◆ 沖縄差別認識不足の一因としての教科書記述の責任を思う
皆さま 高嶋伸欣です
1 先に4月18日(土)のNスペ「戦後70年・第1回 日本人と象徴天皇」を批判した際に、昭和天皇による「天皇メッセージ」を一つの要因とした講和条約第3条による沖縄切り離しの問題点を、同番組が触れていないことを厳しく批判しました。その際、絵解きに当たる説明はそのうち別の機会にしたいと、しました。
詳しく説明すると長くなるのと、すでに一昨年の「主権回復記念式典」開催に抗議したときなど、これまでに何度か説明をしていて、繰り返しになると思ったためでした。
2 けれどもその後、少し考えを変えました。あの番組に出演していた保阪正康氏と御厨貴氏は別として、Nスペのスタッフたちも意図的に問題点を避けたのではなく、実は問題点そのものを正確には認識できていないのではないかという気がしてきたのです。
3 ではそのように、番組スタッフさえも認識不足ではないかという、社会全体がこの問題の正確な認識を欠いていると思われる状況はなぜ生まれてしまったのか?
結論から言えば、それは教科書特に高校の「日本史」教科書が正確な記述を長年してこなかったためだと、私は考えています。
4 私はこれまで優柔不断で、歴史修正主義の教科書以外についてはあまり正面から執筆者たちを名指しでの批判してきませんでした。それでも、「こうした記述では不十分」あるいは「これでは生徒に間違って受け止められる」などと指摘することで、該当の教科書執筆者たちは気づいてくれるはず、と思っていました。けれども期待ははずれました。その結果が、上記の事態ということです。
5 講和条約3条が深刻な沖縄差別の一因になっているという問題点を、現在の「日本史」教科書が正しく学習できる記述にしていないという証拠は簡単に指摘できます。
6 講和条約が発効した1952年4月28日から今年2015年4月までに発行された「日本史」教科書で問題の講和条約第3条の条文の全文を掲載したことがあるのは、家永三郎氏の『新日本史』(三省堂)だけです。同書はすでに絶版になっていますから、現在は1冊もありません。
7 話を急ぐためにまず第3条の全文を下に引用しておきます。
前半の1文は、奄美以南の南西諸島と小笠原諸島を米国が施政権者になる国連の信託統治領にすることに、日本政府は同意する、ということです。
信託統治制度は、戦前の国際連盟による委任統治制度が事実上は植民地支配のカモフラージュにすぎなかったという反省に基づいて、国際連合が1年ごとに監査を実施して自主独立の能力形成を支援するという制度本来の統治の実行を求めるというものです。こうした力の育成を米国が支援してくれるのですから、それなりにこれらの地域のためにもなりそうなことです。
9 ただし、この制度の実行のためには国連の議決を得る必要がありますが、国連の総会は毎年の秋に開催することになっていました。条約の調印は1951年9月7日でしたが、条約の発効には調印国の3分の2以上の国で批准手続きが必要です。各国の予定からすると批准が3分の2を超えるのは1952年4月になると、予想されました。
もしそうなると、前半の文にある国連への提案と可決の手続きは1952年秋の総会まで待たなければなりませんから、4月から秋までの空白期間が生まれてしまいます。そこで第3条の後半に、国連総会で可決されるまでの暫定的な手続きを定めた条文が加えられることになったのだと説明されています。
10 この後半の規定は、「全部及び一部」などとわけのわからない表現がありますが、これがいわゆる潜在的主権の存在を米国側が認めている意味の言い回しなのだとされています。それがまた天皇の「租借制度提案」をヒントにした結果でもあるということです。
それ以前の沖縄などは連合軍によるGHQの支配下ではなく、米軍の単独占領下にありましたが、ともかく敗戦による日本全体の軍事占領を終わらせる平和条約にしなければならまかったので、沖縄なども占領軍支配を終わる形にする必要があったのです。
11 ともあれ、これで第3条では前半が主文で、後半が暫定措置の規定であるということがわかります。前半と後半の組み合わせは、筋が通っていて合理的であるように見えます。
12 ところが、これがとんでもないだまし、ペテンのような条文なのです。
まず主文に当たる前半の国連への信託統治領提案を実行する気が、米国政府には最初からなかったのです。
国連は米国が主導して作った国際組織です。国連の規則では、独立国の本来の領土は信託統治領にはできないことになっていました。米国は当然ながらそのことを熟知しています。従って提案すれば恥をかくだけでと分かっているので、提案そのものをする気は、初めからなかったのです。
13 提案する気がないのに、なぜこのようなことを条文に明記したのでしょうか?
14 米国の本心は、後半の暫定措置を日本政府を含む調印国に認めさせ、事実上の米軍単独の占領を沖縄で継続できるようにすることでした。
15 そのことは、前出の国連への提案は不可能と承知の上だったことと、その提案をいつまでにする、と条文に明記してないことから分かります。こうした前半部分の提案の実行を条約に明記する場合には、いつまでに実行するかの期限も書くのが通例です。
その期限が明記されていないということは、米国が後半の暫定措置の期間を半永久的に延長しても条約違反にはならない、ということになります。
16 こうしたことから、当時の日本の吉田首相たちも、米国側の意図に気づいていたはずです。けれども、日本側は米国の意図を黙認したのです。何しろその米国側による沖縄の軍事支配継続こそ昭和天皇が「天皇メッセージ」で望んでいたことそのものだったからです。
その証拠に、日本政府は1972年5月15日の復帰の日までに、米国政府に第3条前半の実行を申し入れたことは一度もありません。実行できないことを知っていて、申し入れたら米国が困ることが分かっていたからです。
17 その後、米国を政府は昭和天皇と日本政府の暗黙の了解の下に、第3条の暫定措置を最大限に”活用”して沖縄の軍事占領を半永久的に継続し続けることにしたのです。
18 その結果。沖縄はどこの憲法、憲章類を適用されることもなく、人々は無権利状態に放置されたのです。
青信号で横断歩道を渡っていた中学生が米軍トラックにひき殺されても、信号に日の光が反射してよく見えなかったための不可抗力の事故とみなされ、糸満集落内路地を酒に酔って高速で走った米兵の車が、オバアを石垣と車の間で圧死させても、「道が曲がりくねっていたための不可抗力の事故」として、責任を問えませんでした。
このような「虫けら状態」について、日本政府が抗議することはありませんでした。
19 米国に条文前半の実行を求めなかったことを含め、沖縄の人々を無権利の「虫けら状態」に追い込んだ責任の半分は昭和天皇と日本政府にあるのは明らかです。これでは、Nスペが「天皇メッセージ」に深入りしないのも当然と思えるのではないでしょうか。
20 ところで、話は「日本史」教科書の責任という話題にもどりますが、以上の説明から、第3条の”からくり”を暴くには条文の後半部分に触れないわけにはいかないことが、おわかりでしょうか。もし分かって頂けたのであるならば、「日本史」の教科書のこの部分の記述を確認して下さい。
21 すでに明らかにしてあるように、第3条の条文の全文を引用してある「日本史」教科書は皆無です。その一方で、第3条の前半部分だけを引用してある教科書が数冊あります。その教科書の執筆者と編集者は米国の「ペテン」そのままに生徒に信じ込ませようとしていることに気づいていないのでしょうか。米国の”悪意”を知った上でそうしているとまでは、私も思いませんが、このことを私が指摘し始めたのは1970年代の半ばからです。
22 私が言い続けてきた中で、家永氏の『新日本史』が消え、その一方で山川出版の『詳説日本史』の執筆者が伊藤隆氏から加藤陽子氏に交代したあたりから同書に次のような注記がようやく登場するようにはなりました。
23 予告通りに長い説明になりましたが、これが復帰前の沖縄を「異民族支配」下で人々が無権利状態という封建時代さながらに放置されることになった経過と、その経過を今なお正確に記述していない「日本史」教科書の実態です。
教科書執筆には様々な制約があることは承知していますが、関係者の皆さんには是非検討をお願いします。
24 沖縄の人々はそのような厳しい状況下で、土地を奪われ、職を奪われるたびに「人間として扱え」と米軍に迫り、抵抗を続けることで国内外の連帯の力も得て日米両政府を追い詰め、1972年5月15日に「日本復帰」を実現させたのです。
25 その「日本」がなお沖縄差別の構造を存続させている責任の一端は、こうした経過をきちんと伝えてこなかった「本土」の学校教育にもあるように私には思えるのです。
26 間もなく戦後沖縄の歴史の節目の日になります。
4月28日=講和条約が発効して、沖縄が「異民族支配」下に天皇と日本政府の合意を得て合法的に切り捨てられた「屈辱の日」
5月15日=沖縄県民が「不屈の闘い」(学校図書「高等学校日本史 改訂版」1986年度用)で、「日本復帰」を実現させ、日本国憲法を無権利状態から自力で獲得した日。
27 沖縄ではこの節目に合わせた授業がいろいろ行われていますが、「本土」ではどうでしょうか。最近の辺野古問題での沖縄の人々の行動,主張の根源にはこの無権利状態から日本国憲法を獲得した体験の継承があることを含め、沖縄と「本土」の関係、沖縄から学ぶことを考える機会にしたい、と思っています。
28 そのための教材として、私は以前から、復帰の日、1972年5月15日の「沖縄タイムス」の特集ページ(日本国憲法の全文を何も解説なしで掲載しているもの)の拡大コピー(B4版8枚の張り合わせ用)を、教材として使いませんかと、呼びかけています。
「復帰の日の朝、配達された新聞に日本国憲法全文を見つけた時に、沖縄の人々はどのように思ったことだろうか?」と、生徒に問いかけてみる授業などに活用して頂ければ幸いです。
*メール便がなくなったので郵送になりますが、入手を希望される方は、なるべく個人メールで宛先の 郵便番号 住所 氏名(フルネームで) をお知らせ下さい。 送料分を頂きます。
以上 文責は高嶋です
*上記の26の節目の日の授業に間に合わせたいと考えたことも、「そのうちに」と思っていたこの説明のメールを急遽アップすることにした理由の一つです。
拡散・転送は自由です
皆さま 高嶋伸欣です
1 先に4月18日(土)のNスペ「戦後70年・第1回 日本人と象徴天皇」を批判した際に、昭和天皇による「天皇メッセージ」を一つの要因とした講和条約第3条による沖縄切り離しの問題点を、同番組が触れていないことを厳しく批判しました。その際、絵解きに当たる説明はそのうち別の機会にしたいと、しました。
詳しく説明すると長くなるのと、すでに一昨年の「主権回復記念式典」開催に抗議したときなど、これまでに何度か説明をしていて、繰り返しになると思ったためでした。
2 けれどもその後、少し考えを変えました。あの番組に出演していた保阪正康氏と御厨貴氏は別として、Nスペのスタッフたちも意図的に問題点を避けたのではなく、実は問題点そのものを正確には認識できていないのではないかという気がしてきたのです。
3 ではそのように、番組スタッフさえも認識不足ではないかという、社会全体がこの問題の正確な認識を欠いていると思われる状況はなぜ生まれてしまったのか?
結論から言えば、それは教科書特に高校の「日本史」教科書が正確な記述を長年してこなかったためだと、私は考えています。
4 私はこれまで優柔不断で、歴史修正主義の教科書以外についてはあまり正面から執筆者たちを名指しでの批判してきませんでした。それでも、「こうした記述では不十分」あるいは「これでは生徒に間違って受け止められる」などと指摘することで、該当の教科書執筆者たちは気づいてくれるはず、と思っていました。けれども期待ははずれました。その結果が、上記の事態ということです。
5 講和条約3条が深刻な沖縄差別の一因になっているという問題点を、現在の「日本史」教科書が正しく学習できる記述にしていないという証拠は簡単に指摘できます。
6 講和条約が発効した1952年4月28日から今年2015年4月までに発行された「日本史」教科書で問題の講和条約第3条の条文の全文を掲載したことがあるのは、家永三郎氏の『新日本史』(三省堂)だけです。同書はすでに絶版になっていますから、現在は1冊もありません。
7 話を急ぐためにまず第3条の全文を下に引用しておきます。
サンフランシスコ講和条約 第3条8 地名が細かく書き出されていますが、内容は簡単です。
「 日本国は、北緯29度以南の南西諸島(琉球諸島及び大東諸島を含む)、孀婦岩の南の南方諸島(小笠原群島、西之島及び火山列島を含む)並びに沖ノ鳥島及び南鳥島を合衆国を唯一の施政権者とする信託当時制度の下におくこととする国際連合に対する合衆国のいかなる提案にも同意する。
このような提案が行われ且つ可決されるまで、合衆国は、領水を含むこれらの諸島の領域及び住民に対して、行政、立法及び司法上の権力の全部及び一部を行使する権利を有するものとする。」
前半の1文は、奄美以南の南西諸島と小笠原諸島を米国が施政権者になる国連の信託統治領にすることに、日本政府は同意する、ということです。
信託統治制度は、戦前の国際連盟による委任統治制度が事実上は植民地支配のカモフラージュにすぎなかったという反省に基づいて、国際連合が1年ごとに監査を実施して自主独立の能力形成を支援するという制度本来の統治の実行を求めるというものです。こうした力の育成を米国が支援してくれるのですから、それなりにこれらの地域のためにもなりそうなことです。
9 ただし、この制度の実行のためには国連の議決を得る必要がありますが、国連の総会は毎年の秋に開催することになっていました。条約の調印は1951年9月7日でしたが、条約の発効には調印国の3分の2以上の国で批准手続きが必要です。各国の予定からすると批准が3分の2を超えるのは1952年4月になると、予想されました。
もしそうなると、前半の文にある国連への提案と可決の手続きは1952年秋の総会まで待たなければなりませんから、4月から秋までの空白期間が生まれてしまいます。そこで第3条の後半に、国連総会で可決されるまでの暫定的な手続きを定めた条文が加えられることになったのだと説明されています。
10 この後半の規定は、「全部及び一部」などとわけのわからない表現がありますが、これがいわゆる潜在的主権の存在を米国側が認めている意味の言い回しなのだとされています。それがまた天皇の「租借制度提案」をヒントにした結果でもあるということです。
それ以前の沖縄などは連合軍によるGHQの支配下ではなく、米軍の単独占領下にありましたが、ともかく敗戦による日本全体の軍事占領を終わらせる平和条約にしなければならまかったので、沖縄なども占領軍支配を終わる形にする必要があったのです。
11 ともあれ、これで第3条では前半が主文で、後半が暫定措置の規定であるということがわかります。前半と後半の組み合わせは、筋が通っていて合理的であるように見えます。
12 ところが、これがとんでもないだまし、ペテンのような条文なのです。
まず主文に当たる前半の国連への信託統治領提案を実行する気が、米国政府には最初からなかったのです。
国連は米国が主導して作った国際組織です。国連の規則では、独立国の本来の領土は信託統治領にはできないことになっていました。米国は当然ながらそのことを熟知しています。従って提案すれば恥をかくだけでと分かっているので、提案そのものをする気は、初めからなかったのです。
13 提案する気がないのに、なぜこのようなことを条文に明記したのでしょうか?
14 米国の本心は、後半の暫定措置を日本政府を含む調印国に認めさせ、事実上の米軍単独の占領を沖縄で継続できるようにすることでした。
15 そのことは、前出の国連への提案は不可能と承知の上だったことと、その提案をいつまでにする、と条文に明記してないことから分かります。こうした前半部分の提案の実行を条約に明記する場合には、いつまでに実行するかの期限も書くのが通例です。
その期限が明記されていないということは、米国が後半の暫定措置の期間を半永久的に延長しても条約違反にはならない、ということになります。
16 こうしたことから、当時の日本の吉田首相たちも、米国側の意図に気づいていたはずです。けれども、日本側は米国の意図を黙認したのです。何しろその米国側による沖縄の軍事支配継続こそ昭和天皇が「天皇メッセージ」で望んでいたことそのものだったからです。
その証拠に、日本政府は1972年5月15日の復帰の日までに、米国政府に第3条前半の実行を申し入れたことは一度もありません。実行できないことを知っていて、申し入れたら米国が困ることが分かっていたからです。
17 その後、米国を政府は昭和天皇と日本政府の暗黙の了解の下に、第3条の暫定措置を最大限に”活用”して沖縄の軍事占領を半永久的に継続し続けることにしたのです。
18 その結果。沖縄はどこの憲法、憲章類を適用されることもなく、人々は無権利状態に放置されたのです。
青信号で横断歩道を渡っていた中学生が米軍トラックにひき殺されても、信号に日の光が反射してよく見えなかったための不可抗力の事故とみなされ、糸満集落内路地を酒に酔って高速で走った米兵の車が、オバアを石垣と車の間で圧死させても、「道が曲がりくねっていたための不可抗力の事故」として、責任を問えませんでした。
このような「虫けら状態」について、日本政府が抗議することはありませんでした。
19 米国に条文前半の実行を求めなかったことを含め、沖縄の人々を無権利の「虫けら状態」に追い込んだ責任の半分は昭和天皇と日本政府にあるのは明らかです。これでは、Nスペが「天皇メッセージ」に深入りしないのも当然と思えるのではないでしょうか。
20 ところで、話は「日本史」教科書の責任という話題にもどりますが、以上の説明から、第3条の”からくり”を暴くには条文の後半部分に触れないわけにはいかないことが、おわかりでしょうか。もし分かって頂けたのであるならば、「日本史」の教科書のこの部分の記述を確認して下さい。
21 すでに明らかにしてあるように、第3条の条文の全文を引用してある「日本史」教科書は皆無です。その一方で、第3条の前半部分だけを引用してある教科書が数冊あります。その教科書の執筆者と編集者は米国の「ペテン」そのままに生徒に信じ込ませようとしていることに気づいていないのでしょうか。米国の”悪意”を知った上でそうしているとまでは、私も思いませんが、このことを私が指摘し始めたのは1970年代の半ばからです。
22 私が言い続けてきた中で、家永氏の『新日本史』が消え、その一方で山川出版の『詳説日本史』の執筆者が伊藤隆氏から加藤陽子氏に交代したあたりから同書に次のような注記がようやく登場するようにはなりました。
「南西諸島・小笠原諸島は、アメリカの信託統治が予定されていたが、アメリカはこれを国際連合には提案せずに施政権下においた。奄美諸島は1953(昭和28)年に返還された。」(2003年度用)けれども、同書の場合も第3条の引用は前半部分だけです。
23 予告通りに長い説明になりましたが、これが復帰前の沖縄を「異民族支配」下で人々が無権利状態という封建時代さながらに放置されることになった経過と、その経過を今なお正確に記述していない「日本史」教科書の実態です。
教科書執筆には様々な制約があることは承知していますが、関係者の皆さんには是非検討をお願いします。
24 沖縄の人々はそのような厳しい状況下で、土地を奪われ、職を奪われるたびに「人間として扱え」と米軍に迫り、抵抗を続けることで国内外の連帯の力も得て日米両政府を追い詰め、1972年5月15日に「日本復帰」を実現させたのです。
25 その「日本」がなお沖縄差別の構造を存続させている責任の一端は、こうした経過をきちんと伝えてこなかった「本土」の学校教育にもあるように私には思えるのです。
26 間もなく戦後沖縄の歴史の節目の日になります。
4月28日=講和条約が発効して、沖縄が「異民族支配」下に天皇と日本政府の合意を得て合法的に切り捨てられた「屈辱の日」
5月15日=沖縄県民が「不屈の闘い」(学校図書「高等学校日本史 改訂版」1986年度用)で、「日本復帰」を実現させ、日本国憲法を無権利状態から自力で獲得した日。
27 沖縄ではこの節目に合わせた授業がいろいろ行われていますが、「本土」ではどうでしょうか。最近の辺野古問題での沖縄の人々の行動,主張の根源にはこの無権利状態から日本国憲法を獲得した体験の継承があることを含め、沖縄と「本土」の関係、沖縄から学ぶことを考える機会にしたい、と思っています。
28 そのための教材として、私は以前から、復帰の日、1972年5月15日の「沖縄タイムス」の特集ページ(日本国憲法の全文を何も解説なしで掲載しているもの)の拡大コピー(B4版8枚の張り合わせ用)を、教材として使いませんかと、呼びかけています。
「復帰の日の朝、配達された新聞に日本国憲法全文を見つけた時に、沖縄の人々はどのように思ったことだろうか?」と、生徒に問いかけてみる授業などに活用して頂ければ幸いです。
*メール便がなくなったので郵送になりますが、入手を希望される方は、なるべく個人メールで宛先の 郵便番号 住所 氏名(フルネームで) をお知らせ下さい。 送料分を頂きます。
以上 文責は高嶋です
*上記の26の節目の日の授業に間に合わせたいと考えたことも、「そのうちに」と思っていたこの説明のメールを急遽アップすることにした理由の一つです。
拡散・転送は自由です
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます