◆ 1審判決を守りたい、広げたい
「予防訴訟」結審-判決日未定-
10月26日(火)、高裁において第5回審理で結審した。ここでは私たちは被控訴人、その数は397人。判決日は示されなかった。
AM9:40に締め切った傍聴希望者は147人、傍聴券は58枚。傍聴に並んだ人がどちらの側か内訳は知らない。どちらでもない人もいるだろう。
1審で全面勝訴している。今日は加藤弁護士から始まる6人の弁護人の最終弁論で押さえどころを主張する。それに先だって3人の先生が、勤務していた学校で10.23通達が変化させたもの、それとの葛藤を具体的に述べる。
先回こちらの証人をせかせかと尋問した都側弁護人が大幅に遅れて入ってきたのは目立ったが、都教委側からの弁論は予定に無く、最後に裁判長から質問があり、結審した。
陳述の最初は、日常的に生徒一人一人に合わせた障害児教育の中の日暮かをるさん、“生きていることそのものが大事であり、教育の目的であると思う”と生徒と一緒に奥底にある感情を探り、生徒が、自分であることの安心感を抱く方向に、教員たち、校長も話し合い、子どもが学校の主人公であることを大事にしてきた。その子どもたちを混乱させ、制度を優先し、社会の光になっていく先人たちの姿を見失わせた10・23通達の存在を述べた。
二番目は肢体不自由の生徒と共にいる、職務命令と信仰をもつこととの葛藤が終わることのない牧野理恵さん、自立に向けての毎日の取り組みの成果を見られない卒業式に変わり、在校生も卒業生の姿を共有できない。「悩む余地はないのです」と返答する校長、式がめぐってくる度に、「校長、教頭は降格、教員は減給、学校は特別監視下に置かれる」ことが信仰を守ることと結びつかされ、苦悩が深くなっていく。
最後は加藤良雄さん、定時制高校勤務になり、日々目を開かされている。授業での質問が恐怖でしかない生徒のいる事実、「うるせえ」、「ばか」、「死ね」の言葉を受けながら、先ずは受け止め、伴走者として過ごしてきた生徒たちとの卒業式に、校長よりも前の席に陣取る“教育を指導する”人の姿を見た。70歳の生徒が「自分の体験からどうしても起立できない、周りの視線に耐えられない」と自分の卒業式に欠席、生徒の心の中にも乱暴に踏み込む卒業式。切々と教育の再生を訴えた。
勤務校の特徴を通じて、教員すべてに共通した世界が陳述された。全日制・普通科、商業科の経験で、あれこれの感情がなかなか整理できない私だが、陳述を聴いていて、自分のこともよく整理され、分析され、教育の根底が共通なのを実感した。強圧的で、強制的で、しかも単一な考えしか示せない世界は教育の世界とは違う。
裁判官に、日常が積み重なっていく教育の世界を理解してほしいと思った。一人一人が違って大切にされている世界、一つの型に収まることはできない世界を想像して欲しいと思った。それを法によって守って欲しい。閉じ込めようとするものの無謀さを法によって明言して欲しい。
最終弁論は、①本件訴訟で問われているもの、②事実認定に当たって留意すべき点、③差し止めの訴え及び公的不存在確認訴訟の適法性、④教育の自由違反・「不当な支配」について、⑤思想・良心の自由違反、⑥総括。
加藤文也弁護人を皮切りに、山中真人、金井知明、青木護、平松真二郎の各弁護人が、地裁から続いた証言、審理の過程を追い、事実を再確認し、強制を伴う10.23通達の違法性、原訴訟の適法性を主張した。澤藤統一郎弁護人が「憲法の持つ、人権、国民主権、平和の理念を体現する司法が良心を示す判決を望む」と締めくくった。
都築弘裁判長から、③について、「(1審判決にある)いかなる処分(もしてはならない)」は何を意味するか、と質問があり、「懲戒処分」であると返答された。
何が一番問題とされるかについては「10.23通達そのもの」と押さえられた。
『藤田先生を応援する会通信』第44号(2010/11/10)より
「予防訴訟」結審-判決日未定-
志村洋子(原告)
10月26日(火)、高裁において第5回審理で結審した。ここでは私たちは被控訴人、その数は397人。判決日は示されなかった。
AM9:40に締め切った傍聴希望者は147人、傍聴券は58枚。傍聴に並んだ人がどちらの側か内訳は知らない。どちらでもない人もいるだろう。
1審で全面勝訴している。今日は加藤弁護士から始まる6人の弁護人の最終弁論で押さえどころを主張する。それに先だって3人の先生が、勤務していた学校で10.23通達が変化させたもの、それとの葛藤を具体的に述べる。
先回こちらの証人をせかせかと尋問した都側弁護人が大幅に遅れて入ってきたのは目立ったが、都教委側からの弁論は予定に無く、最後に裁判長から質問があり、結審した。
陳述の最初は、日常的に生徒一人一人に合わせた障害児教育の中の日暮かをるさん、“生きていることそのものが大事であり、教育の目的であると思う”と生徒と一緒に奥底にある感情を探り、生徒が、自分であることの安心感を抱く方向に、教員たち、校長も話し合い、子どもが学校の主人公であることを大事にしてきた。その子どもたちを混乱させ、制度を優先し、社会の光になっていく先人たちの姿を見失わせた10・23通達の存在を述べた。
二番目は肢体不自由の生徒と共にいる、職務命令と信仰をもつこととの葛藤が終わることのない牧野理恵さん、自立に向けての毎日の取り組みの成果を見られない卒業式に変わり、在校生も卒業生の姿を共有できない。「悩む余地はないのです」と返答する校長、式がめぐってくる度に、「校長、教頭は降格、教員は減給、学校は特別監視下に置かれる」ことが信仰を守ることと結びつかされ、苦悩が深くなっていく。
最後は加藤良雄さん、定時制高校勤務になり、日々目を開かされている。授業での質問が恐怖でしかない生徒のいる事実、「うるせえ」、「ばか」、「死ね」の言葉を受けながら、先ずは受け止め、伴走者として過ごしてきた生徒たちとの卒業式に、校長よりも前の席に陣取る“教育を指導する”人の姿を見た。70歳の生徒が「自分の体験からどうしても起立できない、周りの視線に耐えられない」と自分の卒業式に欠席、生徒の心の中にも乱暴に踏み込む卒業式。切々と教育の再生を訴えた。
勤務校の特徴を通じて、教員すべてに共通した世界が陳述された。全日制・普通科、商業科の経験で、あれこれの感情がなかなか整理できない私だが、陳述を聴いていて、自分のこともよく整理され、分析され、教育の根底が共通なのを実感した。強圧的で、強制的で、しかも単一な考えしか示せない世界は教育の世界とは違う。
裁判官に、日常が積み重なっていく教育の世界を理解してほしいと思った。一人一人が違って大切にされている世界、一つの型に収まることはできない世界を想像して欲しいと思った。それを法によって守って欲しい。閉じ込めようとするものの無謀さを法によって明言して欲しい。
最終弁論は、①本件訴訟で問われているもの、②事実認定に当たって留意すべき点、③差し止めの訴え及び公的不存在確認訴訟の適法性、④教育の自由違反・「不当な支配」について、⑤思想・良心の自由違反、⑥総括。
加藤文也弁護人を皮切りに、山中真人、金井知明、青木護、平松真二郎の各弁護人が、地裁から続いた証言、審理の過程を追い、事実を再確認し、強制を伴う10.23通達の違法性、原訴訟の適法性を主張した。澤藤統一郎弁護人が「憲法の持つ、人権、国民主権、平和の理念を体現する司法が良心を示す判決を望む」と締めくくった。
都築弘裁判長から、③について、「(1審判決にある)いかなる処分(もしてはならない)」は何を意味するか、と質問があり、「懲戒処分」であると返答された。
何が一番問題とされるかについては「10.23通達そのもの」と押さえられた。
『藤田先生を応援する会通信』第44号(2010/11/10)より
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