2023年11月29日、米国の歴代大統領に仕え、米帝国の外交を牽引してきたヘンリー・キッシンジャー氏が100歳で亡くなった。冷戦期の米国政治を政権の影で牽引し、引退後も世界の動きに影響を及ぼしてきたと言われます。副島隆彦氏の分析では、トランプの大統領就任にも一役買っていたと言います。ウクライナ戦争では和平か戦争継続か、どっちつかずの態度でしたが、日本にもたびたび現れて時の首相に種々指示を出し、日本の政治にも多くの影響を与えたと考えられます。彼の政治的軌跡について、改めてMiddle East Eye誌にコロンビア大学アラブ政治思想史教授のジョセフ・マサド氏が「ヘンリー・キッシンジャーの残忍な遺産」という寄稿をしていたので備忘録的に日本語要約を記します。
(引用開始)
ヘンリー・キッシンジャーの残忍(murderous)な遺産
ジョセフ・マサド 2023年11月30日
1)キッシンジャーの非道徳的で大量虐殺につながる犯罪は、彼が生涯を通じて奉仕してきた米国エリート層の忠実な代表であったことを明らかにした。
2020年ベルリンの式典に出席したキッシンジャー氏
1923年5月27日にバイエルン州フュルトのドイツ系ユダヤ人家族にハインツ・アルフレッド・キッシンジャーが誕生したが、水曜日に100歳で亡くなった。1938年、15歳の時に彼と家族はナチスから逃亡した。水晶の夜の前にドイツからニューヨークへ。青年期のハインツが、重いドイツ訛りを残しながら米国でヘンリーになったとき、彼が大人になって何十万人もの人々の殺害を命令し、その結果億万長者になるとは誰も予想できなかっただろう。
1943年、20歳のキッシンジャーは米陸軍に徴兵されドイツ語が堪能だったため、陸軍情報部で占領下のドイツにおける非ナチス化を担当した。
戦後、キッシンジャーはハーバード大学に通い、1950年に政治学の学士、1954年に博士号を取得した。1952年にまだ在学中、 1951年にホワイトハウスが対アメリカ政府の宣伝活動のために設立した米国政府の心理戦略会議で働いた。これは米国と「民主主義」を支持し、共産主義に対抗するための委員会であった。米国と中ソの代理戦争で朝鮮半島で何百万もの犠牲者を出した朝鮮戦争の最中でのことだった。
2)キッシンジャーは、国際秩序の正当性には大国の合意のみが必要で道徳は無関係であると主張した
キッシンジャーは彼の著作の中で、国際秩序の正当性には大国の合意のみが必要で、道徳は無関係であると主張した。トーマス・ミーニーがニューヨーカー紙で説明しているように、キッシンジャーにとって「道徳に縛られない事が自由の証だった」のだ。1952年、キッシンジャーは、ワイマール共和国外務大臣暗殺への関与で有罪判決を受けた殺人犯エルンスト・フォン・ザロモンの記事を、自身が編集する雑誌『コンフルエンス』に掲載した。ハンナ・アーレントやラインホルト・ニーバーなど、この雑誌に寄稿したドイツ系ユダヤ人亡命者はこの記事に満足していなかったが、キッシンジャーはこの記事は「私の全体主義者、さらにはナチスへの同情の表れ」だと冗談めかして言ったという。
3)原子力政策
彼はまた、1955年から1956年にかけて外交問題評議会(CFR)で核兵器と外交政策の研究責任者を務め、1957年には著書『核兵器と外交政策』を出版し、米国は戦争において戦術核兵器を定期的に使用すべきだと主張した。
彼の右翼公認伝記作家ナイル・ファーガソンは、キッシンジャーの本の主張は、彼が「スタンリー・キューブリックの『博士の異常な愛情』のストレンジラブ博士のモデルとなった」という「証拠として提示される可能性が非常に高い」と述べている。キッシンジャーは、核兵器に関する著書が学術的ではないという教授陣の反対にもかかわらず、ハーバード大学での終身在職権を獲得した。
キューブリックの作品「博士の異常な愛情」
彼は学界にとどまらず、ネルソン・ロックフェラーなどの政治家や大統領候補のコンサルタントとしても活動しました。1961年に彼をハーバードに推薦したマクジョージ・バンディがジョン・F・ケネディ大統領の国家安全保障担当補佐官に就任すると、キッシンジャーも顧問としてバンディに加わり、リンドン・ジョンソン政権下でもその地位を維持した。
戦術核兵器の使用をキッシンジャーが推奨していたため、彼は1962年と1965年にイスラエルに招待された。最近の文書は、キッシンジャーがイスラエルは既に核兵器を所有していた事を知っており、イスラエルの核保有を黙認する姿勢であったことが明らかだという。そして1969年にニクソン大統領の国家安全保障担当補佐官として、イスラエルがすでに開発している核兵器計画に対するニクソン政権の理解を仲介することになった。
キッシンジャーはベトナム戦争がアメリカには無益だったと信じていたにもかかわらず、1968年のリチャード・ニクソンの選挙運動に共謀し、民主党が選挙で勝たないようパリ和平交渉の情報をリチャード・ニクソンに漏らし戦争を長引かせた。ニクソンが選出されると、キッシンジャーは1969年1月に国家安全保障担当大統領補佐官に就任し、1975年までその職を務めた。
ニクソンは彼のことを「ユダヤ少年」と呼んだが、彼は生涯保守的な共和党員だったので、右翼の反ユダヤ主義は気にしていないようだ。彼は1973年9月から1977年1月まで国務長官も務めた。
3)冷酷なカンボジアキャンペーン
キッシンジャーは南ベトナム民族解放戦線と北ベトナムを打ち負かす決意を固め、1965年にジョンソン政権下で始まったカンボジアへの秘密戦術爆撃を強化し、1973年まで続く無慈悲な絨毯爆撃作戦に発展させた。 そして1973 年までに 15 万人から 50 万人のカンボジア人が殺害された。
キッシンジャーとニクソンが再び北ベトナムへの爆撃を開始したとき、キッシンジャーは「爆弾のクレーターの大きさ」に最も興奮した。核兵器使用への支持を維持し、彼はダックフックと呼ばれる作戦の一環として1969年に北ベトナムを核攻撃する計画を考案した。
社交界では彼を「優しいキッシンジャー」と呼ぶ人もおり、女性誌では「常にフレンドリー、特に女性に対しては」と評されていたが、嫌いな女性について語るとき、彼の甘言の人柄はどこにも見えなかった。インドの元首相インディラ・ガンジーのことを「雌犬」「魔女」と呼び、「インディアン」を「ろくでなし」と呼んだ。
4)クーデターと白人至上主義
1971年、キッシンジャーは元パキスタン大統領ヤヒヤ・カーンの東パキスタン(バングラデシュ)に対する虐殺作戦を支持し、1975年にはインドネシアの独裁者スハルトによる東ティモール人民に対する虐殺戦争(人口の3分の1が殺害された)を支持した。スハルトは1965年に米国の支援を受けたクーデターによって権力を掌握し、共産主義者と疑われる最大100万人のインドネシア人に対して虐殺を行った。東ティモールの死者20万人についてはキッシンジャーは動じず、「ティモールについてはもう十分聞いたと思う」と語った。
1970年に社会主義者のサルバドール・アジェンデが一般投票でチリ大統領に選出されたとき、キッシンジャーは「自国民の無責任のせいで国が共産主義化していくのを傍観して見守る必要はない」とコメントした。彼はニクソンにアジェンデに対する暴力的なクーデターを組織するよう圧力をかけ、その後10年半にわたって国をファシスト支配にさらし、米国の支援を受けた軍事政権によって数千人が殺害された。
5)キッシンジャーが推進した帝国主義的殺人政策はすべて、キッシンジャー以前もその後も米国の外交政策から逸脱していなかった
南アフリカ、ローデシア、モザンビークとアンゴラのポルトガル植民地における白人至上主義の入植者植民地と米国との関係を強化するという 「タール・ベイビー」オプションを提唱したのもキッシンジャーだった。
中東に関して言えば、ニクソンとフォードの時代に米国の主要同盟国となったシオニスト入植植民地イスラエルとの関係強化とは別に、キッシンジャーは1973年の戦争中に「アラブの勝利を阻止する」ためにイスラエルを徹底的に武装させた。戦争中のイスラエルへの彼の緊急軍事援助は、エジプト軍とシリア軍の初期の勝利を逆転させ、イスラエルの戦争勝利を確実にした。同氏はまた、米国とパレスチナ解放機構とのいかなる関係も確立できないことを保証した。
1975年9月、キッシンジャーはイスラエルとの間で、ユダヤ人至上主義国家としてのイスラエルの「生存権」を認めない限り、米国はPLOを認めず、交渉もしないことをイスラエル側との「覚書」で約束した。元PLO議長ヤセル・アラファト氏は、1988年にジュネーブで、そして1993年にオスロで再びその覚書通りの署名をすることになる。
6)恐ろしい記録
事実上、キッシンジャーは、イスラエルによるパレスチナの土地の植民地化が今後数十年間にわたって永続することを保証した。彼は元エジプト大統領アンワル・サダトのイスラエルへの降伏とキャンプ・デービッドでのパレスチナ人の権利売却の立案者であり、いわゆるアメリカ主導の「和平プロセス」を設計した。これはパレスチナ人とイスラエルに対するアメリカの政策を定義し、その後、アラブ世界の多くの地域で現在進行中の災害の元を形作ることになる。
キッシンジャーが世界中で戦争を挑発し、ファシスト独裁者の権力掌握を支援し、アフリカ南部やパレスチナの入植者植民地での白人至上主義を支援する中で、ソ連との緊張緩和を追求し、中国との国交を開設したことは評価されている。彼はカンボジアへの野蛮な爆撃の最中に北ベトナムと「和平」交渉を行った功績でノーベル平和賞を受賞したこともある。
キッシンジャーは、ロナルド・レーガンやジョージ・W・ブッシュなど、その後のアメリカ大統領に助言し、彼らの戦争を支援し続けた。1982年、彼は極秘の顧客リストを備えた自身のコンサルタント会社キッシンジャー・アソシエイツを設立し、アメリカとヨーロッパの帝国企業と銀行、西側諸国が支援する第三世界の独裁者、白人至上主義の入植者植民地にアドバイスを行った。最後に報告された彼の純資産は約5,000万ドルでした。
民主党政権からも愛されたキッシンジャー氏
しかし、キッシンジャーの恐ろしい経歴は、多くのアメリカのリベラル政治家に彼を慕わせた。クリントン夫妻は彼を心から愛しており、彼の誕生日パーティーに出席した。バラク・オバマ前大統領は、2008年の大統領選挙期間中、イランに関する自身の見解を支持しているとしてキッシンジャーを引用したが、キッシンジャーは彼を拒否した。2010年、オバマ政権はカンボジアにおけるキッシンジャーの殺人的政策をまねて、世界中でアメリカ国民を含む米国政策に敵対する人々をドローンで殺害した政策を正当化した。
7)彼の政策は異端ではない
2018年4月、キッシンジャーはトランプ大統領の億万長者の友人たちとともに、ホワイトハウスでのトランプ大統領の初の国賓晩餐会にゲストとして出席した。彼はウクライナ戦争についても意見を述べているが、それについては何度か考えを変え一貫した方針を示していない。
ヒッチンズ氏はキッシンジャーに関する著書の中で、「戦争犯罪、人道に対する罪、そして殺人、誘拐、拷問を含む慣習法、国際法に反する」罪でキッシンジャーを告発している。しかし、ヒッチンズは、キッシンジャーの政策が彼の固有の犯罪性からもたらされた特殊性(異端)ではなく、これらの犯罪のそれぞれがむしろ「米国政府に対する批難」に代わるべきであることを理解していないようだった。
実際、キッシンジャーが推進した帝国主義的殺人政策はすべて、キッシンジャー以前もその後も米国の外交政策から逸脱するものではなかった。それが、アメリカのビジネス界や知的エリート、リベラル派や保守派の間での彼の人気の理由となっている。
ミーニー氏が言うように、国の罪を一人の男のせいにすることは全員の利益になる。「キッシンジャーの世界史的人物としての地位は保証されており、彼の批判者は彼の外交政策を米国の常道でなく、彼特有の特例とみなすことができる」。
キッシンジャーの非道徳的で大量虐殺的な犯罪は、建国以来の米国が犯してきた犯罪に比べれば大人しい方であろう。強いて言えば、キッシンジャーは生涯を通じて彼が仕え、彼の名声、富、贅沢三昧の人生を保証してくれた米国犯罪エリートの忠実な代表にすぎなかったとも言えよう。
(引用終了)
デビッド・ロックフェラー(2017年死亡)、ジョージ・ソロス2023年引退、そしてヘンリー・キッシンジャーが亡くなって、善悪どちらの面もあったでしょうが、世界政治に影で大きな影響を及ぼすフィクサーと言える人が見当たらなくなった様に思います。ビル・ゲイツや世界経済フォーラムのクラウス・シュワブはそこまでの行動力があるようには見えません。今後の国際情勢は混沌として金と権力がある様々な思惑の人達にかき回され、民衆側からも強力な指導者がなかなか現れず、どちらにも流され得る浮遊状態になる様にも思います。
「イデオロギーよりも、大国間の合意」の方が、実がある。
でもその「合意を守る」ってのも「道徳」だけど、その「道徳」を踏みにじっていたら、「合意を守る」も、力だけでは履行させれないし、咎めきれない。
「だって、力づくでの盟約など、守る必要あるかいな」
って言われたら・・
てのが、今西欧・西洋に、ブーメランのように返ってきている・・・のかな。
西欧近代文明は「キリスト教徒限定」とした思想が多いらしい。
「ロックの天賦人権説」とかも「カトリック・新教徒の白人だけが、人間」みたいなところもあるとか。
西欧近代文明自体が、「どこか欠陥がある」のは最初から「人種差別的で、思い上がっている」てのがあるから・・
それでいう「普遍性」ってのも、なんかおかしい・・・普遍性なら「その原理原則に則る多様な姿」を容認しても良いけど、人権と民主主義に関してはそれが無い。
てのは、それは「自分ら欧米白人以外は搾取の対象」ってのが、欧米人・特にそのセレブ・王侯貴族には、断固としてあったからでしょう。。。
欧米の植民地支配は、天皇カルトによる中国・半島への支配や侵略と比べてもいい勝負の「鬼畜外道」ですから。