《月刊救援:沖縄と天皇(23)》
☆ 沖縄戦の「死者」と靖国神社
二〇〇一年の首相就任以来、小泉は退任まで計六回にわたって靖国神社を参拝した。自衛衛隊の海外派兵が現実化し、「戦死者」の発生が現実に想定される時代か始まるにあたって、国家が戦争の死者をどのように記念すべきかという問題と、それは無関係ではないだろう。
この参拝に対して、それが政教分離、思想・良心の自由、人格権の侵害なとにあたる違憲の行為であるとする訴訟が全国各地で提起された。沖縄でも、二〇〇二年九月に沖縄戦遺族ら九四人が原告となって裁判が起こされた(沖縄靖国訴訟)。
裁判の過程では、激戦地となった摩文仁の丘で、裁判所が直接体験者の聴き取りをするという画期的な局面も実現した。「現場検証」ではなかったが、戦争の「現場」て裁判所か直接体験者の声を聞くということの意味は大きかった。
ある原告は法廷での陳述と比較して「記憶を語るためには『現場』がどれたけ大切なのかを実感した」という。
田中伸尚は、「閉ざされた法廷での言葉と、歴史を刻んだ『現場』での言葉は、どんなに長い時間を閲していようとも、他者に記憶を伝える力が格段に違うからだろう。戦跡現場での説明は短かったが、十分に『生きた法廷』のように思えた」と書いている(『ドキュメント靖国訴訟』)。
それにも拘らず、二〇〇五年一月の一審判決は、憲法判断を避け、形式的に原告個人の「被害」はないとの判断を下す最低判決だった。
原告団長の金城実は、「現場検証はピクニックだったのか」と怒りを露わにした。
原告団は当然控訴したが、福岡高裁那覇支部も翌年一〇月に控訴棄却。最高裁も〇七年四月に、一・二審の判決を支持して上告を棄却し、原告側の敗訴が確定した。
原浩団の事務局長を務めた西尾市郎は、高裁判決直前に書かれた文章て「沖縄のヤスクニ問題は『援護法(戦傷病者戦没者遺族等援護法)』に象徴されている」と明言している。
「沖縄戦は住民を地獄に投げ込んだ。戦後被害を受けた住民を、国(天皇)に協力した犠牲者として『援護法』を適用し、戦死者を靖国神社に合祀した」(『反天皇制運動DANCE!』32号、二〇〇六年八月)。
「被害者」を「協力者」へと仕立て上ける装置として機能したのが援護法であったという。
援護法は廃止された軍人恩給法に変わるものとして一九五二年に制定された法律で、「軍人軍属等の公務上の負傷若しくは疾病又は死亡に関し軍人軍属等であった者又はこれらの者の遺族を援護することを目的」としたものだ。
沖縄に援護法が適用されたのは翌年からで、五八年からは「戦闘参加者」(「準軍属」)と認定された一般住民に対しても、援護法か適用され年金が支給されるようになった。
沖縄戦て家族を失い、あるいは負傷し、また生活基盤を奪い去られて米軍政支配下を生きる多くの人びとにとつて、年金を得られることは死活的であったに違いない。
だが、ここで本当に必要だったことは、日本国家の政策によって生み出されだそれらの死者や負傷者とその家族に対して、国家が責任を認めて援護法とは別に個人への賠償を行うことであったはずだ。
結局、日本軍に壕を追い出された人や食糧を奪われた人は、軍のために進んてそれらを提供し、日本軍に死を強要された人びとも、足手まといにならないように軍への協力のために「自決」を選んだことに「なった」のである。
そうした「事実」の「証言」が申請のために集められて、沖縄戦の実相を歪曲する資料となった。
国家の責任は解除され、民衆が自発的に国に尽くして犠牲となったという「神話」が形成されることになるのだ。
八○年代には「戦闘参加者」の年齢制限が廃された結果、○歳の戦闘協力者さえ登場している。
この時点で、沖縄戦の住民被害者の約半数が「戦闘参加者」となっている(石原昌家)。
そして、これら「協力者」となった沖縄戦の死者が、英霊として靖国神社に合祀されていることが明らかになったのも、この沖縄靖国訴訟の法廷においててある。(北野誉)
『月刊救援』(2024年4月10日)
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