高いものを輸出することだ。これを「差別化戦略」と呼ぼう。
◆ 日本は安売り戦略
日本は2000年頃以降、「安売り戦略」をとった。
国内の賃金を円ベースで固定し、かつ円安にする。
これによって、ドル表示での輸出価格を低下させて、輸出を増大させようとした。
十分に円安にすれば、輸出が増えるだけでなく、企業の利益を増やすことができる。
「ボリュームゾーン」と呼ばれた政策は、「安売り戦略」の典型だ。
これは、新興国の中間層を対象に、安価な製品を大量に販売しようとするものだ。
この考えは、1996年度の『ものづくり白書』で取り上げられた。そして、2000年頃から顕著な円安政策が始まり、また、1990年代前半までは上昇していた賃金が頭打ちになった。
◆ 韓国と台湾は、技術を高度化
この間に、韓国、台湾では国内の賃金が上昇した。また、為替レートが傾向的に減価することもなかった。
これは、少なくとも結果的に言えば、「差別化戦略」がとられたことを意味する。品質を向上させ、あるいは中国が生産できないものを輸出するか、新しいビジネスモデルを開発したのだ。
実際、上記の図に見られるように、韓国の場合、製造業輸出品に占めるハイテク製品の比率は、30%程度であり、最近では35%程度に上昇している。
それに対して、日本の場合には20%程度であり、最近では低下している。
台湾では、鴻海が、中国の安い賃金を活用して、電子製品の組み立てを行うビジネスモデルを開発した。また、TSMC(台湾積体電路製造)は、最先端の半導体製造技術を切り開いた。
◆ 日本では貿易黒字が減少し、貿易赤字に
以上の政策がとられた結果、何が起こったか?
日本では、2000年頃から輸出が増えた。しかし、輸入額も増大した。
輸入品の中には、原油など、価格弾力性の低いものがある。これらは、輸入価格が上昇しても輸入量を減らすことができないため、通貨が安くなれば、輸入額がさらに増える。
このため、貿易黒字は減少する。
実際、日本の貿易黒字は2005年頃から減少に転じ、さらに貿易収支が赤字化した。
貿易収支悪化は、リーマンショック後に顕著になった。2012年頃の原油価格高騰期には、とくにそうだった。
日本ではサービス収支が恒常的に赤字なので、貿易サービス収支が悪化する(2011年以降、2016、2017、2018年を除けば、赤字)。これを所得収支(対外資産からの収益)で賄う形になった。
これは、家計で言えば、退職後の人々と同じパターンだ。
給料を得られないので、それまで蓄積した資産の収益で生活を支えるパターンとなる。
◆ 韓国と台湾では貿易黒字が拡大
韓国、台湾では、輸出の増加が輸入増加を超えたので、貿易収支の黒字が拡大した。
もともと韓国、台湾では、輸出に対する依存度が大きいので、この拡大は経済に大きな影響を与えたと考えられる。
なお、2000~2007年頃、アメリカの輸入が増加し、アメリカの経常収支赤字が拡大した。これは、アメリカ国内で消費が増加したためだ。これも、日本や韓国などの輸出増大に寄与した。
しかし、リーマンショックによって、このメカニズムが崩壊した。その後、日本も韓国も、輸出の伸び率は低下している。
ただし、日本の輸出が2007年頃以降ほとんど停滞してしまったのに対して、韓国、台湾の輸出は増加を続けた。
そして、日本の貿易収支が2011年後以降2015年まで赤字化したのに、韓国の貿易収支は黒字を続けた。
◆ 韓国では、企業の時価総額が増加
韓国企業の成長は、時価総額の増加に現れている。
下図(略)は、日本と韓国の国内企業の時価総額合計額の推移を示す。
2000年から2020年の間に、日本では、3.157兆ドルから6.718兆ドルに、2.13倍になっただけだ。
これに対して、韓国企業の時価総額合計額は、同期間中に、0.171兆ドルから2.176兆ドルへと、実に12.7倍になった。
この期間に、韓国企業の利益が顕著に増加したことを示している。
◆ 韓国と台湾に登場した巨大時価総額企業:サムスンとTSMC
韓国や台湾には、時価総額が巨大な企業が登場している。
韓国のサムスンの時価総額は、現在、4419億ドルで、世界ランキング第16位だ。
台湾のTSMCは、6239億ドルで、世界ランキング第10位だ。
これらはいずれも、日本で時価総額トップの企業であるトヨタの時価総額(2567億ドル、世界第41位)より大きい。
2010年頃に、日本の電機メーカーから、「打倒サムスン」の声が起きた。
しかし、実際には、打倒されてしまったのは、日本のメーカーだった。
◆ 日本を代表する総合電機メーカーの時価総額は?
当時の日本を代表する総合電機メーカーの現在の時価総額は、次の通りだ。
ソニー:1567億ドル、日立:516億ドル、富士通:340億ドル、三菱電機:271億ドル、東芝:178億ドル、NEC:126億ドル、パナソニック:110億ドル。
これらすべてを合わせても3108億ドルで、サムスンの7割にしかならない。
これらすべてにトヨタを加えても、TSMCに及ばない。
半導体も、かつては、DRAMの分野で、日本メーカーが世界を制覇した。
いまは、台湾のTSMCが、世界のどのメーカーも追随できない製品を作っている。
日本政府は先頃、工場建設費の6割を負担してこの工場を日本に誘致することを決めた。
韓国や台湾では、通貨高が貿易収支の黒字を増大させ、経済成長率を高めて賃金を上昇させるという好循環が実現した。
それに対して、日本では、円安が貿易収支の黒字を縮小させ(あるいは赤字化し)、経済の停滞がもたらされた。
もちろん、韓国や台湾について、今後も今までのような路線を続けられるかどうかは、確実でない。
とりわけ、米中貿易戦争の影響は大きいだろう。
実際、韓国の貿易収支黒字は、2018年ごろから頭打ちになっている。これによって、経済成長も頭打ち気味だ。
また、TSMCの急成長も、半導体不足という短期的現象で増幅されている面がある(TSMCの時価総額は、2000年からわずか2年間で3倍以上になった)。
◆ 通貨安に対する民族記憶がある韓国と、ない日本
韓国が通貨安政策を求めず、通貨高を実現させたのは、1990年代末のアジア通貨危機の影響と思われる。
この時、韓国は、ウォンの暴落で国が破綻する瀬戸際まで追い詰められた。この時の経験が民族的な記憶となって、通貨政策に反映しているのであろう。
これに対して日本では、そのような経験がない。
しかし、それが以上で見たような、「亡国の円安」の進行を許す結果となった。
いま、異常なまでの円安が進んでいるにもかかわらず、国民が危機意識を持たないのは、日本は韓国のような経験をしていないためだ。
この状況から、何とかして脱却する必要がある。
『東洋経済オンライン』(2022/01/09)
https://toyokeizai.net/articles/-/500552
自ら危機意識を持って脱却する必要がある
野口 悠紀雄 : 一橋大学名誉教授
中国の工業化に対処するため、日本は「安売り戦略」を志向し、円を著しく減価させた。その結果、輸出は増えたが、貿易収支は悪化した。また、賃金も上昇せず、企業も成長しなかった。昨今の経済現象を鮮やかに斬り、矛盾を指摘し、人々が信じて疑わない「通説」を粉砕する──。野口悠紀雄氏による連載第60回。
韓国や台湾は、通貨を増価させた結果、貿易黒字が拡大した。それにより、経済成長率が高まり、賃金が上昇した。また、企業が成長した。
◆ 中国工業化への対応:「安売り」か、「差別化」か
いま、韓国や台湾の賃金や1人あたりGDPが、日本に近づき、あるいは日本を追い越そうとしている。
20年以上にわたる日本経済の停滞と、韓国・台湾の顕著な経済成長が、この結果をもたらすことになった。
なぜこうしたことが生じたのだろうか?
それは中国の工業化への対処の違いによると考えられる。
1980年頃から始まった中国の工業化が、1990年代に本格化した。安い労働力を使って、それまで先進国の製造業が作っていた製品を、はるかに安い価格で作り、輸出を増大させた。
これによって、先進国の製造業は極めて大きな打撃を受けた。
中国の工業化に対応するのに、2つの方策がある。
第1は、輸出品の価格を切り下げて、中国の低価格製品に対抗することだ。これを「安売り戦略」と呼ぶことにしよう。
第2は、中国が作れないもの、あるいは中国製品より品質が高いものを輸出することだ。これを「差別化戦略」と呼ぼう。
◆ 日本は安売り戦略
日本は2000年頃以降、「安売り戦略」をとった。
国内の賃金を円ベースで固定し、かつ円安にする。
これによって、ドル表示での輸出価格を低下させて、輸出を増大させようとした。
十分に円安にすれば、輸出が増えるだけでなく、企業の利益を増やすことができる。
「ボリュームゾーン」と呼ばれた政策は、「安売り戦略」の典型だ。
これは、新興国の中間層を対象に、安価な製品を大量に販売しようとするものだ。
この考えは、1996年度の『ものづくり白書』で取り上げられた。そして、2000年頃から顕著な円安政策が始まり、また、1990年代前半までは上昇していた賃金が頭打ちになった。
◆ 韓国と台湾は、技術を高度化
この間に、韓国、台湾では国内の賃金が上昇した。また、為替レートが傾向的に減価することもなかった。
これは、少なくとも結果的に言えば、「差別化戦略」がとられたことを意味する。品質を向上させ、あるいは中国が生産できないものを輸出するか、新しいビジネスモデルを開発したのだ。
実際、上記の図に見られるように、韓国の場合、製造業輸出品に占めるハイテク製品の比率は、30%程度であり、最近では35%程度に上昇している。
それに対して、日本の場合には20%程度であり、最近では低下している。
台湾では、鴻海が、中国の安い賃金を活用して、電子製品の組み立てを行うビジネスモデルを開発した。また、TSMC(台湾積体電路製造)は、最先端の半導体製造技術を切り開いた。
◆ 日本では貿易黒字が減少し、貿易赤字に
以上の政策がとられた結果、何が起こったか?
日本では、2000年頃から輸出が増えた。しかし、輸入額も増大した。
輸入品の中には、原油など、価格弾力性の低いものがある。これらは、輸入価格が上昇しても輸入量を減らすことができないため、通貨が安くなれば、輸入額がさらに増える。
このため、貿易黒字は減少する。
実際、日本の貿易黒字は2005年頃から減少に転じ、さらに貿易収支が赤字化した。
貿易収支悪化は、リーマンショック後に顕著になった。2012年頃の原油価格高騰期には、とくにそうだった。
日本ではサービス収支が恒常的に赤字なので、貿易サービス収支が悪化する(2011年以降、2016、2017、2018年を除けば、赤字)。これを所得収支(対外資産からの収益)で賄う形になった。
これは、家計で言えば、退職後の人々と同じパターンだ。
給料を得られないので、それまで蓄積した資産の収益で生活を支えるパターンとなる。
◆ 韓国と台湾では貿易黒字が拡大
韓国、台湾では、輸出の増加が輸入増加を超えたので、貿易収支の黒字が拡大した。
もともと韓国、台湾では、輸出に対する依存度が大きいので、この拡大は経済に大きな影響を与えたと考えられる。
なお、2000~2007年頃、アメリカの輸入が増加し、アメリカの経常収支赤字が拡大した。これは、アメリカ国内で消費が増加したためだ。これも、日本や韓国などの輸出増大に寄与した。
しかし、リーマンショックによって、このメカニズムが崩壊した。その後、日本も韓国も、輸出の伸び率は低下している。
ただし、日本の輸出が2007年頃以降ほとんど停滞してしまったのに対して、韓国、台湾の輸出は増加を続けた。
そして、日本の貿易収支が2011年後以降2015年まで赤字化したのに、韓国の貿易収支は黒字を続けた。
◆ 韓国では、企業の時価総額が増加
韓国企業の成長は、時価総額の増加に現れている。
下図(略)は、日本と韓国の国内企業の時価総額合計額の推移を示す。
2000年から2020年の間に、日本では、3.157兆ドルから6.718兆ドルに、2.13倍になっただけだ。
これに対して、韓国企業の時価総額合計額は、同期間中に、0.171兆ドルから2.176兆ドルへと、実に12.7倍になった。
この期間に、韓国企業の利益が顕著に増加したことを示している。
◆ 韓国と台湾に登場した巨大時価総額企業:サムスンとTSMC
韓国や台湾には、時価総額が巨大な企業が登場している。
韓国のサムスンの時価総額は、現在、4419億ドルで、世界ランキング第16位だ。
台湾のTSMCは、6239億ドルで、世界ランキング第10位だ。
これらはいずれも、日本で時価総額トップの企業であるトヨタの時価総額(2567億ドル、世界第41位)より大きい。
2010年頃に、日本の電機メーカーから、「打倒サムスン」の声が起きた。
しかし、実際には、打倒されてしまったのは、日本のメーカーだった。
◆ 日本を代表する総合電機メーカーの時価総額は?
当時の日本を代表する総合電機メーカーの現在の時価総額は、次の通りだ。
ソニー:1567億ドル、日立:516億ドル、富士通:340億ドル、三菱電機:271億ドル、東芝:178億ドル、NEC:126億ドル、パナソニック:110億ドル。
これらすべてを合わせても3108億ドルで、サムスンの7割にしかならない。
これらすべてにトヨタを加えても、TSMCに及ばない。
半導体も、かつては、DRAMの分野で、日本メーカーが世界を制覇した。
いまは、台湾のTSMCが、世界のどのメーカーも追随できない製品を作っている。
日本政府は先頃、工場建設費の6割を負担してこの工場を日本に誘致することを決めた。
韓国や台湾では、通貨高が貿易収支の黒字を増大させ、経済成長率を高めて賃金を上昇させるという好循環が実現した。
それに対して、日本では、円安が貿易収支の黒字を縮小させ(あるいは赤字化し)、経済の停滞がもたらされた。
もちろん、韓国や台湾について、今後も今までのような路線を続けられるかどうかは、確実でない。
とりわけ、米中貿易戦争の影響は大きいだろう。
実際、韓国の貿易収支黒字は、2018年ごろから頭打ちになっている。これによって、経済成長も頭打ち気味だ。
また、TSMCの急成長も、半導体不足という短期的現象で増幅されている面がある(TSMCの時価総額は、2000年からわずか2年間で3倍以上になった)。
◆ 通貨安に対する民族記憶がある韓国と、ない日本
韓国が通貨安政策を求めず、通貨高を実現させたのは、1990年代末のアジア通貨危機の影響と思われる。
この時、韓国は、ウォンの暴落で国が破綻する瀬戸際まで追い詰められた。この時の経験が民族的な記憶となって、通貨政策に反映しているのであろう。
これに対して日本では、そのような経験がない。
しかし、それが以上で見たような、「亡国の円安」の進行を許す結果となった。
いま、異常なまでの円安が進んでいるにもかかわらず、国民が危機意識を持たないのは、日本は韓国のような経験をしていないためだ。
この状況から、何とかして脱却する必要がある。
『東洋経済オンライン』(2022/01/09)
https://toyokeizai.net/articles/-/500552
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