◎ 10/15第1次「君が代」訴訟・最終弁弁論報告
2010年10月15日(金)'04処分撤回を求めて闘っている,被処分者の会の第1次「君が代」訴訟(原告169名)がついに高裁での最終弁論を迎えた。渡辺の不起立減給1ヶ月処分の裁判である。
この日は,憲法学者の浦部法穂神戸大名誉教授による証言と,Gさん,Yさんの2人の原告の意見陳述,5人の弁護士の最終陳述がなされた。
浦部さんの証言は憲法19条の権利を実に明快にのべられたもので,私を含め多くの原告が,すっきりした,と感じるとてもよい内容だった。以下,渡辺の責任と解釈でまとめたことをお断りした上で,私のききとった内容を報告する。
19条の解釈を言えば,誰も心の中をかえさせることはできないわけで,これを保障した意味とは,思想良心の自由とはいかなる意味でも自由である,ということであり,法的には,権力による思想強制の禁止,特定の思想を正統であると勧奨することの禁止,思想を理由として不利益をもたらすことの禁止,思想推知の禁止(思想調査,知ろうとすること自体禁止)ということである。
19条に違反する法律内容としては,①本来個人の自立的判断にゆだねられるべきことがらについて,法がある価値を強いる場合,②人間性の核心を否定する場合となる。
①については南九州税理士会事件がそうであり,②については神戸高専の剣道実技事件があげられる。
「日の丸・君が代」強制について,「日の丸・君が代」であることの意味はさておいて,ここでは「国旗・国歌」そのものについて考えてみたい。
「国旗国歌」は国民国家において,国民を統合するためのもの,国家への国民統合という機能をもつ。
起立・斉唱という行為は,国旗国歌の機能からして,権力への統合を積極的に認めていく,国家に対して積極的価値をもつことを認めていく行為である。行為自体がそのような意味をもつ行為であるので,起立斉唱するか否かは,個人が国家と,どう向き合って生きるか個人の根本的問題である,といえる。
そこに介入し,起立,斉唱行為を強制することは,客観的にみて19条違反とならざるを得ない。
また強制することは反対だ,従えない,という人,国家に積極的価値を認めない人をあぶりだすことでもある。
あぶりだしは純度100%でなくてもよい。あぶりだし効果,つまり,萎縮効果をもたらせばよいのである。まさしく踏み絵である。
個人は,国民国家の枠組のみで生きているものではない。
国民国家のゆらぎは,実際EUの発足をみても明らかであり,環境や資源の問題は国家の枠をこえて久しい。国連でも1994年「国家の安全保障」から『人間の安全保障』へ切り替えられ,国家の枠組をこえた生き方が現実のものとなっている。
国家に対する考え方は多様に存在し,個人が自律的に判断すべきことがらであり,これに国が介入するのは19条違反である。
起立・斉唱行為つまり,国家へ積極的な価値,意味を認める行為を強制することは,それ自体が客観的にみて19条違反なのである。起立斉唱命令に反した個人の理由は問われる必要はない。行為の強制そのものが客観性のある19条で禁じられていることだからだ。
一方,主観的にみて個々人の内心に深く関わることがらを強制することも19条で禁じられている。
うたなどの音楽(美術なども言えるだろうが)は個人の内面と深くかかわっている。このような内容について,うたえない,ピアノをひけない,といった生徒や教師がいた場合,必要な代替措置をとって,内心を保護しなければならない。
(キリスト教徒で,進化論を教えられない,という教師がいて,それも許されるのか,という都教委反対尋問に対して)進化論については,どう教えろと言っているのかによって,19条違反になるか否かが異なってくる。神がすべてを創造した,という考え方をする人もいるし,進化論の考えもある,とした上で進化論を教えるように言うのは問題ないが,進化論が絶対正しく,この考え方しかない,そう教えろ,と言うのは,このキリスト教徒に対して19条違反になる。
主観的に,その個人の内面の価値と深く関わり侵害されると感じることを強いることは19条違反だ。*儀礼的行為であったとしても,個々人の内心に関係するものであれば許されない。
不起立が子どもの学習権を侵害しているか否かという点については,子どもの学習権を子ども自身が適切な教育を受ける権利である,ととらえれば,起立斉唱だけが正しいと教えられる,ということこそ,一方的価値観の押しつけでしかなく,こちらの方が学習権を侵害している,と言える。
今日の民主国家で,直接,思想弾圧をする,ということは考えにくく,思想強制とは,①その思想に基づく行為を行なうよう強制すること②その思想に従うよう宣伝し,知らずにマインドコントロールすること,という2つのやり方をとっている。マインドコントロールに警戒が必要である。
また法令で行為を強いること,の中で,国旗国歌へ起立斉唱を命じ,国家というものに積極的意味を認めるという,行為自体がそのような意味を持っ行為をさせることが,思想良心,個人の価値を侵害しているものなのである。許されない。
学校は全体主義の戸口ではない。生徒にとっても,教師にとっても思想良心は侵害されてはならない,守られるべき権利である。(渡辺)
『ほっととーく 95』(2010/11/13)より
「良心・表現の自由を!」声をあげる市民の会
〒176-0012 練馬区豊玉北5-17-7-303 サポートねりまねりま全労協気付
郵便振替:00140-6-517545 加入者名:声をあげる市民の会
渡辺厚子
2010年10月15日(金)'04処分撤回を求めて闘っている,被処分者の会の第1次「君が代」訴訟(原告169名)がついに高裁での最終弁論を迎えた。渡辺の不起立減給1ヶ月処分の裁判である。
この日は,憲法学者の浦部法穂神戸大名誉教授による証言と,Gさん,Yさんの2人の原告の意見陳述,5人の弁護士の最終陳述がなされた。
浦部さんの証言は憲法19条の権利を実に明快にのべられたもので,私を含め多くの原告が,すっきりした,と感じるとてもよい内容だった。以下,渡辺の責任と解釈でまとめたことをお断りした上で,私のききとった内容を報告する。
19条の解釈を言えば,誰も心の中をかえさせることはできないわけで,これを保障した意味とは,思想良心の自由とはいかなる意味でも自由である,ということであり,法的には,権力による思想強制の禁止,特定の思想を正統であると勧奨することの禁止,思想を理由として不利益をもたらすことの禁止,思想推知の禁止(思想調査,知ろうとすること自体禁止)ということである。
19条に違反する法律内容としては,①本来個人の自立的判断にゆだねられるべきことがらについて,法がある価値を強いる場合,②人間性の核心を否定する場合となる。
①については南九州税理士会事件がそうであり,②については神戸高専の剣道実技事件があげられる。
「日の丸・君が代」強制について,「日の丸・君が代」であることの意味はさておいて,ここでは「国旗・国歌」そのものについて考えてみたい。
「国旗国歌」は国民国家において,国民を統合するためのもの,国家への国民統合という機能をもつ。
起立・斉唱という行為は,国旗国歌の機能からして,権力への統合を積極的に認めていく,国家に対して積極的価値をもつことを認めていく行為である。行為自体がそのような意味をもつ行為であるので,起立斉唱するか否かは,個人が国家と,どう向き合って生きるか個人の根本的問題である,といえる。
そこに介入し,起立,斉唱行為を強制することは,客観的にみて19条違反とならざるを得ない。
また強制することは反対だ,従えない,という人,国家に積極的価値を認めない人をあぶりだすことでもある。
あぶりだしは純度100%でなくてもよい。あぶりだし効果,つまり,萎縮効果をもたらせばよいのである。まさしく踏み絵である。
個人は,国民国家の枠組のみで生きているものではない。
国民国家のゆらぎは,実際EUの発足をみても明らかであり,環境や資源の問題は国家の枠をこえて久しい。国連でも1994年「国家の安全保障」から『人間の安全保障』へ切り替えられ,国家の枠組をこえた生き方が現実のものとなっている。
国家に対する考え方は多様に存在し,個人が自律的に判断すべきことがらであり,これに国が介入するのは19条違反である。
起立・斉唱行為つまり,国家へ積極的な価値,意味を認める行為を強制することは,それ自体が客観的にみて19条違反なのである。起立斉唱命令に反した個人の理由は問われる必要はない。行為の強制そのものが客観性のある19条で禁じられていることだからだ。
一方,主観的にみて個々人の内心に深く関わることがらを強制することも19条で禁じられている。
うたなどの音楽(美術なども言えるだろうが)は個人の内面と深くかかわっている。このような内容について,うたえない,ピアノをひけない,といった生徒や教師がいた場合,必要な代替措置をとって,内心を保護しなければならない。
(キリスト教徒で,進化論を教えられない,という教師がいて,それも許されるのか,という都教委反対尋問に対して)進化論については,どう教えろと言っているのかによって,19条違反になるか否かが異なってくる。神がすべてを創造した,という考え方をする人もいるし,進化論の考えもある,とした上で進化論を教えるように言うのは問題ないが,進化論が絶対正しく,この考え方しかない,そう教えろ,と言うのは,このキリスト教徒に対して19条違反になる。
主観的に,その個人の内面の価値と深く関わり侵害されると感じることを強いることは19条違反だ。*儀礼的行為であったとしても,個々人の内心に関係するものであれば許されない。
不起立が子どもの学習権を侵害しているか否かという点については,子どもの学習権を子ども自身が適切な教育を受ける権利である,ととらえれば,起立斉唱だけが正しいと教えられる,ということこそ,一方的価値観の押しつけでしかなく,こちらの方が学習権を侵害している,と言える。
今日の民主国家で,直接,思想弾圧をする,ということは考えにくく,思想強制とは,①その思想に基づく行為を行なうよう強制すること②その思想に従うよう宣伝し,知らずにマインドコントロールすること,という2つのやり方をとっている。マインドコントロールに警戒が必要である。
また法令で行為を強いること,の中で,国旗国歌へ起立斉唱を命じ,国家というものに積極的意味を認めるという,行為自体がそのような意味を持っ行為をさせることが,思想良心,個人の価値を侵害しているものなのである。許されない。
学校は全体主義の戸口ではない。生徒にとっても,教師にとっても思想良心は侵害されてはならない,守られるべき権利である。(渡辺)
『ほっととーく 95』(2010/11/13)より
「良心・表現の自由を!」声をあげる市民の会
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