「わたしたちは自分では何が益になるのか分からず、自分を優先するとき、限界のある、弱く、不完全なものを選んでいる」
(万事がわたしの益となるように ゴング長老)
福音に出会った頃のわたしの信仰は‟自分の思いの範囲内”にありました。
できる、できないを自分の思いで判断するのです。
そのために信仰にも限界がありました。
そんな信仰をダメというつもりはありません。
普通の人は大抵、そこからスタートするのではないでしょうか。
でもいつか、その先に進むか否かを試されるときが来ると思います。
自分の思いの範囲内で留まる人もあります。
主を信じて一歩を踏み出す人もあります。
「何が益になるのか」を信じる必要がありそうです。
(万事がわたしの益となるように ゴング長老)
福音に出会った頃のわたしの信仰は‟自分の思いの範囲内”にありました。
できる、できないを自分の思いで判断するのです。
そのために信仰にも限界がありました。
そんな信仰をダメというつもりはありません。
普通の人は大抵、そこからスタートするのではないでしょうか。
でもいつか、その先に進むか否かを試されるときが来ると思います。
自分の思いの範囲内で留まる人もあります。
主を信じて一歩を踏み出す人もあります。
「何が益になるのか」を信じる必要がありそうです。