◆ 毛子埠事件の《情報をお寄せください》
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(画像は、現在の記念館)
皆様へ、日中友好と教育の自由のために〈中国通信・特別号〉を送ります。
重複お許しください。ご意見ご批判をお願いします。転送OK。
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《情報をお寄せください》
私たちが交流している<毛子埠記念館>に関して、青島の新聞が報道しましたので、翻訳して送ります。
事件は1938年5月のこと、地点は青島の北・即墨市毛子埠村、当時、山東省・?県・南泉・藍村に駐屯していた日本軍による虐殺事件。私たちは日本側の責任として、当時、虐殺にかかわった日本軍兵士及び関係者から事情を聴き、また、関係資料から事件の全貌を明らかにしたいと考えています。
お知り合いの方が、当時、山東に派遣されていたとか、事件関係のことを聞いたことがある等、また、山東の写真等資料をお持ちの方、調査に関するアドバイス等、ぜひ、このアドレスもしくは以下にご連絡ください。個人情報については、情報提供者の意向を厳守します。
近藤順一:〒213-0033 川崎市下作延4-2-22-202
TEL/FAX 044-877-1266
日本の中国侵略はひとつの暴行史であり、青島人民にとって振り返るのも耐えられない。
日本軍の青島侵略は天をも突き、刀・銃で青島人を制圧し、老人・夫人・子どもまで殺され、その一つ一つが侵略者の罪行を記している。青島毛子埠抗戦記念館には大量の写真・映像と生存者の記憶資料があり、あの歴史は歳月が過ぎても埋もれさせない。
我々は日本軍の暴行の歴史を記憶し虐殺された亡き魂が現実に警鐘を鳴らし、われわれが前進するのを励ますことを希望する。
毛子埠虐殺 八路軍の捜索逮捕のために村民の家を包囲する
1938年5月8日に発生した毛子埠虐殺、この僅か500人ほどの村は日本軍によって半数の命が奪われた。1938年5月7日夜半、藍村駅に駐屯していた日本軍小隊が、傀儡藍村維持会長・陳世顕と李徳法の誘導で、毛子埠村に八路軍の捜索にやってきた。日本軍は、村民・趙永観の家をしっかりと取り囲み、李徳法は中に向かって叫んだ。“中の者は早く出て来い、そうでなければ火を放ち、銃撃する。”中の者は発砲し、その場で一人の日本兵を撃ち殺し、通訳と一人の軍官もけがをした。日本軍官は直ちに銃撃・放火を命じた。趙家の前後は火が燃え盛り銃声がこだました。
村長・趙永聚は趙永観のいとこで両家は近隣だった。当時、趙永聚2丁の銃を持っていた、1つはピストル、1つは歩兵銃及び支えの銃であった。特にこの支え銃は殺傷力が強く、黒色火薬・鉄砂と鉄片を装てんし、射程は30メートル以上、殺傷幅は20メートルほど。趙永聚は驚き火が天をつき銃声がなり誰がきたのかもわからずだれかれつかまえ外に発砲することを命じた。日本軍は、趙永聚の家も放火し直ちに突き進み、趙家は“ドカン”と発砲し、8名の日本軍を殺し、多くを負傷させた。趙永聚・趙永観・趙復順は混乱に乗じて村から逃げ出した。日本軍頭目は、部下が、死ぬ者は死に、負傷するものは負傷し、捕まえようとしてもその影もなく、怒り狂った。こっそり得をしようとして返って損をし、死体と負傷兵を伴って慌てふためいて去った。
日本軍は残忍にも村民を虐殺し、7時間で180人余りを殺傷
この虐殺はすさまじく、一家全滅が4戸、焼却民家700以上、焼死家畜20頭以上、焼却食料・家具・衣類は数知れず。この秋、驚愕・痛苦・憂慮で50人以上が病死。たった500人ほどの村が日本の強盗によって一度に半数近くの生命が奪われた。
虐殺後、村中には狼藉・残骸の火は消えず街のあちこちに死体が積み上げられその惨状は戦慄させるものであった。午後隣村の村人がやってきて死体を埋めるのを手伝った。その後半月余り、村には一人もいなくて、死の世界に変わった。
1938年5月8日、毛子埠村の人々が永遠に忘れられない日である!この日の明け方、前の晩ここでこっぴどくやられた日本軍は、?県・南泉・藍村から多くの人馬を集め、毛子埠村を鉄の桶のように取り囲んだ。日本軍は機関銃と小銃を備え付け、歩兵銃にはぎらぎら光る剣を指し、勇躍村に侵入した。すぐに、毛子埠村は、血なまぐさい雨が降る大災難に見舞われた。
日本軍は、捕まえた44名の青壮年を2間の小屋に閉じ込め、周囲から高粱柄に火をつけ、外には機関銃を備え付けた。燃え盛る火の中、中では焼かれて泣き叫び、もがき苦しんだ、日本軍はそばで拍手し笑っていた。44名の同胞の中で7名が脱出し、4名が射殺され、3名が逃れ、残りの37名が焼き殺された。その後、家族が遺体を確認したとき、焼けてはっきりせず、どれが自分の親族か判別できなかった。勝手に1つを担いで帰って、埋葬するしかなかった。
別の捕まった15名の若者は、ひどく殴られ、機関銃で射殺された。郭?岩・郭洪丕・?福河等の村民は、あるものは日本軍によって縄で首をくくられ木に吊り下げられ、刀で腹から首まで裂かれた。
あるものは両足を縛られ木に吊るされ、刀で胸から腹まで割かれ、腸が地に流れていた。血は流れあふれ、その惨状は目を覆うばかりだった。村民・?永?は長年病気で、暖炉に横たわったまま動けない、このような病人も日本軍は許さなかった。無理やり大通りに引きずり出し、刺し殺した。妊婦・李姜氏は、まもなく出産だったが、日本軍の暴行を見て驚きあわてて村から逃げ出したが、日本軍につかまり腹を割かれ,母子二人とも生きたまま日本軍に虐殺された。
朱?春一家4人は、縛られた。日本軍はまず、おじいさんと父親と伯父さんを刺し殺し、満15歳になったばかりの朱?春は、大人たちと一緒に倒れていた。このようにして、3代の中でただ朱?春だけが幸いにも生き残った。(翻訳:近藤)
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(画像は、現在の記念館)
皆様へ、日中友好と教育の自由のために〈中国通信・特別号〉を送ります。
重複お許しください。ご意見ご批判をお願いします。転送OK。
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《情報をお寄せください》
私たちが交流している<毛子埠記念館>に関して、青島の新聞が報道しましたので、翻訳して送ります。
事件は1938年5月のこと、地点は青島の北・即墨市毛子埠村、当時、山東省・?県・南泉・藍村に駐屯していた日本軍による虐殺事件。私たちは日本側の責任として、当時、虐殺にかかわった日本軍兵士及び関係者から事情を聴き、また、関係資料から事件の全貌を明らかにしたいと考えています。
お知り合いの方が、当時、山東に派遣されていたとか、事件関係のことを聞いたことがある等、また、山東の写真等資料をお持ちの方、調査に関するアドバイス等、ぜひ、このアドレスもしくは以下にご連絡ください。個人情報については、情報提供者の意向を厳守します。
近藤順一:〒213-0033 川崎市下作延4-2-22-202
TEL/FAX 044-877-1266
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~日本侵略者の青島での焼きつくし殺しつくし奪いつくす犯罪は天をも揺るがす罪行
毛子埠:7時間で180人以上が惨殺された
〔青島早報2015.7.20〕
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日本の中国侵略はひとつの暴行史であり、青島人民にとって振り返るのも耐えられない。
日本軍の青島侵略は天をも突き、刀・銃で青島人を制圧し、老人・夫人・子どもまで殺され、その一つ一つが侵略者の罪行を記している。青島毛子埠抗戦記念館には大量の写真・映像と生存者の記憶資料があり、あの歴史は歳月が過ぎても埋もれさせない。
我々は日本軍の暴行の歴史を記憶し虐殺された亡き魂が現実に警鐘を鳴らし、われわれが前進するのを励ますことを希望する。
毛子埠虐殺 八路軍の捜索逮捕のために村民の家を包囲する
1938年5月8日に発生した毛子埠虐殺、この僅か500人ほどの村は日本軍によって半数の命が奪われた。1938年5月7日夜半、藍村駅に駐屯していた日本軍小隊が、傀儡藍村維持会長・陳世顕と李徳法の誘導で、毛子埠村に八路軍の捜索にやってきた。日本軍は、村民・趙永観の家をしっかりと取り囲み、李徳法は中に向かって叫んだ。“中の者は早く出て来い、そうでなければ火を放ち、銃撃する。”中の者は発砲し、その場で一人の日本兵を撃ち殺し、通訳と一人の軍官もけがをした。日本軍官は直ちに銃撃・放火を命じた。趙家の前後は火が燃え盛り銃声がこだました。
村長・趙永聚は趙永観のいとこで両家は近隣だった。当時、趙永聚2丁の銃を持っていた、1つはピストル、1つは歩兵銃及び支えの銃であった。特にこの支え銃は殺傷力が強く、黒色火薬・鉄砂と鉄片を装てんし、射程は30メートル以上、殺傷幅は20メートルほど。趙永聚は驚き火が天をつき銃声がなり誰がきたのかもわからずだれかれつかまえ外に発砲することを命じた。日本軍は、趙永聚の家も放火し直ちに突き進み、趙家は“ドカン”と発砲し、8名の日本軍を殺し、多くを負傷させた。趙永聚・趙永観・趙復順は混乱に乗じて村から逃げ出した。日本軍頭目は、部下が、死ぬ者は死に、負傷するものは負傷し、捕まえようとしてもその影もなく、怒り狂った。こっそり得をしようとして返って損をし、死体と負傷兵を伴って慌てふためいて去った。
日本軍は残忍にも村民を虐殺し、7時間で180人余りを殺傷
この虐殺はすさまじく、一家全滅が4戸、焼却民家700以上、焼死家畜20頭以上、焼却食料・家具・衣類は数知れず。この秋、驚愕・痛苦・憂慮で50人以上が病死。たった500人ほどの村が日本の強盗によって一度に半数近くの生命が奪われた。
虐殺後、村中には狼藉・残骸の火は消えず街のあちこちに死体が積み上げられその惨状は戦慄させるものであった。午後隣村の村人がやってきて死体を埋めるのを手伝った。その後半月余り、村には一人もいなくて、死の世界に変わった。
1938年5月8日、毛子埠村の人々が永遠に忘れられない日である!この日の明け方、前の晩ここでこっぴどくやられた日本軍は、?県・南泉・藍村から多くの人馬を集め、毛子埠村を鉄の桶のように取り囲んだ。日本軍は機関銃と小銃を備え付け、歩兵銃にはぎらぎら光る剣を指し、勇躍村に侵入した。すぐに、毛子埠村は、血なまぐさい雨が降る大災難に見舞われた。
日本軍は、捕まえた44名の青壮年を2間の小屋に閉じ込め、周囲から高粱柄に火をつけ、外には機関銃を備え付けた。燃え盛る火の中、中では焼かれて泣き叫び、もがき苦しんだ、日本軍はそばで拍手し笑っていた。44名の同胞の中で7名が脱出し、4名が射殺され、3名が逃れ、残りの37名が焼き殺された。その後、家族が遺体を確認したとき、焼けてはっきりせず、どれが自分の親族か判別できなかった。勝手に1つを担いで帰って、埋葬するしかなかった。
別の捕まった15名の若者は、ひどく殴られ、機関銃で射殺された。郭?岩・郭洪丕・?福河等の村民は、あるものは日本軍によって縄で首をくくられ木に吊り下げられ、刀で腹から首まで裂かれた。
あるものは両足を縛られ木に吊るされ、刀で胸から腹まで割かれ、腸が地に流れていた。血は流れあふれ、その惨状は目を覆うばかりだった。村民・?永?は長年病気で、暖炉に横たわったまま動けない、このような病人も日本軍は許さなかった。無理やり大通りに引きずり出し、刺し殺した。妊婦・李姜氏は、まもなく出産だったが、日本軍の暴行を見て驚きあわてて村から逃げ出したが、日本軍につかまり腹を割かれ,母子二人とも生きたまま日本軍に虐殺された。
朱?春一家4人は、縛られた。日本軍はまず、おじいさんと父親と伯父さんを刺し殺し、満15歳になったばかりの朱?春は、大人たちと一緒に倒れていた。このようにして、3代の中でただ朱?春だけが幸いにも生き残った。(翻訳:近藤)
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