内容(「キネマ旬報社」データベースより)
日本曹洞宗の開祖・道元の生涯を描いた歴史ロマン。幼くして母と死別した道元は仏道の正師を求めて入宋、如浄禅師の下で修業を積むことに。ある夏の夜明け、ついに悟りを得た道元は日本に帰国し、真の仏法建立に邁進する。
自分は無神論者で、無宗教です。
ちょっと前の自分は、無神論者と無宗教という言葉を同じものとして言っていました。最近、神を信じる信じないということと、宗教とは別のものなのではないかと思うようになってきました。実際に、宗教の教えがどうかとかわからないので、自分の感覚としてしか言えないんですが・・・
神の存在自体は自分は今でも絶対否定です。これは、絶対に変わらないと思うんですけど、宗教というものに関しては、ちょっと見方が変わってきました。
宗教というのは、人のあり方、人の生き方の模索の道なのかな・・・と思ったのです。
この映画を見ても、道元は、死にかけた子どもを手かざしで治しちゃうわけでもなく、祈って雨を降らすでもなく、現象としての奇跡を起こすようなことはしていません。
子どもをすくう道が一つだけある。身内で誰も死んだことがない家を見つけて、そこで豆を一粒もらってきて食べさせればいい。というのです。
そんな家がどこにもないことは少し考えればわかることなんですが、自分は、何で道元がそれを言ったのか、わかりませんでした。母親は、必死に探しますが、当然見つかるはずもなく、その子は死んでしまいます。母親は「身内で死んだ人がいない家なんてあるはずないじゃないか!たましやがったなこの野郎!!」(セリフは映画とかなり変わっちゃってます)と、道元を責めますが、そこでお弟子さんが言った言葉はとても現実的な言葉でした。「それをあなたに教えるために言ったのです。」なるほど!身内が死ぬというつらい経験を人間は誰でも経験しなくちゃいけなくて、それを受け入れることをおしえてくれたのか!!と、妙に納得してしまいました。
時頼のときの、権力を手放せといったのもなるほどでした。
あと、「入滅」という言葉がとても印象にのこりました。
死後の世界への救いというか、甘えがない言葉な気がしたのです。しかもその滅びを悲観的に表しているわけでもなくて、「入」という表現がとてもいさぎよい感じがしました。人間の肉体の滅び、自分の存在の消滅が消えるんじゃなくて、存在が形を変えて世界には残っているような不思議な響きを感じます。
なるほど、人間の死後の世界は、自然に還るということなんでしょう。
あ、でも、この映画が、入滅について、人の死について、うんだらいっているわけではないのです。ただ、「入滅」という言葉を聞いて、その言葉がずっと頭の中に残ってしまいました。(今の自分の頭の中は、リボンの歌がぐるぐるしてますが…)
死ぬこと自体も、誰もが経験することで、それ自体、実は怖いことではないし、自らの死を受け入れることも大事な気がしました。
そんなこんなで、一つ一つの話は、人としての生きる道を考えさせてくれた気がしたのです。
でも、映画のつくりとしては、あまり好きじゃないです。
オープニングの退屈な親子の会話、いきなりこの宗教の核心みたいな会話をズバリしちゃって、月をやけにおっきくしちゃったり、首がずらっと並んでいる風景とか、時頼の周りをクビがぐるぐるとんでるところとか、凝り過ぎて違和感があるところがあったり、庶民の人が不自然で、町の様子もダメダメな感じです。みんな一生懸命、町の人1町の人2をそれっぽくやっている感じがすごく嘘っぽい。おりんの夫婦の会話も、きいてて恥ずかしくなっちゃったり…
そういった風景を自然に見せるには、やはり計算しないとだめなんだろうと思いました。そして、監督自身が、その町の空気を出すためにどうするのか、お金も時間もかけてやらないといけないんだろうけど、そういうシーンは道元とは全く関係のないシーンなので、手抜きされちゃうのかもしれません。
でも、そういうところを手抜きするとどうなるか、その道元が生きていた世界の空気が伝わってこないんですよね。いい話を結果的に、中途半端にしてしまうのは、そういう表現力なのかもしれません。
あの映像を見ても、はい、けんかがおきるでしょう?強盗も出るでしょう?女も強姦されるでしょう?はい、この町は荒んでいます。はい、一応画面に入れておいたから、状況わかるでしょう?って感じですもんね。
それを、その町の空気で見せてもらわないと。道元の生きた道が実ははっきりしてこないんじゃないのかな?
お寺の中の修行風景とかは、本当のお坊さんがやっているのではないか。と、修行に行ったことのある人が言ってました。寺の中に入ることなんて簡単じゃないから、曹洞宗の全面協力で撮っているんじゃないかと。