◆ 「君が代」裁判の課題
-最高裁での敗訴判決がつづくなかで
◆ 最高裁の「君が代」強制正当化論
最高裁は5月30日から7月14日にかけて、刑事事件を含む合計11件の「君が代」裁判につき上告審判決を言い渡した。
いずれも小法廷によるものであり、全体的な基調は、「君が代」斉唱時に教職員に起立斉唱を命じる職務命令は「思想・良心の自由」を保障する憲法19条に違反しないというものである。
最高裁は2007年にも、「君が代」ピアノ伴奏の職務命令を合憲とする判断を示していた。このときは、前年9月に東京地裁が都教委「10.23通達」や起立・斉唱・ピアノ伴奏に関する職務命令を違憲としたことを牽制するという狙いがあったが、今回も、今年3月に東京高裁が起立斉唱命令違反に対する懲戒処分を裁量権逸脱と判断したのに対し、最高裁がこれを押さえ込むかたちとなった。
最初の判決が出された5月末という時点は、「君が代」斉唱を教職員に義務づけることを意図する条例案が大阪府議会に提出されたのと奇妙にも一致した。
◆ 「憲法の番人」ではなく「権力の番犬」
従来から「高度に政治的な問題には司法判断を下さない」という建前を振りかざして憲法判断を回避してきた最高裁が、この問題ではじつに「高度に政治的」なスタンスをあらわにしている。
そこに示されるのは、「憲法の番人」ではなく、「権力の番犬」という現在の最高裁の本性である一連の最高裁判決の多数意見が打ち出した「君が代」強制正当化の論理は、以下のとおりである。
---学校儀式での「君が代」起立斉唱は「慣例上の儀礼的な所作」にすぎず、教職員に起立斉唱を命じてもその歴史観などを否定しない。
もっとも起立斉唱は「国旗・国歌への敬意の表明」ともいえるから、教職員の思想・良心の自由を「間接的に制約」する面がある。
しかし、国旗・国歌の扱いは学習指導要領などに明記されている、教職員は公務員として職務命令に従わなければならない、職務命令は学校儀式の秩序を確保し式典の円滑な進行を図るためのものであることなどから、「制約には必要性、合理性」がある。
この論法には多くの問題点が含まれている。
たとえば、「君が代」強制の唯一の法的根拠である学習指導要領の国旗・国歌条項については、その法的拘束力に関して重大な疑念がある。
最高裁は、1976年学テ判決が当時の学習指導要領を「必要かつ合理的な大綱的基準の設定」として「法的に是認」したのを恣意的に援用し、国旗・国歌条項の法的拘束力をいとも簡単に認めている。
◆ 学テ判決の恣意的援用
しかし、学テ判決は、学習指導要領のありかたについて、いくつかの制限的判示(「法的拘束力をもつべきでない部分がある」「地域や教師の自主的な教育の余地を残しているはずである」「子どもに一方的な観念を教えることを教師に強制していないはずである」など)を行っており、これらに照らした場合、国旗・国歌条項の法的拘束力はそう簡単に認められるものではない。
しかも、学テ判決が対象とした当時の学習指導要領には、現在のような文言(「入学式・卒業式などにおいては、……国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」-1989年改訂後の規定)の国旗・国歌条項は存在すらしていなかった。同判決のうち都合のいい部分のみをつまみ食い的に援用することの恣意性は否めない。
学校儀式の「秩序の確保」や「円滑な進行」を理由とする強制の正当化論にも疑問がある。いずれの判決も、教職員の不起立・不斉唱により「秩序の確保」や「円滑な進行」が具体的にどのように阻害されたのか検証すらしていないのである。
この点は、6月14日判決に付された田原裁判官の反対意見が「違反行為〔=起立斉唱の拒否〕によって校務運営にいかなる支障を来したかという結果の重大性が問われるべきだ」と批判していたが、多数意見のような論証抜きの恣意的判断に説得性はない。
◆ 問われなかった「教育の自由」
一連の判決のもう一つの問題点は、憲法19条の「思想・良心の自由」の問題とともに「君が代」裁判の重要な論点である「教育の自由」(憲法23条・26条)や教育に対する「不当な支配」の禁止(旧教育基本法10条1項)の問題について判断していないという点である。
「日の丸・君が代」問題には、自己の思想・信条に反する行為を強制されることが憲法19条に違反しないかという問題と、学校儀式での「日の丸・君が代」の強制が教育の自由を侵害し「不当な支配」にあたらないかという問題が併存している。
これら2つの側面は、裁判においては、教師に「君が代」起立斉唱を命ずることが、その「教育者としての良心」を踏みにじるのではないかという問いかけにおいて統一されていた。
学校儀式における「日の丸・君が代」強制の最終的な目的が、子どもたちの内心に向けてこれらの国家シンボルへの忠誠を働きかけることにあるから、そのような国家シンボル強制を教育者として容認できないとする教師たちの信条には十分な正当性と真摯性がある。
最高裁の多数意見は「儀式」における秩序の維持や円滑な進行の必要性をあげて、起立斉唱の強制を正当化するが、上記の観点からすれば、学校儀式を利用した国家シンボルの強制という手法それ自体の妥当性が問われる。
前出の2007年ピアノ判決で反対意見を述べた藤田裁判官は、「『君が代』の斉唱をめぐり、……入学式のような公的儀式の場で、……参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価(従って、……このような行動に自分は参加してはならないという信念ないし信条)といった側面……こそが、本件では重要」としていた。
学校における国旗・国歌教育の必要性が認められるとしても、それはたとえば社会科などの教科教育における理性的な知識伝達として行われるべきであり、学校儀式という強烈な《同調圧力》の働く場で、起立斉唱という身体行動プログラムの押しつけというやりかたでなされるべきものではない。
◆ 《面従腹背》を促すか
2006年に成立した新教育基本法は2条5号に「我が国と郷土を愛する……態度を養うこと」を教育目標として掲げた。
これを受けて、2008年改訂の小学校学習指導要領「第6節音楽」には「国歌『君が代』は、いずれの学年においても歌えるよう指導すること」という文言が登場した。
「君が代」斉唱の際の「声量調査」が行われるという最近の事例(久留米市など)にもみられるように、今や学校現場では自律的判断抜きの起立斉唱が自己目的化され、場合によっては《面従腹背》さえ促すような事態が進行している。
「君が代」裁判で真に問われるべきは、このような教育の変質・破壊をもたらす国家シンボル強制が許されるのかという点である。
6月14日判決で敗訴した3人の原告は、「卒業式のステージ上に掲げた日の丸によって生徒の卒業制作が飾れなくなった事態に抗議する意味で不起立を選んだ」(朝日新聞6月15日)という。教育の自由・自主性を死守しようとする彼らの想いは、おそらくすべての原告が共有するものであるだろう。
『子どもと教科書全国ネット21ニュース』79号(2011.8.15)
-最高裁での敗訴判決がつづくなかで
成嶋 隆(なるしまたかし) 新潟大学
◆ 最高裁の「君が代」強制正当化論
最高裁は5月30日から7月14日にかけて、刑事事件を含む合計11件の「君が代」裁判につき上告審判決を言い渡した。
いずれも小法廷によるものであり、全体的な基調は、「君が代」斉唱時に教職員に起立斉唱を命じる職務命令は「思想・良心の自由」を保障する憲法19条に違反しないというものである。
最高裁は2007年にも、「君が代」ピアノ伴奏の職務命令を合憲とする判断を示していた。このときは、前年9月に東京地裁が都教委「10.23通達」や起立・斉唱・ピアノ伴奏に関する職務命令を違憲としたことを牽制するという狙いがあったが、今回も、今年3月に東京高裁が起立斉唱命令違反に対する懲戒処分を裁量権逸脱と判断したのに対し、最高裁がこれを押さえ込むかたちとなった。
最初の判決が出された5月末という時点は、「君が代」斉唱を教職員に義務づけることを意図する条例案が大阪府議会に提出されたのと奇妙にも一致した。
◆ 「憲法の番人」ではなく「権力の番犬」
従来から「高度に政治的な問題には司法判断を下さない」という建前を振りかざして憲法判断を回避してきた最高裁が、この問題ではじつに「高度に政治的」なスタンスをあらわにしている。
そこに示されるのは、「憲法の番人」ではなく、「権力の番犬」という現在の最高裁の本性である一連の最高裁判決の多数意見が打ち出した「君が代」強制正当化の論理は、以下のとおりである。
---学校儀式での「君が代」起立斉唱は「慣例上の儀礼的な所作」にすぎず、教職員に起立斉唱を命じてもその歴史観などを否定しない。
もっとも起立斉唱は「国旗・国歌への敬意の表明」ともいえるから、教職員の思想・良心の自由を「間接的に制約」する面がある。
しかし、国旗・国歌の扱いは学習指導要領などに明記されている、教職員は公務員として職務命令に従わなければならない、職務命令は学校儀式の秩序を確保し式典の円滑な進行を図るためのものであることなどから、「制約には必要性、合理性」がある。
この論法には多くの問題点が含まれている。
たとえば、「君が代」強制の唯一の法的根拠である学習指導要領の国旗・国歌条項については、その法的拘束力に関して重大な疑念がある。
最高裁は、1976年学テ判決が当時の学習指導要領を「必要かつ合理的な大綱的基準の設定」として「法的に是認」したのを恣意的に援用し、国旗・国歌条項の法的拘束力をいとも簡単に認めている。
◆ 学テ判決の恣意的援用
しかし、学テ判決は、学習指導要領のありかたについて、いくつかの制限的判示(「法的拘束力をもつべきでない部分がある」「地域や教師の自主的な教育の余地を残しているはずである」「子どもに一方的な観念を教えることを教師に強制していないはずである」など)を行っており、これらに照らした場合、国旗・国歌条項の法的拘束力はそう簡単に認められるものではない。
しかも、学テ判決が対象とした当時の学習指導要領には、現在のような文言(「入学式・卒業式などにおいては、……国旗を掲揚するとともに、国歌を斉唱するよう指導するものとする」-1989年改訂後の規定)の国旗・国歌条項は存在すらしていなかった。同判決のうち都合のいい部分のみをつまみ食い的に援用することの恣意性は否めない。
学校儀式の「秩序の確保」や「円滑な進行」を理由とする強制の正当化論にも疑問がある。いずれの判決も、教職員の不起立・不斉唱により「秩序の確保」や「円滑な進行」が具体的にどのように阻害されたのか検証すらしていないのである。
この点は、6月14日判決に付された田原裁判官の反対意見が「違反行為〔=起立斉唱の拒否〕によって校務運営にいかなる支障を来したかという結果の重大性が問われるべきだ」と批判していたが、多数意見のような論証抜きの恣意的判断に説得性はない。
◆ 問われなかった「教育の自由」
一連の判決のもう一つの問題点は、憲法19条の「思想・良心の自由」の問題とともに「君が代」裁判の重要な論点である「教育の自由」(憲法23条・26条)や教育に対する「不当な支配」の禁止(旧教育基本法10条1項)の問題について判断していないという点である。
「日の丸・君が代」問題には、自己の思想・信条に反する行為を強制されることが憲法19条に違反しないかという問題と、学校儀式での「日の丸・君が代」の強制が教育の自由を侵害し「不当な支配」にあたらないかという問題が併存している。
これら2つの側面は、裁判においては、教師に「君が代」起立斉唱を命ずることが、その「教育者としての良心」を踏みにじるのではないかという問いかけにおいて統一されていた。
学校儀式における「日の丸・君が代」強制の最終的な目的が、子どもたちの内心に向けてこれらの国家シンボルへの忠誠を働きかけることにあるから、そのような国家シンボル強制を教育者として容認できないとする教師たちの信条には十分な正当性と真摯性がある。
最高裁の多数意見は「儀式」における秩序の維持や円滑な進行の必要性をあげて、起立斉唱の強制を正当化するが、上記の観点からすれば、学校儀式を利用した国家シンボルの強制という手法それ自体の妥当性が問われる。
前出の2007年ピアノ判決で反対意見を述べた藤田裁判官は、「『君が代』の斉唱をめぐり、……入学式のような公的儀式の場で、……参加者にその意思に反してでも一律に行動すべく強制することに対する否定的評価(従って、……このような行動に自分は参加してはならないという信念ないし信条)といった側面……こそが、本件では重要」としていた。
学校における国旗・国歌教育の必要性が認められるとしても、それはたとえば社会科などの教科教育における理性的な知識伝達として行われるべきであり、学校儀式という強烈な《同調圧力》の働く場で、起立斉唱という身体行動プログラムの押しつけというやりかたでなされるべきものではない。
◆ 《面従腹背》を促すか
2006年に成立した新教育基本法は2条5号に「我が国と郷土を愛する……態度を養うこと」を教育目標として掲げた。
これを受けて、2008年改訂の小学校学習指導要領「第6節音楽」には「国歌『君が代』は、いずれの学年においても歌えるよう指導すること」という文言が登場した。
「君が代」斉唱の際の「声量調査」が行われるという最近の事例(久留米市など)にもみられるように、今や学校現場では自律的判断抜きの起立斉唱が自己目的化され、場合によっては《面従腹背》さえ促すような事態が進行している。
「君が代」裁判で真に問われるべきは、このような教育の変質・破壊をもたらす国家シンボル強制が許されるのかという点である。
6月14日判決で敗訴した3人の原告は、「卒業式のステージ上に掲げた日の丸によって生徒の卒業制作が飾れなくなった事態に抗議する意味で不起立を選んだ」(朝日新聞6月15日)という。教育の自由・自主性を死守しようとする彼らの想いは、おそらくすべての原告が共有するものであるだろう。
『子どもと教科書全国ネット21ニュース』79号(2011.8.15)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます