
ジョホールバルの慰安所。サルタンの大邸宅を接収、今は博物館。
《子どもと学ぶ歴史教科書の会会報「つどいの樹」から》
☆ マレー半島に残る日本軍の慰安所
~ようこそ 教科書の舞台裏へ:アジア太平洋戦争への思い その7
高嶋 道(元中学高校教員)
「東南アジアに戦争の傷跡を訪ねる旅」を続けている私たちは、マレー半島とシンガポールに日本軍が設置した各地の慰安所跡もたどっています。
日本軍が接収して慰安所とした建物は、まだ各地に残っていて、人々に語り継がれています。突然犠牲を背負わされた女性とその家族、そして住民にとっての忌まわしく悲しく重い体験は消えていません。
☆ 慰安所開設を住民に強要した日本軍
今回は、1992年に李玉?さん(当時81歳)の証言で、明らかになったマレーシアのネグリセンビラン州クアラピラに設置された慰安所についてお伝えします。
1942年3月ここに日本軍の兵士約90名が駐屯して以来、若い女性への暴行事件が頻発するようになりました。当時日本軍は、住民に「治安維持会」を組織させていました。李さんはその副会長だったので、中隊長に女性の保護を申し入れました。
彼は女性の安全を保証する代わりに慰安婦の差し出しを強要したのです。何と言うことでしょうか。李さんたちはどれほど怒り、悩んだことでしょう。やむを得ず、慰安所の設置を受け入れざるをえませんでした。しかも、慰安婦への給与は治安維持会が負担する条件だったのです。
李さんは、やっとの思いで30~40歳の地元女性を選びましたが、軍側は、若い女性でないとの理由で拒否したのです。
李さんは、クアラルンプールに出向いてダンスホールなどで働く若い女性たちに協力を依頼しました。家族の同意を取り付けて、18~27歳の華人女性23人をクアラピアに連れてきたのです。
18人は、日本軍がサルタン(この地域の支配者)の邸宅(写真:上)を接収して設置した慰安所に、5人は市街地の将校用の「招待所」に配置されました。慰安婦を引き受けて耐えてくれた女性たちに、治安維持会は住民からの寄付金などを集め、一人あたり毎月300ドルの軍票(日本軍が発行した紙幣で当時の通貨。教科書p.228)が支払われました。
武力で威嚇して慰安所をつくらせ、女性を弄んだ日本軍を、人びとは「アジアを欧米の植民地から解放する」と考えたでしょうか。
☆ 確認の発端となった『陣中日誌』の記録
『陣中日誌』は、日本陸軍が部隊毎に日々の作戦命令や行動などの記録を義務づけた重要な公文書です。敗戦後ほぼ処分されてしまいました。
ところが、この地域を支配した歩兵第11聯隊第7中隊の『陣中日誌』が、1987年林博史氏(当時・関東学院大学助教授)によって防衛庁研彦所の図書館から発見されたのです。
それまでに高嶋伸欣が証言を集め、踏査していた各地の住民虐殺事件についても、照合ができた貴重な史料になりました。
1992年、高嶋はこの陣中日誌の「1942年4月3日(金曜日)於クアラピラ」「本日ヨリ慰安所開設セルヲ以テ午後一時二休養セシム」の記録に気づきました。
これを手がかりに現地の慰安所について調べるために地元の新聞記者などに協力を求めました。やがて証言者が現れ、上記の事実が明らかになったのです。
そして神戸新聞社シンガポール支局の門野隆弘記者によって報道(1992.3.22)され、大きな波紋を呼びました。
当時「慰安所設置は民間業者であって、政府・日本軍は直接関与せず」との主張がなされていたからです。
『子どもと学ぶ歴史教科書の会会報「つどいの樹」 第10号』(2022年12月1日)
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