映画『コッポラの胡蝶の夢』(原題Youth Without Youth)は、2007年のアメリカ・ドイツ・イタリア・フランス・ルーマニア映画。原作はミルチャ・エルアーデの小説『若さなき若さ』。監督、脚本はゴッドファーザーや地獄の黙示録のフランシス・フォード・コッポラで、主演はあまり有名でないティム・ロス(ドミニク)、アレクサンドラ・マリア・ララ(ラウラ、ヴェロニカ)
ストーリーは、1938年、70歳の言語学者ドミニクは、自身の言語学の研究も未完のまま、「別の世界にあなたは生きている」と言われて別れたラウラを忘れられない孤独な日々を送っていた。ある復活祭の日、彼は突然雷に打たれ病院に収容され奇跡的に一命をとりとめる。しかも驚異的な頭脳と若き肉体に復活し、しかも手に取った本の内容を直ぐに理解するといった超常的な能力まで獲得してしまう。
1955年.ラウラに生き写しのヴェロニカと出会うが、自分と同様に落雷に遭った彼女は、1400年前インドに住んでいたルピニの知識を得て、サンスクリット語で話すようになっていた。彼らは「輪廻転生」と騒がれるが、ドミニクは彼女の力で自分がなしえなかった言語の起源を探究する研究を達成しようとする。しかし若返る自分と異なり、早老化してゆく彼女を救うために自分が彼女から離れる決断をし、故郷で自分を導く鏡の分身を壊すことで本来の年齢に戻って雪の中息絶える。
1969年、故郷のブカレストのカフェに行き、友人たちに荘子の「胡蝶の夢」(夢と現実の堺がない話)を語る所から邦題がつけられました。
主人公ドミニクはラウラとそっくりのヴェロニカと出会い夢のような日を送るが
SF的なストーリーを理解することは困難ではないのですが、監督脚本を敢えてコッポラ本人が手掛けて、私財を投じてこの作品を作ったコッポラの狙いは何であったかは難しい問いであると思います。主人公のドミニクの様に自分のやりたい事を若返ってやり直したいという欲望のようにも見えますが、その解釈ではやや弱い。私はコッポラ流の世界における真善美の意味表現であったように感じました。奇才スタンリー・キューブリックは、彼の世界における真善美の意味を映画「バリー・リンドン」で表現したと前に論考しました。キューブリックは真(宗教)、善(バリーの生き方)、美(映像)をこの映画で表現したのですが、コッポラは真(ドミニクが追求した学問)、善(人類が核戦争で滅びて新しい人類となってより高いステージに上るという未来予知を伝えるべきかで悩む)、美(ラウラ、ヴェロニカへの愛情)という内容を描いています。
学問について ドミニクは言語の起源、紀元前のエジプト、インカ、メソポタミアなどの言語まで理解するに至り、もう少しで自分の研究を極める所まで行きますが、ヴェロニカへの愛情(美)を優先させることで断念します。
善について ドミニクは未来を正確に予知する能力を得て、人類の未来を解読不能(将来コンピュータの発達で解読できるようになるだろう)の文字で記述し、某所に保管します。これは未だに解読不能とされる奇書「ヴォイニッチ手稿」を連想させる描写であり、 謎のイラストとして紹介されているものにも通じます。ドミニクは人類が核戦争で一度滅びて(第六の絶滅と表現しているー第五は恐竜の絶滅)新しい人類に昇華するという未来を「進化のために善である」という自分と、「多くの罪のない人が死ぬ事は善ではない」というもう一人の自分の板挟みにあって悩み、結局答えは出ずに終わります。キューブリックにとってもそうであったように、コッポラにとっても「善」とは移ろいやすい物という結論なのでしょう。
美について これはキューブリック同様「変わらない物」「真よりも優先される物」としてコッポラはとらえたように思います。ラウラを思い続け、ヴェロニカへの愛情で学問を捨てるという決断、雪の中で息絶えたドミニクの安らかな瞳は、胡蝶の夢で夢と現実を行き来しながらも、美を追求できたという満足を表していたように感じました。
記事に対する感想)
先生って風変わりな医師(科学者)だなぁ……という思いと伴に「王道だなぁ」と感じました。前々から感じていましたが。ロジカルで長距離走できる頭脳という点ではメロンぱんち様に似てます。似ているが、……バート・レイノルズとクリント・イーストウッドが共に「タフな男」を演じながら、まるで持ち味が真逆なように異なる。…と感じる。
普通は科学者はこういう抽象的な世界(美)みたいな話は避けると想うのですね。が、恐れない。それは何か芯をお持ちだからだと思うのです。
先生は時に手厳しい。それ故に反発しもしたのですが、緊急時代宣言で妻と水杯した時に、先生が正しいと感じました。
今、ここで覚悟せずに何時にする??
人は最後まで闘わねばならない。たとえ助からなくとも、最期の一秒まで。それが産まれてきた運命と闘うという事ですから。(自死や安楽死については除外します。それは簡単に答をだせる問題ではないので)
高みをめざせという先生の言葉に反発して、手抜きも騙しもプロには必要だ!と書いた事柄あります。だが、それも今ではゲリラのごとく「移動しながら休息する為」であると考えており、一歩でも半歩でも…という気概を持たねばなりません。でないと人生がつまらないから。
これは観てからのお楽しみにしますが、評論記事で、気になったコッポラの姿勢について。
プロテスタントなのですかね?
どうも主役は0か1かの有無で運命が決まる!と考えている節が見えます。これ、トランプが強気に出る背景だと考えないいるのですが……プロテスタントは「運命がきまっている」と考えるようで。神のノートに全てが記載されてる。つまり運動は変えられない。一見すると運命論者ですが、これこそが福音派を多数とするアメリカ人の信仰の強味で。
運命の書かれたノートは人には読む事ができない。それ故に、「自分は最終勝利者である」と信じて突き進むしかない。ノートンに勝者として記録されているはずだ!
だからプロセスを無視して、やっても良い!になる。
東洋というか易などは違うあのですね。易経にせよ、四柱椎命にせよ、八門遁甲にせよ、中医学や中国武術にせよ、
「陰陽」が根本にある。
陰陽は原子論や元素論とちがい「流転」します。万物が流転を基礎にしている。なので「運命は変えられる」を基本にしているのですね。美と真の板挟みになり、それなら死ぬ気で
第三の道を模索する気持ちはないのか?と想うてしまう。
そこが、これから視聴する時に観察してみたい部分です。
先生の記事から興味を持った部分です。
私がクリスチャンから多神教へ改宗したせいかも知れませんし、東洋医学を実施してきたからかも知れませんが。
ならば皇統護持作戦を計画した中野学校生が、筒抜け暗号を使う訳がない。するとG2には理解できない暗号化する。
だから易経や九星気学や八門遁甲であろうと。諦めてはいません。では。
自分のやりたい事は私の模型作りもそうですが、体力と健康があるうちにやっておく(やろうと心がける)事が大事ですね。