rakitarouのきままな日常

人間様の虐待で小猫の時に隻眼になったrakitarouの名を借りて政治・医療・歴史その他人間界のもやもやを語ります。

映画 ブリキの太鼓 感想

2018-10-29 16:36:09 | 映画

映画 ブリキの太鼓 1978年 西ドイツ・フランス 監督フォルカー・シュレンドルフ 原作ギュンター・グラス 主演ダフィト・ベネント(オスカル)

 

 戦争物っぽいけど今まで見れなかったこの映画を見る機会がありました。エログロ描写が強いという評判もありますが非常にインパクトのある印象的な作品でCGなどを駆使した昨今の映画よりもよほど考えさせる内容だと思いました。元々ノーベル賞作家のギュンター・グラスのやや自伝的な小説が元になっていて、小説を読むと印象が変わる可能性がありますが、3章まである原作を敢えて2章で終了させた意図もあったはずであり、映画を見ての感想を記しておきたいと思います。

 

ブリキの太鼓を叩くオスカルの有名なシーン          大人の欺瞞をしっかり見せつけられていよいよ不審がつのる

 

 主人公のオスカルは胎児の時から記憶がある、という設定で、大人の世界の欺瞞に嫌気がさして自分が三歳の時にわざと階段から転落した怪我が元で成長が止まったことにしたが、自分の意思で成長することをやめたことが語られます。3歳の誕生日にブリキの太鼓を貰うのですが、その太鼓を叩きながら大声を上げると、ガラスが壊れるという技が備わっている事が示されます。この技はオスカルから太鼓を取り上げて大人として成長させようとする周囲の試みを悉く失敗させる武器になります。オスカルが生きていた都市ダンツィッヒはポーランドにありながら国際自由都市として、ドイツ人、ポーランド人そして祖母が属したカシュバイ人たちが共存する町でしたがナチズムの浸透と戦前のドイツの国力増大に伴って街全体がナチズムに染まって行きます。この映画は反ナチズムが主題かというとそうでもなく、不倫や性の乱れ、政治的な大人社会の欺瞞全体に対する子供心からみた否定、というのが主題になります。オスカルは身体の成長は3歳で止めるのですが、精神の成長は年齢相応に進んで行きます。年頃になると小児の時に拒否していた「大人の性」にも目覚めて行く所が面白いです。精神的には少年のオスカルはそれを否定するかのように3歳の時にもらった「ブリキの太鼓」を手放さず叩き続ける事で周囲には子供のままであることを主張するのですが、サーカス団の小人芸人のベブラ師にだけは全てを見透かされています。小説では判りませんが、彼の存在がこの映画では大きな意味を持ってきます。3歳でオスカルを認めたベブラ師は自分が53歳であることを語り、「自分は10歳で成長を止めたけれど最近の子供は3歳で止めるのか。」と喝破します。数年後ドイツ軍の慰問団としてオスカルと一緒にパリやフランスの前線を周り、戦局の悪化とオスカルの恋愛対象である小人のロスビータの死亡で慰問団を解散してオスカルと別れることになるのですが、「大きな大人の言う事は信用するな。」と言い残して去って行きます。このベブラ師は成長を止めたオスカルが老成した時の完成形として描かれていたように思います。彼との生活、愛したロスビータの死を経て、最終的にナチスに傾倒した父親がソ連兵に殺されたことをきっかけにオスカルはブリキの太鼓を捨てて再び成長することを開始して、戦後の西側世界(米国とは描かれない)に向かって旅立つ所で映画は終了します。

 

ドイツ軍への慰問団での様子 ベブラ師との邂逅にその後の生活への意味が

 原作の小説が単純明快ではないから、映画もインパクトの強い場面が多く、筋を追ってゆくだけで大変で一体何を描きたかったのか後から考えないと理解できない感じです。田舎の農民の女性が4枚のスカートを履いていてその中が小さい世界として描かれる、性の描写も生々しく、馬の首で沢山のウナギを取るシーンや母のアグネスが生魚を次々に頬張って死亡する所など評者によっては「臭気」を見る者に想像させる強い描写力と表現され、その通りと思います。カメラの視点は3歳児のオスカルの低さであるし、時々映像自体が手ぶれしていてオスカルの視点そのものであることも感じさせます。ナレーションも大人びた少年オスカルの視点と声で語られるのですが、見るものはオスカルに「ある種の狂気」を感じ続けるので感情移入はできない状態が続きます。ただ狂気の程度が完璧ではないので「時代の狂気」と「オスカルの狂気」が同じ程度のように見えてしまう所が絶妙です。だから戦争が終わるとオスカルの狂気も終わるような造りが成立したのだと思います。小説では戦後、殺人事件に巻き込まれて精神病院に入ることになり、そこで若き日々を語るという設定で物語が進むようですが、映画の設定の方が判り易いです。私はこの「時代の狂気」と「オスカルの狂気」が同じ位であったこと、というのがこの映画の主題だったのではないかと思います。つまり反ナチズムや反戦といった判り易いテーマではなく、戦後も含めた「大人社会とされるものの欺瞞」が「オスカルの狂気と同じ程度」だろ、という多分単純好きのアメリカ人には理解できないドイツ人らしいこねくり具合が奴ら(ドイツ人)らしいなと感ずるのです。ちなみに物語の語り始めからオスカルが正気になってからもずっと慕い続ける祖母は祖国を持たないカシュバイ人なのですが、現在のドイツ首相メルケルも祖母はカシュバイ人であるとwikiにも記されています。一方ナチス時代には大道芸人、ロマ、小人、ジプシーといった人達は迫害の対象だったのでこのような慰問団というのが優遇されていたのかやや疑問です。一方現在のウクライナ政変の原動力になったのは反ソ連を主導した当時のナチズム党員達が元になっていることなど、東欧の民族問題の複雑さを感じます。そういった複雑さ全てを欺瞞として否定する「オスカルの潔さ」がある種の魅力として感じてしまうのかも知れません。


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4 コメント

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評論に納得しました (山童)
2018-10-31 12:20:18
先生おひさしぶりです。
「大人社会の欺瞞」と「主役の狂気」が同重量であろうとの評論をです。おそらく時代の狂気もevenと私は思います。
実際、戦間期は日本でも西欧でも狂気が荒れ狂いましたし、ロシア革命後の内戦、清朝崩壊後の軍閥乱立から日中戦争。
さして文明そのものが変わる時期です。
フォードの自動車大量生産成功、蒸気やガス灯から電気と石油へ。科学が発達する反面でナチスの民族科学や日本の竹内文献よろしく擬似科学が流行る。
マルクス主義史観の歴史屋でも、この時代の狂気は半端でないと断言します。
なので、映画が終戦で終わる理由への解釈も理解できました。
私がこの映画を観たのは冷戦時代、レーガン政権下であり、小説を読んだのはソ連崩壊後になのです。ですので、何故に戦後を入れないのか
不思議ではあったのです。
そういう意味で楽しめた記事でした。評論に対して楽しめたというのも変ですが。
謎解きは好きですので。では。
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映画と小説 (rakitarou)
2018-10-31 13:06:51
山童さん、コメントありがとうございます。私も機会があれば小説も読んで比較してみようと思います。ファンタジーなものを除いて小説と映画(映像)は比較的同じであるか、より映像の方が判り易くなっている場合が多いようですね。「戦争と平和」は映画化された次期にもよるようですが、一寸違うなという評判があるようです。そのような比較も興味深く、映画を見る楽しみと思います。これからも宜しくです。
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はじめまして (かたつむり)
2018-11-08 21:01:42
たまたまこの記事にたどり着いた者です
ギュンターグラスのダンツィヒ三部作は忘れられない作品です
当時の街並みの雰囲気が良く出てて映画もそれを大切にしてたように思います
「犬の年」は「ブリキの太鼓」以上に忘れられないアイデアと悲哀に満ちています
分厚くて図書館でも書庫に眠ってるような本ですがもし機会がありましたら是非
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やや難解 (rakitarou)
2018-11-09 07:49:03
かたつむりさんコメントありがとうございます。
この作者の作品はドイツ人らしいやや難解な所があるように思うのですがそれだけ味わいがあるのだろうと思います。ドイツの街並みもミュンヘンとベルリンでは違いますし、未踏ですが東欧はまた味わいが違うのだろうと思います。少し時間をかけて読んでみたいと思います。ありがとうございました。
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