◆ 道徳の教科化は「修身」への回帰 (週刊新社会)
◆ 「道徳」は教科化できない
いよいよ、2018年度からの道徳の教科化が目前に迫ってきました。戦前の「修身」への回帰と言われている「特別の教科道徳」ですが、一体、教科化された道徳とはどのような性質をもつものなのでしょうか。そして教科化できるのでしょうか。結論から言うと、道徳とは決して教科化できるものではありません。
子どもたちは日常生活の中で、その時々に自らのもつ価値観と照らし合わせ、「道徳的判断」を行っています。ですからその判断というものはその時の状況により変わるものであり、「1回限りの応用することのできない行為」と言えるでしょう。そのため、一般化・体系化することにはおのずと無理が生じてきますし、一般化・体系化できてこその教科、という原則を今回の道徳の教科化は完全に無視しています。
まさに、全ての教科の筆頭教科であった「修身」と、全ての教科学習の基盤とする「特別の教科道徳」は全く同じ構造をもつ教科なのです。
◆ 現場で感じる圧力の異常さ
ご存じの通り、現行の学習指導要領では道徳は教科に位置づけられていません。そのため、現在行われている道徳では、教員が自ら開発した教材を用いてある程度自由に授業を組み立てることができます。また、当然ながら評価も行われないため、答えを誘導しない授業を展開することができています。
ただ、残念ながら多くの教員は「副読本」なる「教科書」を使用した授業を展開しています。ではなぜ自ら教材開発をしないのか。主な理由は以下の3点に集約されるでしょう。
①多忙化の中、自ら教材開発をする時間がない。
②週1時間の授業で、成績表にもつかないため、軽い扱いという認識。
③副読本の使用を強く指示される。
ここで問題になってくるのは③でしよう。
担任は必ず副読本を使用して授業を行うよう指示されますし、地区によっては活用されているかどうかの調査を行うところも出始めてきました。
まだ教科でないにもかかわらず、副読本の使用に関してはかなり強い圧力がかかっているのです。ですから現場の教員にとってみたら、評価が入ってくるにも関わらず、「教科化されたとしても副読本の名称が教科書に変わるだけでいままでと変わらない」、という認識を持ってしまうことも想像できます。
◆ 評価は洗脳の制度化
次に、今回の教科化の大きな問題の一つである「評価」について、現場での多くの教員の反応は「とまどい」です。
子どもの内面を評価することへのとまどい、違和感は多くの教員が抱えており、それは裏を返せば「何となく」教科化は反対、という教員が大多数を占めている、ということです。
しかし、残念ながら先にも述べたように教員は現在、自らの意志を明確に示すことを避ける傾向にあるため、声を挙げることよりも黙って考えないようにする=思考停止という選択をする現状があります。
そのため、今後評価について文科省から具体的なアナウンスが始まれば、大多数の教員は学校独自の評価基準を作っていくことになるでしょう。
◆ 正解をさがすゲームになる「道徳」
では、教科書「を」学びその結果から評価されるとなるど、子どもにとってはどういうことが起こりえるのか。
結論から言うと、道徳の授業は「A評価になる正解を探すゲーム」となってしまうでしょう。
しかしもつと恐ろしいのは、子どもたちが「考えなくなる」ことです。
「こういう時はこうすればいいんだよね(洗脳)」と、深く考えることをしなくなってしまう。要するにパターン化された行動様式が一般化されてしまうのです。
ですから、子どもたちにとって「道徳の教科化」とは「洗脳の制度化」と言い換えることができるのではないでしょうか。
最後に。そうは言っても教科化は始まります。そこで、「違和感」を感じていながらも指示に従うことしかできない教員(複数大学の調査によると約8割)にもできる、「教科書を使いながらも内面を操作しない指導法」の提供が喫緊の課題です。
ですから、「そもそも道徳は教科になりえない性質のものである」という撲滅運動と両輪で、一時的に「しのぐ」闘いも必要です。
そこで今回、私が代表を務めている「道徳の教科化を考える会」でパンフレット『できるのかな?特別の教科道徳』(1部150円)を作製しました。
入手を希望される方は、 info.doutoku@gmail.com までご連絡ください。
『週刊新社会』(2016/3/22)
道徳の教科化を考える会代表 宮澤弘道
◆ 「道徳」は教科化できない
いよいよ、2018年度からの道徳の教科化が目前に迫ってきました。戦前の「修身」への回帰と言われている「特別の教科道徳」ですが、一体、教科化された道徳とはどのような性質をもつものなのでしょうか。そして教科化できるのでしょうか。結論から言うと、道徳とは決して教科化できるものではありません。
子どもたちは日常生活の中で、その時々に自らのもつ価値観と照らし合わせ、「道徳的判断」を行っています。ですからその判断というものはその時の状況により変わるものであり、「1回限りの応用することのできない行為」と言えるでしょう。そのため、一般化・体系化することにはおのずと無理が生じてきますし、一般化・体系化できてこその教科、という原則を今回の道徳の教科化は完全に無視しています。
まさに、全ての教科の筆頭教科であった「修身」と、全ての教科学習の基盤とする「特別の教科道徳」は全く同じ構造をもつ教科なのです。
◆ 現場で感じる圧力の異常さ
ご存じの通り、現行の学習指導要領では道徳は教科に位置づけられていません。そのため、現在行われている道徳では、教員が自ら開発した教材を用いてある程度自由に授業を組み立てることができます。また、当然ながら評価も行われないため、答えを誘導しない授業を展開することができています。
ただ、残念ながら多くの教員は「副読本」なる「教科書」を使用した授業を展開しています。ではなぜ自ら教材開発をしないのか。主な理由は以下の3点に集約されるでしょう。
①多忙化の中、自ら教材開発をする時間がない。
②週1時間の授業で、成績表にもつかないため、軽い扱いという認識。
③副読本の使用を強く指示される。
ここで問題になってくるのは③でしよう。
担任は必ず副読本を使用して授業を行うよう指示されますし、地区によっては活用されているかどうかの調査を行うところも出始めてきました。
まだ教科でないにもかかわらず、副読本の使用に関してはかなり強い圧力がかかっているのです。ですから現場の教員にとってみたら、評価が入ってくるにも関わらず、「教科化されたとしても副読本の名称が教科書に変わるだけでいままでと変わらない」、という認識を持ってしまうことも想像できます。
◆ 評価は洗脳の制度化
次に、今回の教科化の大きな問題の一つである「評価」について、現場での多くの教員の反応は「とまどい」です。
子どもの内面を評価することへのとまどい、違和感は多くの教員が抱えており、それは裏を返せば「何となく」教科化は反対、という教員が大多数を占めている、ということです。
しかし、残念ながら先にも述べたように教員は現在、自らの意志を明確に示すことを避ける傾向にあるため、声を挙げることよりも黙って考えないようにする=思考停止という選択をする現状があります。
そのため、今後評価について文科省から具体的なアナウンスが始まれば、大多数の教員は学校独自の評価基準を作っていくことになるでしょう。
◆ 正解をさがすゲームになる「道徳」
では、教科書「を」学びその結果から評価されるとなるど、子どもにとってはどういうことが起こりえるのか。
結論から言うと、道徳の授業は「A評価になる正解を探すゲーム」となってしまうでしょう。
しかしもつと恐ろしいのは、子どもたちが「考えなくなる」ことです。
「こういう時はこうすればいいんだよね(洗脳)」と、深く考えることをしなくなってしまう。要するにパターン化された行動様式が一般化されてしまうのです。
ですから、子どもたちにとって「道徳の教科化」とは「洗脳の制度化」と言い換えることができるのではないでしょうか。
最後に。そうは言っても教科化は始まります。そこで、「違和感」を感じていながらも指示に従うことしかできない教員(複数大学の調査によると約8割)にもできる、「教科書を使いながらも内面を操作しない指導法」の提供が喫緊の課題です。
ですから、「そもそも道徳は教科になりえない性質のものである」という撲滅運動と両輪で、一時的に「しのぐ」闘いも必要です。
そこで今回、私が代表を務めている「道徳の教科化を考える会」でパンフレット『できるのかな?特別の教科道徳』(1部150円)を作製しました。
入手を希望される方は、 info.doutoku@gmail.com までご連絡ください。
『週刊新社会』(2016/3/22)
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