◆ 減給処分取消裁判、最高裁上告棄却のおかしさ
最高裁からの3月30日付けの通知文の主文には、「本件上告を棄却する。本件を上告審として受理しない。」とあった。憲法判断を避けた逃亡。門前払い。理由は以下のように。
1、上告について
民事事件について最高裁に上告をすることが許されるのは民訴法312条1項又は2項所定の場合に限られるところ、本件上告の理由は、明らかに上記各項に規定する事由に該当しない。
2、上告受理申立てについて
本件申立ての理由によれば、本件は民訴法318条1項により受理すべきものと認められない。
これだけである。
これではなぜ棄却されたのか分らない。この決定をしたのは最高裁第一小法廷の池上政幸、大谷直人、小池裕、木澤克之の4人の裁判官。1月半ばに退官した櫻井龍子裁判官は抜けたままの4人全員一致の意見であった。
毎日新聞には2017年4月4日夕刊に載り大阪版での文面は・・・
不起立の大阪府教諭敗訴 最高裁で確定
大阪府立支援学校の卒業式で、君が代斉唱時に起立して歌わなかったとして減給処分を受けた教諭、奥野泰孝さん(59)が府に処分取り消しを求めた訴訟で、原告敗訴の2審判決が確定した。最高裁第1小法廷(池上政幸裁判長)が3月30日付で、奥野さんの上告を退ける決定をした。
大阪府立支援学校の卒業式で、君が代斉唱時に起立して歌わなかったとして減給処分を受けた教諭、奥野泰孝さん(59)が府に処分取り消しを求めた訴訟で、原告敗訴の2審判決が確定した。最高裁第1小法廷(池上政幸裁判長)が3月30日付で、奥野さんの上告を退ける決定をした。奥野さんは、卒業式での君が代の起立斉唱を定めた府条例について、思想や良心の自由を侵害しており憲法違反だと主張。1審大阪地裁判決は「式典を円滑に進行させるためで違憲ではない」とした上で、奥野さんが積極的に秩序を乱そうとしており、処分は重すぎないと判断した。2審大阪高裁も支持した。
確定判決によると、奥野さんは2013年3月の卒業式で、学校に式場外での受け付け業務を命じられていたが場内に入り、君が代を起立斉唱しなかった。府教委は、減給1カ月の懲戒処分とした。
「積極的に秩序を乱そうとしており」というのは府教委の主張であったが、地裁も高裁もその解釈を採用した。秩序を乱してはいないのである。そして、不起立の思いは真摯なものであるとも認定しているのである。
それを「乱そうとしており」と言うのは矛盾を含んでいるのである。そこは指摘してきたが、地裁も高裁も無視。ありもしないことをあるかのように判決で言ってきた。ゆえにそれが司法上「事実」となってしまったのだろう。
最高裁ではその事実をくつがえすことは難しかった。上告理由で述べてはある。しかし、職務命令違反としての処分、そして裁判所が「事実」としたことによる高裁の判決は間違ってないというのが最高裁の判断。しかし、この憲法20条に違反すると訴えた上告理由書を大阪高裁の窓口に提出したのが、2016年12月28日。3カ月での棄却決定は早すぎる。
民訴法第312条 1.上告は、判決に憲法の解釈の誤りがあることその他憲法の違反があることを理由とするときに、することができる。
2.上告は、次に掲げる事由があることを理由とするときも、することができる。ただし、第四号に掲げる事由については、第34条第2項(第59条において準用する場合を含む。)の規定による追認があったときは、この限りでない。(一~六まで)
民訴法第318条 1.上告をすべき裁判所が最高裁判所である場合には、最高裁判所は、原判決に最高裁判所の判例(これがない場合にあっては、大審院又は上告裁判所若しくは控訴裁判所である高等裁判所の判例)と相反する判断がある事件その他の法令の解釈に関する重要な事項を含むものと認められる事件について、申立てにより、決定で、上告審として事件を受理することができる。
木澤克之裁判官は加計学園の監事だった人物(2016年5月30日に加計学園の会計検査で問題なしとする監査報告書を出している。
加計学園の公式ホームページの2016年の記事に「学園の監事であられた木澤克之氏が6月17日に行われた政府閣議において、7月19日付で最高裁判所判事に任命されることが決定しました。」とある(7月21日には安倍首相と加計孝太郎理事長が食事をしている)。
木澤は立教大学出身で、学園理事長の加計孝太郎とは同窓生。弁護士で、2013年に加計学園監事となり、2016年7月19日に安倍政権によって最高裁判事に任命された。慣例を破った異例の人事だった。
安倍政権になってこうした慣例破りの最高裁人事が公然と行われるようになった。また、加計と安倍晋三は「腹心の友」と言うほど親密な関係にある。そうしたつながりで最高裁判事に任命されたのではないか。最高裁判事はそれまで経験者が選ばれていたが安倍政権は慣例を無視して判事経験なしの人物を起用した。
教員として君が代で起立斉唱はできない。
また天皇教の歌として天皇のために命を捨てろと教えるために使われたという事実において、自分の信仰において歌えない。これは自分で決めることではなく神との人格的つながりにおいて立てない。
大日本帝国憲法下の日本では、政府は「神社は宗教にあらず」という論理で、神社を「国家の宗祀」(国家が祀るべき公的施設)と位置づけ、神社神道を他の諸宗教とは異なる扱いにしていた。
「国家神道」という言葉は戦後GHQによる神道指令で使用され一般化した。「皇室神道は宗教ではないのだから、クリスチャンは礼拝前に宮城遥拝するのは当然。クリスチャンも国の父である現人神天皇を敬うのは当然」という論理を政府は押し付けてきて、「この世での命」に固執するキリスト者はその論理を受け入れ迫害を免れたが、却って神の前に霊的に死んだ。
戦前戦中の天皇信仰は紛れもなく宗教だった。その天皇賛美歌「君が代」を歌わせることは、宗教の押し付けである。この主張は時代錯誤ではない。
言葉は意味を持つ。君が代の歌詞は「国歌」としては間違いなく天皇賛美。神社本庁、日本会議の進めようとしていることは、天皇制(天皇教)を浸透させ、日本人を洗脳し続けることではないか。
彼らが努力し続けてきたことが、「君が代」強制に結実しつつある。結実しつつあるというのは、表面的にはこれを強制と思わない人々が増えてきたように見えるから。
しかし私は多くの人が忖度しているだけで、本当はおかしいいということはわかっていると思う。「あるものがなかったかのように」あるいは「ないものがあるかのように」振る舞い続けては、この社会は壊れて消え去ってしまうと思う。
(判決批判としては高裁の判決を取り上げねばなりませんが、ここでは上告棄却について書きました。)
報告 上告人 奥野泰孝(大阪府教員)
最高裁からの3月30日付けの通知文の主文には、「本件上告を棄却する。本件を上告審として受理しない。」とあった。憲法判断を避けた逃亡。門前払い。理由は以下のように。
1、上告について
民事事件について最高裁に上告をすることが許されるのは民訴法312条1項又は2項所定の場合に限られるところ、本件上告の理由は、明らかに上記各項に規定する事由に該当しない。
2、上告受理申立てについて
本件申立ての理由によれば、本件は民訴法318条1項により受理すべきものと認められない。
これだけである。
これではなぜ棄却されたのか分らない。この決定をしたのは最高裁第一小法廷の池上政幸、大谷直人、小池裕、木澤克之の4人の裁判官。1月半ばに退官した櫻井龍子裁判官は抜けたままの4人全員一致の意見であった。
毎日新聞には2017年4月4日夕刊に載り大阪版での文面は・・・
不起立の大阪府教諭敗訴 最高裁で確定
大阪府立支援学校の卒業式で、君が代斉唱時に起立して歌わなかったとして減給処分を受けた教諭、奥野泰孝さん(59)が府に処分取り消しを求めた訴訟で、原告敗訴の2審判決が確定した。最高裁第1小法廷(池上政幸裁判長)が3月30日付で、奥野さんの上告を退ける決定をした。
大阪府立支援学校の卒業式で、君が代斉唱時に起立して歌わなかったとして減給処分を受けた教諭、奥野泰孝さん(59)が府に処分取り消しを求めた訴訟で、原告敗訴の2審判決が確定した。最高裁第1小法廷(池上政幸裁判長)が3月30日付で、奥野さんの上告を退ける決定をした。奥野さんは、卒業式での君が代の起立斉唱を定めた府条例について、思想や良心の自由を侵害しており憲法違反だと主張。1審大阪地裁判決は「式典を円滑に進行させるためで違憲ではない」とした上で、奥野さんが積極的に秩序を乱そうとしており、処分は重すぎないと判断した。2審大阪高裁も支持した。
確定判決によると、奥野さんは2013年3月の卒業式で、学校に式場外での受け付け業務を命じられていたが場内に入り、君が代を起立斉唱しなかった。府教委は、減給1カ月の懲戒処分とした。
「積極的に秩序を乱そうとしており」というのは府教委の主張であったが、地裁も高裁もその解釈を採用した。秩序を乱してはいないのである。そして、不起立の思いは真摯なものであるとも認定しているのである。
それを「乱そうとしており」と言うのは矛盾を含んでいるのである。そこは指摘してきたが、地裁も高裁も無視。ありもしないことをあるかのように判決で言ってきた。ゆえにそれが司法上「事実」となってしまったのだろう。
最高裁ではその事実をくつがえすことは難しかった。上告理由で述べてはある。しかし、職務命令違反としての処分、そして裁判所が「事実」としたことによる高裁の判決は間違ってないというのが最高裁の判断。しかし、この憲法20条に違反すると訴えた上告理由書を大阪高裁の窓口に提出したのが、2016年12月28日。3カ月での棄却決定は早すぎる。
民訴法第312条 1.上告は、判決に憲法の解釈の誤りがあることその他憲法の違反があることを理由とするときに、することができる。
2.上告は、次に掲げる事由があることを理由とするときも、することができる。ただし、第四号に掲げる事由については、第34条第2項(第59条において準用する場合を含む。)の規定による追認があったときは、この限りでない。(一~六まで)
民訴法第318条 1.上告をすべき裁判所が最高裁判所である場合には、最高裁判所は、原判決に最高裁判所の判例(これがない場合にあっては、大審院又は上告裁判所若しくは控訴裁判所である高等裁判所の判例)と相反する判断がある事件その他の法令の解釈に関する重要な事項を含むものと認められる事件について、申立てにより、決定で、上告審として事件を受理することができる。
木澤克之裁判官は加計学園の監事だった人物(2016年5月30日に加計学園の会計検査で問題なしとする監査報告書を出している。
加計学園の公式ホームページの2016年の記事に「学園の監事であられた木澤克之氏が6月17日に行われた政府閣議において、7月19日付で最高裁判所判事に任命されることが決定しました。」とある(7月21日には安倍首相と加計孝太郎理事長が食事をしている)。
木澤は立教大学出身で、学園理事長の加計孝太郎とは同窓生。弁護士で、2013年に加計学園監事となり、2016年7月19日に安倍政権によって最高裁判事に任命された。慣例を破った異例の人事だった。
安倍政権になってこうした慣例破りの最高裁人事が公然と行われるようになった。また、加計と安倍晋三は「腹心の友」と言うほど親密な関係にある。そうしたつながりで最高裁判事に任命されたのではないか。最高裁判事はそれまで経験者が選ばれていたが安倍政権は慣例を無視して判事経験なしの人物を起用した。
教員として君が代で起立斉唱はできない。
また天皇教の歌として天皇のために命を捨てろと教えるために使われたという事実において、自分の信仰において歌えない。これは自分で決めることではなく神との人格的つながりにおいて立てない。
大日本帝国憲法下の日本では、政府は「神社は宗教にあらず」という論理で、神社を「国家の宗祀」(国家が祀るべき公的施設)と位置づけ、神社神道を他の諸宗教とは異なる扱いにしていた。
「国家神道」という言葉は戦後GHQによる神道指令で使用され一般化した。「皇室神道は宗教ではないのだから、クリスチャンは礼拝前に宮城遥拝するのは当然。クリスチャンも国の父である現人神天皇を敬うのは当然」という論理を政府は押し付けてきて、「この世での命」に固執するキリスト者はその論理を受け入れ迫害を免れたが、却って神の前に霊的に死んだ。
戦前戦中の天皇信仰は紛れもなく宗教だった。その天皇賛美歌「君が代」を歌わせることは、宗教の押し付けである。この主張は時代錯誤ではない。
言葉は意味を持つ。君が代の歌詞は「国歌」としては間違いなく天皇賛美。神社本庁、日本会議の進めようとしていることは、天皇制(天皇教)を浸透させ、日本人を洗脳し続けることではないか。
彼らが努力し続けてきたことが、「君が代」強制に結実しつつある。結実しつつあるというのは、表面的にはこれを強制と思わない人々が増えてきたように見えるから。
しかし私は多くの人が忖度しているだけで、本当はおかしいいということはわかっていると思う。「あるものがなかったかのように」あるいは「ないものがあるかのように」振る舞い続けては、この社会は壊れて消え去ってしまうと思う。
(判決批判としては高裁の判決を取り上げねばなりませんが、ここでは上告棄却について書きました。)
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