《日経ビジネスon-line》『統計学者吉田耕作教授の統計学的思考術』から
◆ 日本の教育の崩壊はなぜ起きたのか
~「成績」は時と場合によって異なるものである

日本の教育が危機に面していると言われて久しい。最近では、経済協力開発機構(OECD)が発表した2008年の加盟国の国内総生産(GDP)に占める教育機関への公的支出の割合は、2005年、2007年に続いて日本は31カ国中で最低である。しかも、公的教育機関の不足を補うべく、教育支出に占める私費負担の割合は33.6%で、チリ、韓国、英国に続いて4番目に高い水準だという。
国の教育費の支出があまりにも低いという問題は、現場で危機的な症状として表れている。文部科学省の調査で分かった事は、2009年度中にうつ病などの精神疾患で休職した全国の教員は5458人と過去最高を更新し、04年度の1.5倍であった。新聞報道によると、都道府県別の教職員の休職者の率は、1位が沖縄県で1.14%、2位が大阪府の0.94%、3位が東京の0.90%となっている。
◆ 教師が置かれた現状
東京都では、2007年度に精神疾患で416人の教員が休職し、その数が急増するのを受けて、公立学校の全教員に早期発見を目的としてストレステストを行った。「よく眠れるか」とか「1日3食とっているか」とか「日常の仕事に苦痛を感じるか」とかの問診票にこたえる形を取っている。
(略)
表1 教職員の授業時間、勤務時間の国際比較(略)
資料:OECD The Teaching and Learning International Survey(TALIS)2007-8
表1でも明らかなように、主要な先進国の間では日本と米国が突出して勤務時間が長い。
しかも日本は全就業時間に占める授業時間が非常に少なく、全体の就業時間の4の分1から3分の1ぐらいになっている。これはいかに、授業時間以外の仕事に多大の時間を費やしているかを示すものである。
校長や副校長や教頭のような管理職に選ばれた人たちは、管理職でいることに疲れ、自ら教諭への降格を選ぶ「希望降任」が増えているという。文部科学省の2009年度の調査では、全国の公立小中高、特別支援学校で223人という過去最多の希望降任者がいたという。降任希望の理由は健康上の問題が48%、職務上の問題が26%、家庭の事情が25%となっているが、これらは明らかに表面上の理由であり、教育の現場は末端の管理者がどうする事もできない状態なのであろう。
文科省やその他の行政の最高経営責任者達は、現場の管理者が管理できない状態を無視し、末端に責任を転嫁している現状が浮かび上がってくる。これらの末端の管理職は、担いきれない書類作りや来客への応対、地域の行事への参加などを求められ、毎日残業をし、持ち帰りの仕事も多量に抱えている状況である。
これらをもう少し巨視的にみると、公立の小中高校と特別支援学校で中途退職する教員が全国で毎年1万2000人を超え、この5年間では6万7000人におよぶ事が、朝日新聞の調査で分かった。これは国家的に大きな損失である。久富善之・一橋大学名誉教授は成果主義による教員評価の導入なども背景にあると指摘している。
また、文科省が06~08年に外部委託した調査では「勤務時間以外でする仕事が多い」という回答が9割と一般企業の2倍に及び、「気持ちが沈んで憂うつ」という教員は27.5%で一般企業の約3倍に上った。
(略)
◆ 教育の崩壊の背景にある日本社会
協調は日本の文化である。私が長い米国生活の中で、何が一番、日本と米国を分ける最大の特質かと考えた時、それは競争か協調かという事であった。先日の東日本大震災の時、避難民たちが、我れ先に助かろうとしたのではなく、人々と助け合い、整然と救援を待つ姿は、世界の人々に深い感銘の念を与えた。
明治維新で西洋文明が大量に押し寄せたが、中でも自由競争は特筆すべきものである。そして第二次大戦後は米国流の自由競争が主たる概念となっていった。しかしそれらの時、日本人は協調を捨てる事なく競争を取り入れ、競争と協調の絶妙なバランスをとってきたのである。
日本の経済は高度経済成長を遂げ、20世紀を通して世界最高の成長率を達成した。その原動力として、日本の教育も世界のお手本とされてきた。
それではなぜ、日本の経済成長率は鈍化し、教育は荒廃し、人々は将来に対する希望さえをも失い始めているのだろうか。
(略)
◆ 大阪維新の会の教育基本条例案
大阪で審議中の維新の会の教育基本条例案は、基本的に、教員を個人的にも、学校単位でも、地域同士でも、競争させたらすべてがうまくいくという、競争を土台とした考え方である。
「知事と教育委員会が協議して学校が実現すべき目標を設定する」とある。日産自動車のゴーンさんが「コミットメント」(必達目標)と言って目標値を設定して全社にハッパをかけた時、私はそのうちこれは失敗すると予言した。そして結局失敗し、後に取り下げたのは多くの読者の記憶に残っている事であろう。デミング博士は「目標による管理をやめよ」と言った。我々はこの言葉をよく噛み締めなければならない。
教職員は相対的評価とし、最低評価(全体の5%)が2回連続すれば、免職を含む処分とするという。成果というのは非常に測りにくいものである。学力検査の結果は色々な要因の混合した結果であり、これが教師の結果であると他の要因から分離して抽出する事はできない。
小学校6年生の学力調査では児童の世帯年収の格差が成績の格差になって表れるというレポートがある。生徒の成績で教員が影響できる範囲は限られている。一般に一人の人が組織の中で自分の成果だと言われるもののうち、8割は環境の産物とされる。真の個人の成果は大体2割しかないと言われている。
学力テストを行い、学校間で、あるいは教師間で競争を奨励すると、教師達は協力をしたがらなくなり、教育は荒廃する。先輩の教員が後輩の教員に教え、教員同士も協調し合って、お互いに成長する事が、生徒の学力を向上させるために最も有効な方法である。協調することによってバラツキを減らし、平均値を向上させるのである。
現在多くの企業で行われている成果主義の結果、勤労意欲を失った社員が増えている。クビにすると脅すのは恐怖によるマネジメントであり、人々を委縮させ創意工夫の意欲をなくす。
◆ 管理図の方法で考えてみると
どうしても教師の能力を、非常に優秀な教師と、普通の教師と、援助ないし特別の訓練を必要としている教師に峻別するのならば、前回説明した管理図の方法を用いるとよい。
すべての教員の業務評価を縦軸にとり、横に50人の教員を並べ、その評価をグラフにしてみると、図1のような管理図が出来る。真ん中の線は全体の平均値で上のUCL(Upper Control Limit:上部管理限界線)は中心から3標準偏差離れているし、LCL(Lower Control Limit:下部管理限界線)は中心線から3標準偏差下にある。UCL線の上に出た人たちは一応優秀な人達とみなされ、LCL線の下の人たちは特別の助けを必要としている。
例えば、子供が病気で長い事入院しているとか、夫婦仲がうまくいかないとか、介護を必要とする両親を抱えているとか、それぞれ色々な問題を抱えている人たちがいる。授業の仕方そのものが良く分かっていないのかもしれない。一方、二つの限界線の間にある人は、差をつける必要はない。どうせ、上がったり下がったりする。
これらの評価点は時と場合によって評価が異なるのである。つまり、業務成績というものには、実際の業務遂行がうまく行かない時もあるであろうが、上司に嫌われていて偏見のある評価だとか、評価の間違いもいくらでもある。学校が異なれば、生徒の家庭の所得水準も影響があるであろう。生徒の学力テストの結果には、これらのあらゆる変数が影響を与えるので、個々の点はあまり意味をなさないのである。従って多数の教師を相対評価して優劣を決めるという事は、それほど簡単な事ではない。
◆ 個人の長期の業績評価も同じ
これまでのストーリーを少々変えて、図1はある個人の長期にわたる業績評価の結果であるとしよう。つまり横軸に時間をとった。そうすると、同じ個人でありながら、非常に良い成績の時もあれば、非常に悪い成績の時もあるであろう。もしもある教員の業績評価がLCLよりも下だったとしても、同じ個人をもう少し長い目で見たならば、苦しい時期を超えて、通常の成績に戻ることができる事が多い。そして社会に貢献できるのである。
必要な事は、適度の援助と訓練である。もしこの人がLCLの下に行ったときにクビになったならば、その後、落ちこぼれとして社会の重荷になる可能性がある。それは社会全体にとってあまりにも損失が大きい。米国社会を見ても分かるとおり、競争社会というのは非常に高くつく社会なのである。今の日本にその余裕はない。
この時系列を右端に投影したのが正規分布であるとすると、LCLの下になる確率は0.13%なのである。つまり、どうしてもクビにしたいのなら、約1000人に1人がクビになるという事である。UCLやLCLが中心から3標準偏差であるのは、それがもっとも経済的な分岐点であるから、そう決められたのである。
5%というのはどこからきた数字なのだろう。5%の人間を毎年入れ替えていくと、いつになったら満足のいく組織になるのだろうか。クビになった人間はどこに行き、新しい人はどこから来るのか。それは、よそでクビになった人の場合が多い。適切な教育や訓練といった地道な努力なしに、どこからか優秀な人などやって来ないのだ。
◆ 長期にわたる評価を重ねて初めて本当の評価が見える
20世紀を通してみると、競争社会を形成し、成果主義で人が簡単にクビになる米国よりも、年功序列制や終身雇用制を維持してきた日本の方が成長率ははるかに高いのである。長期にわたって評価を重ねて初めて、色々な評価の誤りや偏見やその他もろもろの雑音は相殺されて本当の価値が見えてくるのである。
生徒の成績の評価も同様である。橋下知事はソウルで8割以上が飛び級で大学に進む高校を訪問したそうであるが、そもそも8割もの生徒が特別扱いになるのは管理図の原理を理解していない。つまり、経済的に最も悪い教育と言える。高校の教育のレベル全体をもっと引き上げる努力をすべきである。本当に飛び級を必要とする生徒は、全体の0.13%つまり1000人に1人位ではないだろうか。
個々の評価にあまり反応せずに、長期的に観察した時系列を右に投影して見ると、本当に優秀な教師は他の平均的な教師と比べて明確に識別できるのである。こういう人達を教頭先生や校長先生にし、また教育員会の委員にするならば、日本の教育の質は間違いなく向上するであろう。
(図2参照。これは2009年11月12日の「評価とは正当な業績測定と誤差が重なったものと肝に銘ずること」で扱ったものである)(略)
条例の草案を作った大阪市議は、サッチャー時代の英国の教育改革に影響されたそうだ。表1で明らかなように、英国の教員の勤務時間は日本の約3分の2しかなく、雑用は勤務時間の半分にも満たない。このような恵まれた職場環境を与え、教員に社会的地位の向上を図ることこそ、英国から学ぶ第一の事ではないか。
リソースを与えず競争に駆り立てて何が生まれるというのだろう。私は英国がサッチャー政権時代に経済が飛躍的に成長した最大の原因は、北海から石油が出た事だと思う。しかも、英財務省の調査で、2007年には英国上場企業の約半数が外資の傘下に入っている事が分かった。そして、英国の人口のなんと10人に1人がより良い質の生活を求めて海外移住している。こういう状態で、英国の教育が成功し、より豊かな社会を作り出したと言えるのであろうか。
『統計学者吉田耕作教授の統計学的思考術』(2011年10月20日)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20111012/223154/?P=1
◆ 日本の教育の崩壊はなぜ起きたのか
~「成績」は時と場合によって異なるものである
吉田 耕作 【プロフィール】

日本の教育が危機に面していると言われて久しい。最近では、経済協力開発機構(OECD)が発表した2008年の加盟国の国内総生産(GDP)に占める教育機関への公的支出の割合は、2005年、2007年に続いて日本は31カ国中で最低である。しかも、公的教育機関の不足を補うべく、教育支出に占める私費負担の割合は33.6%で、チリ、韓国、英国に続いて4番目に高い水準だという。
国の教育費の支出があまりにも低いという問題は、現場で危機的な症状として表れている。文部科学省の調査で分かった事は、2009年度中にうつ病などの精神疾患で休職した全国の教員は5458人と過去最高を更新し、04年度の1.5倍であった。新聞報道によると、都道府県別の教職員の休職者の率は、1位が沖縄県で1.14%、2位が大阪府の0.94%、3位が東京の0.90%となっている。
◆ 教師が置かれた現状
東京都では、2007年度に精神疾患で416人の教員が休職し、その数が急増するのを受けて、公立学校の全教員に早期発見を目的としてストレステストを行った。「よく眠れるか」とか「1日3食とっているか」とか「日常の仕事に苦痛を感じるか」とかの問診票にこたえる形を取っている。
(略)
表1 教職員の授業時間、勤務時間の国際比較(略)
資料:OECD The Teaching and Learning International Survey(TALIS)2007-8
表1でも明らかなように、主要な先進国の間では日本と米国が突出して勤務時間が長い。
しかも日本は全就業時間に占める授業時間が非常に少なく、全体の就業時間の4の分1から3分の1ぐらいになっている。これはいかに、授業時間以外の仕事に多大の時間を費やしているかを示すものである。
校長や副校長や教頭のような管理職に選ばれた人たちは、管理職でいることに疲れ、自ら教諭への降格を選ぶ「希望降任」が増えているという。文部科学省の2009年度の調査では、全国の公立小中高、特別支援学校で223人という過去最多の希望降任者がいたという。降任希望の理由は健康上の問題が48%、職務上の問題が26%、家庭の事情が25%となっているが、これらは明らかに表面上の理由であり、教育の現場は末端の管理者がどうする事もできない状態なのであろう。
文科省やその他の行政の最高経営責任者達は、現場の管理者が管理できない状態を無視し、末端に責任を転嫁している現状が浮かび上がってくる。これらの末端の管理職は、担いきれない書類作りや来客への応対、地域の行事への参加などを求められ、毎日残業をし、持ち帰りの仕事も多量に抱えている状況である。
これらをもう少し巨視的にみると、公立の小中高校と特別支援学校で中途退職する教員が全国で毎年1万2000人を超え、この5年間では6万7000人におよぶ事が、朝日新聞の調査で分かった。これは国家的に大きな損失である。久富善之・一橋大学名誉教授は成果主義による教員評価の導入なども背景にあると指摘している。
また、文科省が06~08年に外部委託した調査では「勤務時間以外でする仕事が多い」という回答が9割と一般企業の2倍に及び、「気持ちが沈んで憂うつ」という教員は27.5%で一般企業の約3倍に上った。
(略)
◆ 教育の崩壊の背景にある日本社会
協調は日本の文化である。私が長い米国生活の中で、何が一番、日本と米国を分ける最大の特質かと考えた時、それは競争か協調かという事であった。先日の東日本大震災の時、避難民たちが、我れ先に助かろうとしたのではなく、人々と助け合い、整然と救援を待つ姿は、世界の人々に深い感銘の念を与えた。
明治維新で西洋文明が大量に押し寄せたが、中でも自由競争は特筆すべきものである。そして第二次大戦後は米国流の自由競争が主たる概念となっていった。しかしそれらの時、日本人は協調を捨てる事なく競争を取り入れ、競争と協調の絶妙なバランスをとってきたのである。
日本の経済は高度経済成長を遂げ、20世紀を通して世界最高の成長率を達成した。その原動力として、日本の教育も世界のお手本とされてきた。
それではなぜ、日本の経済成長率は鈍化し、教育は荒廃し、人々は将来に対する希望さえをも失い始めているのだろうか。
(略)
◆ 大阪維新の会の教育基本条例案
大阪で審議中の維新の会の教育基本条例案は、基本的に、教員を個人的にも、学校単位でも、地域同士でも、競争させたらすべてがうまくいくという、競争を土台とした考え方である。
「知事と教育委員会が協議して学校が実現すべき目標を設定する」とある。日産自動車のゴーンさんが「コミットメント」(必達目標)と言って目標値を設定して全社にハッパをかけた時、私はそのうちこれは失敗すると予言した。そして結局失敗し、後に取り下げたのは多くの読者の記憶に残っている事であろう。デミング博士は「目標による管理をやめよ」と言った。我々はこの言葉をよく噛み締めなければならない。
教職員は相対的評価とし、最低評価(全体の5%)が2回連続すれば、免職を含む処分とするという。成果というのは非常に測りにくいものである。学力検査の結果は色々な要因の混合した結果であり、これが教師の結果であると他の要因から分離して抽出する事はできない。
小学校6年生の学力調査では児童の世帯年収の格差が成績の格差になって表れるというレポートがある。生徒の成績で教員が影響できる範囲は限られている。一般に一人の人が組織の中で自分の成果だと言われるもののうち、8割は環境の産物とされる。真の個人の成果は大体2割しかないと言われている。
学力テストを行い、学校間で、あるいは教師間で競争を奨励すると、教師達は協力をしたがらなくなり、教育は荒廃する。先輩の教員が後輩の教員に教え、教員同士も協調し合って、お互いに成長する事が、生徒の学力を向上させるために最も有効な方法である。協調することによってバラツキを減らし、平均値を向上させるのである。
現在多くの企業で行われている成果主義の結果、勤労意欲を失った社員が増えている。クビにすると脅すのは恐怖によるマネジメントであり、人々を委縮させ創意工夫の意欲をなくす。
◆ 管理図の方法で考えてみると
どうしても教師の能力を、非常に優秀な教師と、普通の教師と、援助ないし特別の訓練を必要としている教師に峻別するのならば、前回説明した管理図の方法を用いるとよい。
すべての教員の業務評価を縦軸にとり、横に50人の教員を並べ、その評価をグラフにしてみると、図1のような管理図が出来る。真ん中の線は全体の平均値で上のUCL(Upper Control Limit:上部管理限界線)は中心から3標準偏差離れているし、LCL(Lower Control Limit:下部管理限界線)は中心線から3標準偏差下にある。UCL線の上に出た人たちは一応優秀な人達とみなされ、LCL線の下の人たちは特別の助けを必要としている。
例えば、子供が病気で長い事入院しているとか、夫婦仲がうまくいかないとか、介護を必要とする両親を抱えているとか、それぞれ色々な問題を抱えている人たちがいる。授業の仕方そのものが良く分かっていないのかもしれない。一方、二つの限界線の間にある人は、差をつける必要はない。どうせ、上がったり下がったりする。
これらの評価点は時と場合によって評価が異なるのである。つまり、業務成績というものには、実際の業務遂行がうまく行かない時もあるであろうが、上司に嫌われていて偏見のある評価だとか、評価の間違いもいくらでもある。学校が異なれば、生徒の家庭の所得水準も影響があるであろう。生徒の学力テストの結果には、これらのあらゆる変数が影響を与えるので、個々の点はあまり意味をなさないのである。従って多数の教師を相対評価して優劣を決めるという事は、それほど簡単な事ではない。
◆ 個人の長期の業績評価も同じ
これまでのストーリーを少々変えて、図1はある個人の長期にわたる業績評価の結果であるとしよう。つまり横軸に時間をとった。そうすると、同じ個人でありながら、非常に良い成績の時もあれば、非常に悪い成績の時もあるであろう。もしもある教員の業績評価がLCLよりも下だったとしても、同じ個人をもう少し長い目で見たならば、苦しい時期を超えて、通常の成績に戻ることができる事が多い。そして社会に貢献できるのである。
必要な事は、適度の援助と訓練である。もしこの人がLCLの下に行ったときにクビになったならば、その後、落ちこぼれとして社会の重荷になる可能性がある。それは社会全体にとってあまりにも損失が大きい。米国社会を見ても分かるとおり、競争社会というのは非常に高くつく社会なのである。今の日本にその余裕はない。
この時系列を右端に投影したのが正規分布であるとすると、LCLの下になる確率は0.13%なのである。つまり、どうしてもクビにしたいのなら、約1000人に1人がクビになるという事である。UCLやLCLが中心から3標準偏差であるのは、それがもっとも経済的な分岐点であるから、そう決められたのである。
5%というのはどこからきた数字なのだろう。5%の人間を毎年入れ替えていくと、いつになったら満足のいく組織になるのだろうか。クビになった人間はどこに行き、新しい人はどこから来るのか。それは、よそでクビになった人の場合が多い。適切な教育や訓練といった地道な努力なしに、どこからか優秀な人などやって来ないのだ。
◆ 長期にわたる評価を重ねて初めて本当の評価が見える
20世紀を通してみると、競争社会を形成し、成果主義で人が簡単にクビになる米国よりも、年功序列制や終身雇用制を維持してきた日本の方が成長率ははるかに高いのである。長期にわたって評価を重ねて初めて、色々な評価の誤りや偏見やその他もろもろの雑音は相殺されて本当の価値が見えてくるのである。
生徒の成績の評価も同様である。橋下知事はソウルで8割以上が飛び級で大学に進む高校を訪問したそうであるが、そもそも8割もの生徒が特別扱いになるのは管理図の原理を理解していない。つまり、経済的に最も悪い教育と言える。高校の教育のレベル全体をもっと引き上げる努力をすべきである。本当に飛び級を必要とする生徒は、全体の0.13%つまり1000人に1人位ではないだろうか。
個々の評価にあまり反応せずに、長期的に観察した時系列を右に投影して見ると、本当に優秀な教師は他の平均的な教師と比べて明確に識別できるのである。こういう人達を教頭先生や校長先生にし、また教育員会の委員にするならば、日本の教育の質は間違いなく向上するであろう。
(図2参照。これは2009年11月12日の「評価とは正当な業績測定と誤差が重なったものと肝に銘ずること」で扱ったものである)(略)
条例の草案を作った大阪市議は、サッチャー時代の英国の教育改革に影響されたそうだ。表1で明らかなように、英国の教員の勤務時間は日本の約3分の2しかなく、雑用は勤務時間の半分にも満たない。このような恵まれた職場環境を与え、教員に社会的地位の向上を図ることこそ、英国から学ぶ第一の事ではないか。
リソースを与えず競争に駆り立てて何が生まれるというのだろう。私は英国がサッチャー政権時代に経済が飛躍的に成長した最大の原因は、北海から石油が出た事だと思う。しかも、英財務省の調査で、2007年には英国上場企業の約半数が外資の傘下に入っている事が分かった。そして、英国の人口のなんと10人に1人がより良い質の生活を求めて海外移住している。こういう状態で、英国の教育が成功し、より豊かな社会を作り出したと言えるのであろうか。
『統計学者吉田耕作教授の統計学的思考術』(2011年10月20日)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/manage/20111012/223154/?P=1
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