◆ 8/20午後、東京芸大で芸術を考えた
T.T.0563(ひょうたん島研究会)
8月20日(月)昼、夏休みを取って上野に向かう。東京藝術大学音楽学部棟で行なわれる「同学部楽理科」と「自由と平和のための東京藝術大学有志の会」共催の「芸術と憲法を考える連続講座」の9回目に参加するためである。
タイトルは「イメージする。表現する。行動する。~核兵器のない世界へ~」で、話すのは「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」国際運営委員の川崎哲(あきら)と「原爆の図 丸木美術館」学芸員の岡村幸宣(ゆきのり)。
講演の前に2人の対話があり、ICANのノーベル平和賞受賞後、川崎が最初に「核兵器禁止条約」について話したのは丸木美術館だった-という報告があった。
その後、まず、川崎による講演があった。例によってぼくには要約する能力がないので、彼の話の中で最も印象に残った話を、1つだけ書く。それは-。
タイトルは「核の脅威と対峙する芸術~空想非核芸術美術館~」で、「広島への原爆投下直後」から「福島原発事故後の現在」までの美術上の動きを、絵や写真の話を中心に、解説してくれた。またまた要約などできないので、印象的だったことを、1つだけ書く。それは、「絵と写真の違い」について。
T.T.0563(ひょうたん島研究会)
8月20日(月)昼、夏休みを取って上野に向かう。東京藝術大学音楽学部棟で行なわれる「同学部楽理科」と「自由と平和のための東京藝術大学有志の会」共催の「芸術と憲法を考える連続講座」の9回目に参加するためである。
タイトルは「イメージする。表現する。行動する。~核兵器のない世界へ~」で、話すのは「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」国際運営委員の川崎哲(あきら)と「原爆の図 丸木美術館」学芸員の岡村幸宣(ゆきのり)。
講演の前に2人の対話があり、ICANのノーベル平和賞受賞後、川崎が最初に「核兵器禁止条約」について話したのは丸木美術館だった-という報告があった。
その後、まず、川崎による講演があった。例によってぼくには要約する能力がないので、彼の話の中で最も印象に残った話を、1つだけ書く。それは-。
「核兵器禁止条約」については、昨2017年の3月末から「交渉会議」が行なわれ、昨年7月7日、国連で採択された。次の岡村の話も面白かったな~。
この採択がされるずっと前から、私たちICANは条約を作ろうと頑張っていたのだが、「そんなの無理!」という声が寄せられていた。
実は、「対人地雷禁止条約」や「クラスター爆弾禁止条約」が採択される前も、同様のことが言われた。
そのような言葉であきらめて何もしなければ、条約ができるはずはない。
そうした声を乗り越え地道な活動を続けた結果として、「核兵器禁止条約」も採択されたのだ。
タイトルは「核の脅威と対峙する芸術~空想非核芸術美術館~」で、「広島への原爆投下直後」から「福島原発事故後の現在」までの美術上の動きを、絵や写真の話を中心に、解説してくれた。またまた要約などできないので、印象的だったことを、1つだけ書く。それは、「絵と写真の違い」について。
おそらく広島原爆を描いた最初の絵は、福井芳郎が描いた「昭和20年8月6日午前9時於福島町」(TT:まったくの偶然だろうけど、「福島町」か・・・)。その他、「Chim!Pom」の「広島の空をピカッとさせる」や水木しげるの「パイプの森の放浪者」の話も面白かったが、割愛する。(2018/08/21)
この絵のことを知ってる人は、ほとんどいないと思う。
最初の写真は、松重美人の「御幸橋、8月6日午前11時すぎ」。
有名な写真なので、知ってる人も多いと思う。
写真は、その場にいないと撮れない。
絵は、後から記憶で描くことができる。
丸木美術館でいえば、1950年に丸木位里・赤松俊子が描いた「原爆の図第2部~火」。
2人は、この絵に描かれた現場にいたわけではない-というか、現場にいた人で生き残った人はいない。
この絵が描かれた1950年はまだ米軍占領下で、原爆について、広く報道することはできなかった。
位里&俊子も、自分たちで3枚の「原爆の図」を持ち、全国行脚したのだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます