書評 私家版ユダヤ文化論 内田 樹 著 文春新書519 2006年刊
著者がユダヤ人について長年研究してきたことについて「なぜユダヤ人は嫌われるのか」について焦点を当てて解説したものです。その点題名の「ユダヤ文化論」というのには異論があって、ユダヤ文化についてはほとんど論じられておらず、巻頭言で著者本人が述べているように「ユダヤ人がなぜ迫害されるのか」「迫害されても何故変わらないのか」について縷々解説されています。もっとも私を含むほとんどの日本人にとって「ユダヤ文化」なるものには興味はないのであって、ユダヤ人について知りたいことは「何故嫌われるのか」という問題に尽きると思われるので、この本は読者の要求を十分満たすものだろうとは思います。
ただ著者のブログや前に紹介した「日本人辺境論」で見られるような明快で洒脱な論理展開がやや押さえられて、慎重で回りくどい言い方になっていることは「ユダヤ人迫害」という重いテーマを扱うことと氏の恩師であるエマニュエル・レビナス氏がユダヤ人であって大きく影響を受けてきたことに関係しているように思いました。
第一章の「ユダヤ人とは誰か」について、氏が言うように厳密な定義は民族、宗教、思想どの点からも不可能で、「非ユダヤ人でない人がユダヤ人だ」という回文のような説明になっています。しかし「軽重を問わずユダヤ教を信じてしかも血縁にユダヤ人がいる人」をユダヤ人と言っていれば私がアメリカに住んでいたときの周りのユダヤ人の定義から考えても間違いではないと思いました。ユダヤ人はユダヤ教の祭日には仕事を休みますし(キリスト教の祭日にも出てきませんが)、クリスマスはハヌカ祭をするので自然と解ります。
第二章、日本人とユダヤ人は今でも時々日本の古代遺跡などにユダヤ教的な名前がついた場所があるなどと騒がれる日ユ同祖論の紹介で、氏は明治時代、日本が大きく西洋のキリスト文明から遅れていたことの反証として、キリスト教の上をゆくユダヤ教と日本の神が同祖であると主張して日本の優位を保とうとしたのではないか、と興味深い考察がなされています。
第三章の「反ユダヤ主義の生理と病理」は、資本主義の発達とともにユダヤ人が多い経済人が社会を支配するようになったことの反発がエデュアール・ドリュモンのフランスの民族主義と結びついて反ユダヤのファシズムに発展してゆく過程を解説したものです。反ユダヤがヒトラーの専売特許ではないことが解ります。なお私は中世古代の反ユダヤの歴史は大澤武男氏の著作が解りやすいと思います。
第四章「終わらない反ユダヤ主義」では迫害されてもなぜユダヤ人が変わらないのかについて考察されているのですが、著者はその理由として二つの説をあげています。一つはサルトルの「ユダヤ人達が生き延びるために獲得してきた様々な習慣や特性がその他のまわりの人たちから傑出させ、同化させない状況を結果的につくらせてしまったのだ」というもの。そしてもう一つは師であるレビナスが唱えた「ユダヤ人が宿命的に迫害を受ける受難を神から与えられているから」(言い換えると神に選ばれた民族であると思い続けているから)ということです。本においては論理の展開上「何故ユダヤ人の知性は優れているか」の答えとして述べているのですが、本来の問いは何故迫害されるのかの方だと理解します。
「ユダヤ人は何故嫌われるのか」とグーグルで検索すると小生のブログもヒットするくらい、私もその件については以前から関心を寄せていたことは間違いないのですが、ユダヤ人が知性や芸術的才能に優れているだけならば迫害されることはないはずで、地域に根ざした各民族の生活からは突出した経済的地位を現在も含めてユダヤ人達が築いてきたこと、それが地域に根ざした各民族の生活を脅かす存在に結果的になったことが少なくとも近世においてユダヤ人迫害の根本原因になったのではないかと思います。現代においてはユダヤ人が中心となっている経済の繁栄がグローバリズムにつながっているわけです。だから「反ユダヤ人」という人を対象とした非難でなく反グローバリズムという「主義・思想を非難するものであればそれは健全なものであり、遠慮する必要もないものだと言えます。私は反グローバリズムです。
この本は著者自身「読者の方は良く解らないでしょう」と彼らしい言い訳が繰り返し出てくるのですが、その通りすっきりしない内容ではあります。しかしユダヤ陰謀論的なまがまがしい説が存在するなかで、ユダヤは何故嫌われるのかを正面から扱って、学問的客観的解説を試みた良書であることは間違いないと思いました。
著者がユダヤ人について長年研究してきたことについて「なぜユダヤ人は嫌われるのか」について焦点を当てて解説したものです。その点題名の「ユダヤ文化論」というのには異論があって、ユダヤ文化についてはほとんど論じられておらず、巻頭言で著者本人が述べているように「ユダヤ人がなぜ迫害されるのか」「迫害されても何故変わらないのか」について縷々解説されています。もっとも私を含むほとんどの日本人にとって「ユダヤ文化」なるものには興味はないのであって、ユダヤ人について知りたいことは「何故嫌われるのか」という問題に尽きると思われるので、この本は読者の要求を十分満たすものだろうとは思います。
ただ著者のブログや前に紹介した「日本人辺境論」で見られるような明快で洒脱な論理展開がやや押さえられて、慎重で回りくどい言い方になっていることは「ユダヤ人迫害」という重いテーマを扱うことと氏の恩師であるエマニュエル・レビナス氏がユダヤ人であって大きく影響を受けてきたことに関係しているように思いました。
第一章の「ユダヤ人とは誰か」について、氏が言うように厳密な定義は民族、宗教、思想どの点からも不可能で、「非ユダヤ人でない人がユダヤ人だ」という回文のような説明になっています。しかし「軽重を問わずユダヤ教を信じてしかも血縁にユダヤ人がいる人」をユダヤ人と言っていれば私がアメリカに住んでいたときの周りのユダヤ人の定義から考えても間違いではないと思いました。ユダヤ人はユダヤ教の祭日には仕事を休みますし(キリスト教の祭日にも出てきませんが)、クリスマスはハヌカ祭をするので自然と解ります。
第二章、日本人とユダヤ人は今でも時々日本の古代遺跡などにユダヤ教的な名前がついた場所があるなどと騒がれる日ユ同祖論の紹介で、氏は明治時代、日本が大きく西洋のキリスト文明から遅れていたことの反証として、キリスト教の上をゆくユダヤ教と日本の神が同祖であると主張して日本の優位を保とうとしたのではないか、と興味深い考察がなされています。
第三章の「反ユダヤ主義の生理と病理」は、資本主義の発達とともにユダヤ人が多い経済人が社会を支配するようになったことの反発がエデュアール・ドリュモンのフランスの民族主義と結びついて反ユダヤのファシズムに発展してゆく過程を解説したものです。反ユダヤがヒトラーの専売特許ではないことが解ります。なお私は中世古代の反ユダヤの歴史は大澤武男氏の著作が解りやすいと思います。
第四章「終わらない反ユダヤ主義」では迫害されてもなぜユダヤ人が変わらないのかについて考察されているのですが、著者はその理由として二つの説をあげています。一つはサルトルの「ユダヤ人達が生き延びるために獲得してきた様々な習慣や特性がその他のまわりの人たちから傑出させ、同化させない状況を結果的につくらせてしまったのだ」というもの。そしてもう一つは師であるレビナスが唱えた「ユダヤ人が宿命的に迫害を受ける受難を神から与えられているから」(言い換えると神に選ばれた民族であると思い続けているから)ということです。本においては論理の展開上「何故ユダヤ人の知性は優れているか」の答えとして述べているのですが、本来の問いは何故迫害されるのかの方だと理解します。
「ユダヤ人は何故嫌われるのか」とグーグルで検索すると小生のブログもヒットするくらい、私もその件については以前から関心を寄せていたことは間違いないのですが、ユダヤ人が知性や芸術的才能に優れているだけならば迫害されることはないはずで、地域に根ざした各民族の生活からは突出した経済的地位を現在も含めてユダヤ人達が築いてきたこと、それが地域に根ざした各民族の生活を脅かす存在に結果的になったことが少なくとも近世においてユダヤ人迫害の根本原因になったのではないかと思います。現代においてはユダヤ人が中心となっている経済の繁栄がグローバリズムにつながっているわけです。だから「反ユダヤ人」という人を対象とした非難でなく反グローバリズムという「主義・思想を非難するものであればそれは健全なものであり、遠慮する必要もないものだと言えます。私は反グローバリズムです。
この本は著者自身「読者の方は良く解らないでしょう」と彼らしい言い訳が繰り返し出てくるのですが、その通りすっきりしない内容ではあります。しかしユダヤ陰謀論的なまがまがしい説が存在するなかで、ユダヤは何故嫌われるのかを正面から扱って、学問的客観的解説を試みた良書であることは間違いないと思いました。