rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

仮面初老期うつ病

2010-07-16 21:11:16 | その他
男女を問わず人は誰でも50歳の声を聞く頃になると体力、知力、気力、性欲の衰えを感ずるものです。この衰えはなだらかな坂をゆっくり下るように自覚するのではなく、何かの拍子に階段をがたんがたんと降りるように「あれ、自分はこんなに駄目なんだ。」という風に自覚してゆきます。

人間は年を経る毎に時を短く感ずるものですが、私も日々やっている仕事は30代とあまり変らない臨床医療ですから、気持ちの上でも30代の頃と同じように仕事をしているつもりなのですが、夜中の当直仕事の後や大きな手術の後に疲れがどっと出たり、以前は昼寝などしなくても同じ調子で仕事が続けられたのに夕方30分位長イスで横になって休まないと緊張が続かなくなったりして、「ああ、年を取ったんだ。」と改めて自覚します。

この階段状にがたんと衰えを自覚するのはけっこうショックというか精神的にしんどいものですが、何とも言えない「喪失感」というか100あった自分が90になり80になりだんだん減っていってしまうことを精神的にうまく処理して受け入れることは実は難しい問題と言えます。特に若い頃誰よりも精力的で自分は他人より優っていると考えている人ほど、衰えてゆく自分を受け入れることは難しいようです。

この喪失感が受け入れられないと「うつ状態」になってしまい、抜け出すことが非常に難しくなります。なんせ若返ることは不可能で「あるがままの自分」を受け入れることのみが唯一の解決法なのですから。

時には「うつ状態」にはならなくても病気恐怖症とか他の一見どうでもよいことに執拗にこだわってしまう神経症(ノイローゼ)状態になってしまう人もいるようです。私は精神科医ではないので正しい言葉遣いか解りませんが、初老期うつ病がそのような変質した形で出ている場合を「仮面初老期うつ病」と呼ぶ事にします。

私は軽い人も含めればけっこうこの「仮面初老期うつ病」の人は多いのではないかと普段思います。私ですか、私はごく軽い初老期うつ病にいつも罹っていると思っています。まあ今の世の中「いつもご機嫌」などという方が却って異常と言えるかもしれませんが。「まだまだやれる」と励ます自分と「まあこんなものか」と現状を受け入れる自分が交互にやってきます。

先日も食事を始めようとした所で大学時代の友人から電話がありました。彼は軽い糖尿病なのですがコントロールは極めて良く網膜症や腎障害などの心配はない(と自分でも医者の目から見れば解っているだろうに)にもかかわらず、私に細かな検査値の軽い異常についてどうすれば良いかとしつこく聞いてきます。「問題ない」と言えば「本当か」と信用せず、「それは大変」などと言おうものなら「どうすれば良いか」としつこく聞かれることが解っているので心理戦になります。度々長い電話がかかってくるので家族も「大変ね」みたいな感じで横で聞いているのですが、いろいろ細かいことを総合してまとめると「若い頃のようにうまく行かない」というのが根本的な彼の悩みのようで、「70まで今の収入で仕事を続ける自信がない」ということを言いたいようなのです。「おいおい、わたしゃ60まででも自分の体力では無理だろうと思っているのに」と言うのですが若い頃スポーツマンでならした彼には自分の状態が納得ゆかないようです。

老いの喪失感を受け入れるのは「共に語れる気の置けない友人」であったり「善き伴侶」であったり「飲み屋のママ」だったりするのでしょうが、自分なりにそういった相手を見つけておくことは人生においてかなり重要なことだろうと思います。現代は生の会話よりもメールや携帯での間接的なコミニュケーションが多くなってきて、また家族の連帯も希薄になってきています。若い人が老人と共に住み語る機会も少なくなってきており、これらの個の断片化とでも言う事態が中年を含めた世の中の「うつ傾向」に拍車をかけているように感じます。

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