◆ いよいよ「無謀さ」が明らかに
…大学入試改革に潜む「重大な脅威」 (現代ビジネス)
◆ 実はまだある大学入試改革の混乱
今月1日に、2020年度から計画されていた大学入学共通テストへの英語の民間試験の導入が延期されるという異例の決定がなされた。この判断を巡り与党議員からは「受験生の立場に立った思いやりにあふれた決断だ」という発言も出て、「えっ?」と驚かれた方も少なくなかったのではないかと思う。
しかし、実際、英語の民間試験の導入には本当に多くの問題があり、延期を決断した大臣なのか、官邸なのかは、分からないが、その英断を一大学人として、心から歓迎したい。
点睛を欠いたとすれば、その判断がもう少し早くなされなかったことではあるが、この問題を、やっても批判、やめても批判、みたいな政争の具にはしてもらいたくない。現時点における判断としては、最善が尽くされたのだから、それを活かしてより良い大学入試の制度設計をする機会として欲しい。
本稿は、現在大学で実際に起こっている混乱について紹介し、今回の大学入試改革の根本的な問題点は何なのか、考える素材を提供するものである。
◆ 大学入試改革の発端はなにか
現在進んでいる大学入試改革のバックボーンとなっているのは、2014年12月に出された 中央教育審議会の答申「すべての若者が夢や目標を芽吹かせ、未来に花開かせるために」である。
これに従って、英語の民間試験の導入に限らず、高大接続、AO入試、国語・数学の記述式問題の導入など、様々な入試に関連する改革が進められている。
この答申で、高らかに謳われているのは、
評価されるべき学力とはなにかという点は、「確かな学力」と定義され、
◆ 「公正な」評価の難しさ
大学入試における知識偏重のペーパー試験には、古くから批判があり、そんなもので人間の何が測れるのかという疑問はまっとうなものである。
2014年の答申は、そういった古くからある批判に応えるためのものと言ってよいかと思う。単なる知識ではなく、多様な力を、多様な方法で「公正」に評価し選抜するという理念が強く打ち出されている。
こういった考え方に依拠すれば、英語試験や記述式の問題に対する評価の曖昧さ、1点、2点にこだわることなかれ、英語はCEFR(外国語の学習・教授・評価のためのヨーロッパ言語共通参照枠)で6段階評価、記述問題は全体を5段階で大雑把に返します、という方針も理解できないことはない。
また、高大接続で内申書を重視する選抜や面接やプレゼンのようなものによるAO入試を加えた大学入試の設計も、その理念に則ったものと言えよう。
現在、こういった方針に沿った国立大学のAOや推薦入試は小規模で、合格者の一部に過ぎないが、隣国の韓国では推薦入試が合格者の7割以上を占めるという。日本もこの理念で改革を進め、同じようなことになっていくのだろうか?
こういった方針は、私も観念としては理解できる。
しかし、である。やっている側の実感から言えば、とても良い選抜方法と思えない。入試でも人事でもそうだが、元来、人間が人間を評価するというのは難しいものである。
例えば、比較するのもおこがましいという気持ちにはなるが、エンジェルスの大谷翔平選手と私を「多様な方法で公正に評価し選抜」したらどうなるだろうか?
大雑把に言えば、ほぼ比較の対象にならず、大谷選手が選抜されることになるだろう。特に若い女性にジャッジしてもらえば、100対0の結果だろう。
しかし、もし「安南ばか詰」という、その名の通りちょっとバカげた詰将棋の愛好家が試験官になれば、もしかしたら私が選抜されることになるかも知れない。私は昔、安南ばか詰を作っていた経験があり、大谷選手相手でもたぶん負けない。
「野球の方がメジャーだし、人気があるでしょ」という人がいれば、「野球トップの大リーガーだって世界には数百人はいます。安南ばか詰を作れる人は、世界でせいぜい数十人しかいない。貴重な人材です」という人がいるかも知れない。さて、野球と安南ばか詰と、一体、どう「公正に」評価すればいいのだろう?
◆ 面接やプレゼンの「問題点」
ちょっと極端な話になっているような気もするので、現実的な問題点に戻すなら、一つ目に評価方法である。「確かな学力」の要素とされる主体性・協働性・判断力といったことを、短時間の面接で正確に評価することは大変難しい。こういった項目は、むしろ付き合いの長い高校の先生からの内申書の方が信頼できる評価であろう。
しかし、高校の内申書は学校によって点数をつける方針が異なっており、また高校自体のレベルという問題もある。
県内で一番の進学校と、学力の観点からは平均以下の高校からの受験生の内申書を、数字だけで単純に順位付けして良いのか、現実的にはかなり問題である。
実際、こういったことから、現状では高校の内申書は参考程度にしか使われていないケースが多いのではないかと思う。
大学で行われる面接試験もあるが、大学教員は企業の人事担当者等とは違って、面接による人物評価の経験が豊富な人ばかりではない。どちらかと言えば、160km/hのボールを投げるより、安南ばか詰を作る方が得意そうな人も多く、若い女性から悲鳴が上がりそうな選択をしてしまう可能性も否定できない。
目の前で面接に答えている高校生はみな一生懸命であり、何を基準に判断をすればよいのか、その評価は結局の所、〝印象〟以上の根拠がない曖昧なものである。入試という公正さ公平さが求められる仕組みに耐えるものになっているのか、個人的には甚だ疑問に思っている。
◆ 本人以外の「手助け」を防げるのか?
面接よりも、受験者の能力を測りやすいものに何かのプレゼンをさせるという方法もあり、多くの大学のAO入試でも取り入れられている。こちらの方は内容に巧拙や優劣があり、主体性、思考力、表現力のようなものを、ある程度、判断するための材料となる。
しかし、このプレゼンは曲者である。
というのも、プレゼンは事前に準備したものを発表するため、準備の過程でどれだけ他人の関与があったのか分かりにくいという深刻な問題があるのだ。
家族であったり、教師であったり、場合にはよっては大学の研究者などが関与していることもあり、当然、プレゼンの質はそれにより大きく左右される。こういった方式がより一般的になった場合には、業者の介入もあり得るだろう。
また、つい先日、韓国では当時高校生だった元法務大臣の娘がインターンで行った大学の仕事で、論文の筆頭著者になり、それが評価され推薦入学で大学に合格していた、またそのことが不正ではなかったのか、ということが大きく報道され話題になった。
元々、事前の準備ができるプレゼンやそれに類した特筆次項などは、何を不正と呼ぶかという定義が分からないほど、受験生以外の第三者の関与が可能なものである。
いずれにせよ、「多様な力を、多様な方法で評価し選抜する」という手段を取った場合、基準の曖昧さ、客観性の欠如、第三者の関与といったことが問題点として挙げられ、そのいずれもが不正、不公平性といった問題にすぐに直結してしまう。
近年、何か問題のある人事の指摘があるたびに「適材適所だ」というセリフを何度も聞いたが、あれと同じで、元々根拠がはっきりしない判断なのだから、おかしなことが仮に起こっていても当事者が「適切だった」と言えば、それ以上の論理的な追及は不可能である。
それはこれまでかなりの精度で清潔性が保たれていた(少なくとも国立大学では)大学入試という公正なシステムに対する重大な脅威である。
◆ 「単純な指標」の強み
結論として私が思うのは、受験生を序列化して合格者を決定するような試験は、単純な指標であるから公正さを保てるということである。
投げる球のスピードは数字で測れるし、安南ばか詰の解図にかかる早さも時計で計測できるが、野球と安南ばか詰を、世界中の誰もが納得できる形で序列化することはたぶん無理である。
また、主体性とか判断力とかいった複雑な指標を精度よく客観的に序列化する手段もない。序列化自体が問題だ、というのは正論だろうが、入試は序列化しないと合格者と不合格者を決められない。
閣僚や会社の人事のような、いわゆる総合的な判断は、誰かの責任の下で「適材適所」が判断されてきたのだ。それは主観的なものであり、鼎の軽重が問われる問題でもある。
そういったやり方に頼らざるを得ない指標を、国立大学入試の主要な要素として導入することは、そもそも適切なのだろうか?
「評価の多様さ」と「公正さ」は、実はトレードオフになっている面がある。つまり中央教育審議会の言う「多様な力を多様な方法で公正に評価」とは、本質的に矛盾した表現なのだ。
百歩譲って、それが成り立っているとしても、そこでいう「公正」とは主観に基づいた、検証不能な「公正さ」であり、現在の入試システムが持つ本当の公正性からは、大いに変質したものだ。その危険性にもっと注意を払うべきである。
中央教育審議会の「すべての若者が夢や目標を芽吹かせ、未来に花開かせるために」という答申の目指す理念は素晴らしいものである。しかし、それは大学入試のシステムを変えて実現するのではなく、社会における大学という存在の捉え方を変化させることで対応する方が現実的ではないだろうか。たとえば、大学入試がどうのこうのと言うより、大手企業が有名大学に偏った採用をやめれば状況は大きく変わるだろう。
東大に代表される有名大学も、結局、たかが一指標、ペーパーテストの点数が高い人間が集まっただけの集団である。決して総合的な人間としての魅力を兼ね備えたことで特徴づけられる集団ではない(それは東大に人間として総合的に魅力がある人がいないということを意味している訳では、もちろんない)。
実際、日本の社長の出身大学を調べれば、東大が20位、京大は30位くらいで、私立大学が軒並み上位を占めている(2019年帝国データバンク調べ)。それはリーダーシップを持ち、人の上に立てるような人が私立大学卒業者に多くいるということを示しているのだろう。
しかし、ノーベル賞や科学論文の数で言えば、東大・京大はトップクラスだ。つまりそれがある指標により選抜された集団の性質なのである。
◆ 主観的判断の危うさ
「僕は料理界の東大へ行く」というCMがあったと思うが、そのような主張の正当性がもっと浸透した社会を作っていくことはできないのだろうか?
大学入試の頂点にある東大に合格した人間は、主体性・多様性・協働性・思考力・判断力・表現力・知識のすべてが優れていると見なされる仕組みは、本当はより恐ろしい階級社会を作り出すことに加担する可能性があるように思う。
東大なんて、テストができる頭でっかちの人間が集まっただけと揶揄されている方が、むしろ健全な社会ではないだろうか。
ただ、東大は公正な方法で、きちんとその偏りを作り出し、それを活かすことで社会に貢献したらよい。
そこに曖昧な指標を導入して、安易に多様化させることは、結局、集団としての特徴、偏りを損なうことにつながってしまう。
人間には多様な能力があり、それがきちんと評価される社会であって欲しいと思う。しかし、繰り返しになるが、それを大学入試の改変で達成しようというのは良い方向だとは思わない。
野球が上手い人には野球の強豪校があり、将棋が強い人には奨励会がある。それと同じで、東大はペーパーテストに強い人が集まれば良いのだと思う。
ただ、そこでの選抜はあくまで公平で公正なものでなければならない。
人の主観的な判断に左右される選抜方法は、曖昧で、不正確で、時に不正が入り込む。それは残念ながら世の常である。これまでの国立大学の入試は、私の知る限り、本当に清潔性が保たれて、不正の入り込む余地が極めて少ない仕組みとなっている。
どんな金持ち、あるいは有力者の子供であろうと、受験者にその力がなければ、東大に入ることはできない。もちろん安南ばか詰を作れても駄目である。社会の仕組みとして、それに勝る価値はないのではないかと、私は思う。
中屋敷 均
『現代ビジネス』(2019/11/19)
https://headlines.yahoo.co.jp/article?a=20191119-00068484-gendaibiz-soci
…大学入試改革に潜む「重大な脅威」 (現代ビジネス)
◆ 実はまだある大学入試改革の混乱
今月1日に、2020年度から計画されていた大学入学共通テストへの英語の民間試験の導入が延期されるという異例の決定がなされた。この判断を巡り与党議員からは「受験生の立場に立った思いやりにあふれた決断だ」という発言も出て、「えっ?」と驚かれた方も少なくなかったのではないかと思う。
しかし、実際、英語の民間試験の導入には本当に多くの問題があり、延期を決断した大臣なのか、官邸なのかは、分からないが、その英断を一大学人として、心から歓迎したい。
点睛を欠いたとすれば、その判断がもう少し早くなされなかったことではあるが、この問題を、やっても批判、やめても批判、みたいな政争の具にはしてもらいたくない。現時点における判断としては、最善が尽くされたのだから、それを活かしてより良い大学入試の制度設計をする機会として欲しい。
本稿は、現在大学で実際に起こっている混乱について紹介し、今回の大学入試改革の根本的な問題点は何なのか、考える素材を提供するものである。
◆ 大学入試改革の発端はなにか
現在進んでいる大学入試改革のバックボーンとなっているのは、2014年12月に出された 中央教育審議会の答申「すべての若者が夢や目標を芽吹かせ、未来に花開かせるために」である。
これに従って、英語の民間試験の導入に限らず、高大接続、AO入試、国語・数学の記述式問題の導入など、様々な入試に関連する改革が進められている。
この答申で、高らかに謳われているのは、
----------ということである。
〈画一的な一斉試験で正答に関する知識の再生を一点刻みに問い、その結果の点数のみに依拠した選抜を行うことが公平であるとする、「公平性」の観念という桎梏(しっこく)は断ち切らなければならない〉
〈既存の「公平性」についての社会的意識を改革し、それぞれの学びを支援する観点から、多様な背景を持つ一人ひとりが積み上げてきた多様な力を、多様な方法で「公正」に評価するという理念に基づく新たな評価を確立していくことが不可欠である〉
----------
評価されるべき学力とはなにかという点は、「確かな学力」と定義され、
----------の3つの要素で構成されることになっている。
(i)主体性を持って多様な人々と協働して学ぶ態度(主体性・多様性・協働性)
(ii)知識・技能を活用して、自ら課題を発見しその課題に向けて探求し、成果等を表現するために必要な思考力・判断力・表現力等の能力
(iii)その基礎となる「知識・技能」
----------
◆ 「公正な」評価の難しさ
大学入試における知識偏重のペーパー試験には、古くから批判があり、そんなもので人間の何が測れるのかという疑問はまっとうなものである。
2014年の答申は、そういった古くからある批判に応えるためのものと言ってよいかと思う。単なる知識ではなく、多様な力を、多様な方法で「公正」に評価し選抜するという理念が強く打ち出されている。
こういった考え方に依拠すれば、英語試験や記述式の問題に対する評価の曖昧さ、1点、2点にこだわることなかれ、英語はCEFR(外国語の学習・教授・評価のためのヨーロッパ言語共通参照枠)で6段階評価、記述問題は全体を5段階で大雑把に返します、という方針も理解できないことはない。
また、高大接続で内申書を重視する選抜や面接やプレゼンのようなものによるAO入試を加えた大学入試の設計も、その理念に則ったものと言えよう。
現在、こういった方針に沿った国立大学のAOや推薦入試は小規模で、合格者の一部に過ぎないが、隣国の韓国では推薦入試が合格者の7割以上を占めるという。日本もこの理念で改革を進め、同じようなことになっていくのだろうか?
こういった方針は、私も観念としては理解できる。
しかし、である。やっている側の実感から言えば、とても良い選抜方法と思えない。入試でも人事でもそうだが、元来、人間が人間を評価するというのは難しいものである。
例えば、比較するのもおこがましいという気持ちにはなるが、エンジェルスの大谷翔平選手と私を「多様な方法で公正に評価し選抜」したらどうなるだろうか?
大雑把に言えば、ほぼ比較の対象にならず、大谷選手が選抜されることになるだろう。特に若い女性にジャッジしてもらえば、100対0の結果だろう。
しかし、もし「安南ばか詰」という、その名の通りちょっとバカげた詰将棋の愛好家が試験官になれば、もしかしたら私が選抜されることになるかも知れない。私は昔、安南ばか詰を作っていた経験があり、大谷選手相手でもたぶん負けない。
「野球の方がメジャーだし、人気があるでしょ」という人がいれば、「野球トップの大リーガーだって世界には数百人はいます。安南ばか詰を作れる人は、世界でせいぜい数十人しかいない。貴重な人材です」という人がいるかも知れない。さて、野球と安南ばか詰と、一体、どう「公正に」評価すればいいのだろう?
◆ 面接やプレゼンの「問題点」
ちょっと極端な話になっているような気もするので、現実的な問題点に戻すなら、一つ目に評価方法である。「確かな学力」の要素とされる主体性・協働性・判断力といったことを、短時間の面接で正確に評価することは大変難しい。こういった項目は、むしろ付き合いの長い高校の先生からの内申書の方が信頼できる評価であろう。
しかし、高校の内申書は学校によって点数をつける方針が異なっており、また高校自体のレベルという問題もある。
県内で一番の進学校と、学力の観点からは平均以下の高校からの受験生の内申書を、数字だけで単純に順位付けして良いのか、現実的にはかなり問題である。
実際、こういったことから、現状では高校の内申書は参考程度にしか使われていないケースが多いのではないかと思う。
大学で行われる面接試験もあるが、大学教員は企業の人事担当者等とは違って、面接による人物評価の経験が豊富な人ばかりではない。どちらかと言えば、160km/hのボールを投げるより、安南ばか詰を作る方が得意そうな人も多く、若い女性から悲鳴が上がりそうな選択をしてしまう可能性も否定できない。
目の前で面接に答えている高校生はみな一生懸命であり、何を基準に判断をすればよいのか、その評価は結局の所、〝印象〟以上の根拠がない曖昧なものである。入試という公正さ公平さが求められる仕組みに耐えるものになっているのか、個人的には甚だ疑問に思っている。
◆ 本人以外の「手助け」を防げるのか?
面接よりも、受験者の能力を測りやすいものに何かのプレゼンをさせるという方法もあり、多くの大学のAO入試でも取り入れられている。こちらの方は内容に巧拙や優劣があり、主体性、思考力、表現力のようなものを、ある程度、判断するための材料となる。
しかし、このプレゼンは曲者である。
というのも、プレゼンは事前に準備したものを発表するため、準備の過程でどれだけ他人の関与があったのか分かりにくいという深刻な問題があるのだ。
家族であったり、教師であったり、場合にはよっては大学の研究者などが関与していることもあり、当然、プレゼンの質はそれにより大きく左右される。こういった方式がより一般的になった場合には、業者の介入もあり得るだろう。
また、つい先日、韓国では当時高校生だった元法務大臣の娘がインターンで行った大学の仕事で、論文の筆頭著者になり、それが評価され推薦入学で大学に合格していた、またそのことが不正ではなかったのか、ということが大きく報道され話題になった。
元々、事前の準備ができるプレゼンやそれに類した特筆次項などは、何を不正と呼ぶかという定義が分からないほど、受験生以外の第三者の関与が可能なものである。
いずれにせよ、「多様な力を、多様な方法で評価し選抜する」という手段を取った場合、基準の曖昧さ、客観性の欠如、第三者の関与といったことが問題点として挙げられ、そのいずれもが不正、不公平性といった問題にすぐに直結してしまう。
近年、何か問題のある人事の指摘があるたびに「適材適所だ」というセリフを何度も聞いたが、あれと同じで、元々根拠がはっきりしない判断なのだから、おかしなことが仮に起こっていても当事者が「適切だった」と言えば、それ以上の論理的な追及は不可能である。
それはこれまでかなりの精度で清潔性が保たれていた(少なくとも国立大学では)大学入試という公正なシステムに対する重大な脅威である。
◆ 「単純な指標」の強み
結論として私が思うのは、受験生を序列化して合格者を決定するような試験は、単純な指標であるから公正さを保てるということである。
投げる球のスピードは数字で測れるし、安南ばか詰の解図にかかる早さも時計で計測できるが、野球と安南ばか詰を、世界中の誰もが納得できる形で序列化することはたぶん無理である。
また、主体性とか判断力とかいった複雑な指標を精度よく客観的に序列化する手段もない。序列化自体が問題だ、というのは正論だろうが、入試は序列化しないと合格者と不合格者を決められない。
閣僚や会社の人事のような、いわゆる総合的な判断は、誰かの責任の下で「適材適所」が判断されてきたのだ。それは主観的なものであり、鼎の軽重が問われる問題でもある。
そういったやり方に頼らざるを得ない指標を、国立大学入試の主要な要素として導入することは、そもそも適切なのだろうか?
「評価の多様さ」と「公正さ」は、実はトレードオフになっている面がある。つまり中央教育審議会の言う「多様な力を多様な方法で公正に評価」とは、本質的に矛盾した表現なのだ。
百歩譲って、それが成り立っているとしても、そこでいう「公正」とは主観に基づいた、検証不能な「公正さ」であり、現在の入試システムが持つ本当の公正性からは、大いに変質したものだ。その危険性にもっと注意を払うべきである。
中央教育審議会の「すべての若者が夢や目標を芽吹かせ、未来に花開かせるために」という答申の目指す理念は素晴らしいものである。しかし、それは大学入試のシステムを変えて実現するのではなく、社会における大学という存在の捉え方を変化させることで対応する方が現実的ではないだろうか。たとえば、大学入試がどうのこうのと言うより、大手企業が有名大学に偏った採用をやめれば状況は大きく変わるだろう。
東大に代表される有名大学も、結局、たかが一指標、ペーパーテストの点数が高い人間が集まっただけの集団である。決して総合的な人間としての魅力を兼ね備えたことで特徴づけられる集団ではない(それは東大に人間として総合的に魅力がある人がいないということを意味している訳では、もちろんない)。
実際、日本の社長の出身大学を調べれば、東大が20位、京大は30位くらいで、私立大学が軒並み上位を占めている(2019年帝国データバンク調べ)。それはリーダーシップを持ち、人の上に立てるような人が私立大学卒業者に多くいるということを示しているのだろう。
しかし、ノーベル賞や科学論文の数で言えば、東大・京大はトップクラスだ。つまりそれがある指標により選抜された集団の性質なのである。
◆ 主観的判断の危うさ
「僕は料理界の東大へ行く」というCMがあったと思うが、そのような主張の正当性がもっと浸透した社会を作っていくことはできないのだろうか?
大学入試の頂点にある東大に合格した人間は、主体性・多様性・協働性・思考力・判断力・表現力・知識のすべてが優れていると見なされる仕組みは、本当はより恐ろしい階級社会を作り出すことに加担する可能性があるように思う。
東大なんて、テストができる頭でっかちの人間が集まっただけと揶揄されている方が、むしろ健全な社会ではないだろうか。
ただ、東大は公正な方法で、きちんとその偏りを作り出し、それを活かすことで社会に貢献したらよい。
そこに曖昧な指標を導入して、安易に多様化させることは、結局、集団としての特徴、偏りを損なうことにつながってしまう。
人間には多様な能力があり、それがきちんと評価される社会であって欲しいと思う。しかし、繰り返しになるが、それを大学入試の改変で達成しようというのは良い方向だとは思わない。
野球が上手い人には野球の強豪校があり、将棋が強い人には奨励会がある。それと同じで、東大はペーパーテストに強い人が集まれば良いのだと思う。
ただ、そこでの選抜はあくまで公平で公正なものでなければならない。
人の主観的な判断に左右される選抜方法は、曖昧で、不正確で、時に不正が入り込む。それは残念ながら世の常である。これまでの国立大学の入試は、私の知る限り、本当に清潔性が保たれて、不正の入り込む余地が極めて少ない仕組みとなっている。
どんな金持ち、あるいは有力者の子供であろうと、受験者にその力がなければ、東大に入ることはできない。もちろん安南ばか詰を作れても駄目である。社会の仕組みとして、それに勝る価値はないのではないかと、私は思う。
中屋敷 均
『現代ビジネス』(2019/11/19)
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