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東京都の元「藤田先生を応援する会」有志によるブログ(2004年11月~2022年6月)のアーカイブ+αです。

「大逆事件」百年 管野須賀子への再照明と復権を願う

2010年10月21日 | 平和憲法
 =「大逆事件」百年=
 ▼ 管野須賀子への再照明と復権を願う
女性史研究家 鈴木裕子

 ▼ 植民地主義の帰結

 「大逆罪事件」-思想を裁く政治裁判・冤罪事件であった。今年2010年は、いわゆる「大逆事件」百年の年である。
 「韓国強制併合(強制占領)」百年の年でもあり、この二つは、偶然に起こった事件でもなく事象でもない。しかし、この稿では、二つのことを詳しく関連づけて述べる余裕はない。ただ、明治国家〈近代天皇制国家〉が、植民地主義の帰結としての「韓国強制併合」(「併合条約」締結は、1910年8月29日)を前に、強力な反対勢力となりうる社会主義者・無政府主義者一掃を狙ったものであったことだけは明確に指摘できる。
 ▼  思想裁く政治裁判・冤罪
 「大逆事件」というが、これは本来、「大逆罪事件」とも言われるべきである。なぜならこの事件は、旧刑法第73条のいわゆる「大逆罪」に無理やり結びつけ、罪なき人びとを断罪し、縊(くび)り殺し、その遺家族を塗炭の苦しみに陥れた冤罪事件だからである。
 平民社(1903年創立)の理念である、「自由・平等・博愛」を基盤に日本の社会主義運動は開始されるが、大逆事件で縊り殺される人たちもまた、人間の自由や平等、社会的な公正、正義を求め、社会主義やアナーキズムに惹かれた、「平等主義」「人間愛」の持ち主たちであった。
 言いかえれば「大逆事件」とは、これらの思想を抱く人びとが裁かれたのであって、裁判は思想を裁く政治裁判であった
 赤旗事件~「殷鑑(いんかん)遠からず赤旗事件にあり」とはいえ「大逆事件」の直接の淵源は、1908年の「赤旗事件」にあった。この事件での、社会主義者多数への不当な検挙と、獄中での女性被疑者4人を含む酷薄な拷問を含む弾圧があった。
 この4人の女性に管野須賀子が含まれる。「赤旗事件」で彼女らに加えられた拷問は凄まじく、おそらく「性拷問」もなされたであろう。
 管野は、この自分たちが受けた酷薄な残虐を胸に刻み込み、権力に対しての復讐として、ごく少数の同志と図って「爆裂弾」計画の「謀議」をなした
 仲間の一人、宮下太吉による爆裂弾炸裂の「実験」が官憲の察知するところにより、せいぜいは爆発物取締罰則違反程度の未遂事件にすぎなかったのを、権力は抜け目なく、即座に「大逆罪」へと仕立てていったのである。
 管野・幸徳秋水ら26人が非公開の文字通り「暗黒裁判」にかけられ、検挙から8カ月も経たない1911年1月18日の判決で、24人に死刑宣告がなされ(翌日、半数は天皇の「恩赦」で無期に減刑される)、1週間も経ぬうちに、彼女彼らは絞首台の露と消えた。
 ▼  すぐれて「人間愛」の持ち主
 管野は、検挙当時、幸徳秋水と発行していた『自由思想』の編集・発行人として、罰金刑に服していた。
 幸徳は、赤旗事件当時、故郷の高知県中村で病を養っていたため連座を免れたが、その後、出京、管野との関係で、「大逆事件」に巻き込まれることになったのであった(ちなみに赤旗事件で投獄されていた堺利彦、山川均らは免れた)。まさに「禍福は糾(あざな)える縄の如し」であった。
 「死出の道艸」~私は私自身を欺かず
 「死刑の宣告を受けし今日より絞首台に上る前までの己を飾らず偽らず自ら欺かず極めて卒(ママ)直に記し置かんとするものなれ」の一節は、管野の獄中手記・遺言ともいうべき「死出の道艸(みちくさ)」の書き出しである。
 このなかで管野は、同志を救えなかった悔しさと権力への走狗となる検事や判事たちを糾弾している。
 判決文を「読む程に聞く程に無罪と信じて居た者まで、強ゐて七十三条に結びつけ様とする、無法極まる牽強付会(こじつけ)」「功名、手柄を争って一人でも多くの被告を出さうと苦心惨澹の結果は、終に詐欺、ペテン、強迫」「〔無政府主義者の〕理想は絶対の自由平等にあること故、自然皇室をも認めないといふ結論に達するや、否、達せしめるや、直ちに其法論を取つて以て調書に記し、夫等(それら)の理論や理想と直接に何等の関係の交渉もない今回の事件に結びつけて、強ゐて罪なき者を陥れて了ったのである」と。
 同志を想い、痛む心の一方で、管野は自己への率直な感懐を記す。「私は私丈けの天真を流露して居ればよいのである。人が私を見る価値如何などはどうでもよい。私は私自身を欺かずに生を終ればよいのである」。
 ▼ フェミニズムの先駆
 管野須賀子には長い間、男を惑わす類いの「妖婦」像のイメージが再生産され、流通され続けてきた。これはジェンダーバイアスのかかった「須賀子」像にすぎず、虚像でしかない。
 この虚像の原型をつくりあげたのは、かつての共同生活者であった荒畑寒村であったが、その寒村に対しても、最期に臨む管野の気持ちは優しい。「私は衷心から前途多望な彼の為めに健康を祈り、且つ彼の自重自せん事を願ふ」。
 管野須賀子(1881年6月7日~1911年1月25日)が、すぐれて「人間愛」の持ち主であったことがこの短い一文でも感じられよう。
 最期に管野が先駆的フェミニストで、女性社会主義者の先駆けをなしたことも付け加えて筆を置こう。
『週刊新社会』(2010/10/19)

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