法は道徳の一部である、と言う概念を大学1年の「法学」1時限目の授業で習いました。ヒトを殺してはいけない、騙してはいけない、泥棒はいけない、といった古今東西人間社会で不変の道徳について定めた法を「道徳規範」と言い、税率や交通規則の様に時代や国によっても異なる決まり事は道徳とは関係のない「約束規範」と言います。どちらも守る必要がありますが、約束規範は社会が円滑に回るように便宜的に定めた規範なので、状況によって道徳的葛藤なしで変える事が可能です。宗教は道徳の一部と言えますが、ヒトそれぞれ自由に選ぶことができるので人間全てが守らねばならない道徳とは言えません。宗教上の決まり事、食事制限や祈りなども「道徳」の範囲外の事項です。法は理屈で解決し、良い悪いを決めることが出来ますが、道徳は理屈だけでは解決できない問題を含むという視点が大事なのです。
法学で最初に習う法と道徳の関係
今回初歩的な「法と道徳」の関係について述べようと考えたのは、大学の進学過程で誰でも習うはずの「基本的関係」について「理解できていない」「無視する」様な事例が世界中で起きており、ニュースなどを見る度に感ずる「違和感」の根本原因がこれではないかと考えたからです。
I. 司法の政治利用
民主国家においては、義務教育で習う基本的な事項として、立法、司法、行政の3権は分立していて、国民が選挙で選んだ立法府を担う議員は国民の利益に叶う法を作り、行政が法に従い、政治を行うことで民主主義が成立します。司法は国民の順法も判断しますが、主に行政府が立法府が作った法に従って行政を行っているかを監視・判断する役目があります。権力者が自らの利益のために司法を利用するなど決してあってはならない「一発アウト」「問題外」の事例に相当します。
本来三権は分立して存在するのが民主主義の基本
しかしながら、権力者が政敵を無力化するために恣意的に司法を操作して相手を罪に陥れ、自らの権力を保持するという事は「絵にかいた様な悪事」であるにもかかわらず、日本においても「国策捜査」と言われる様な恥ずかしい事案が度々ありました。そして民主主義の手本であるべき米国において、米国民主党政権のトランプ前大統領に対する恣意的司法の政治利用は「法律家や政治家、増して民主党を支持しているまっとうな米国市民は恥ずかしい」と思わないものかと思います。
ただ、現在の日本の三権分立は、下の図の様にほとんど形骸化しており、国民は順法を強いられ、選挙ではまともな選ぶに足るまともな政党はなく、政治家、法律家、第四の権力たるメディアも全て「国家・行政府」に忖度し、行政府はその上位である米国グローバル勢力に忖度しているのが実態ではないでしょうか。
現実には三権が一体になって国民統治の道具と化していないか。
余談ですが、2023年11月23日に韓国高裁が、韓国が日本に併合されていた時代の慰安婦問題について、現在の日本国の責任を認めて「被告」と認定、「主権免除」を認めないとする極めて政治的な司法判断を行い、日本政府に賠償命令を下しました。勿論、日本は韓国の司法に服する義務はなく、「裁判」の体をなしていない「判決的なもの」は「司法の政治利用」であり、韓国が得意とする芸風と言ってしまえばそれまでではありますが、「裏にある政治的意図」を大いに暴いて報道してもらいたいものです。そして朝鮮戦争時に従軍慰安婦だった老齢化しつつある韓国女性たちにももっと光を当てるべきだろうとつくづく思います。それよりも今現在「ガザで行われている大量殺戮」、「目の前で行われている殺人」こそ「善悪の判断を今するべき問題」だと私は思うのですが。
II. 合法(或いは論理的合理性)は道徳的許可ではない
始めの道徳と法の関係図に戻りますが、合法であることと道徳的に問題ない事は別である事がこの図から明確に解ると思います。しかし最近の国際問題、ウクライナ戦争、イスラエル・ガザ紛争などのメディアの説明、権力者の説明など見ると、「合法」或いは「論理的合理性」と「道徳問題」を同一とみなしている「勘違い」か「ごまかし」が余りにも多いと感じます。酷いものでは「宗教上問題ないので合法であり、道徳的にも問題ない」と言い切るイスラエル首相まで出てくる始末です。法は完全ではないから道徳が必要なのであり、まして宗教教義など不完全極まるモノである事は明らかです。特に宗教教義は解釈上矛盾する内容が各所にあり、これは「神の仕掛けたトラップ」だと私は解釈しています。つまり「我欲煩悩を満たすために教義の一部を都合良く解釈して本来の神の教えに背く阿呆が必ず出るだろう」と見越して仕込んだ罠だと思われるのです。「金の亡者になっても、神に与えられた能力を実践しているにすぎないからOK」とか「・・民族は滅ぼしても良い」「・・は神に選ばれた世界を支配する民だ」といった自分に都合が良い解釈は全て「神が仕掛けた罠」でしょう。我欲を満たす事を許す解釈を本気にする馬鹿は必ず出るし、ひっかかるヤツが阿呆なのだと私は思います。
最近メディアで多発する「理屈で論破できれば勝ち」という考えの人達。それで道徳的問題も解決して皆が納得すると勘違いしているようだ。
一枚目の写真は、「10月7日のハマスによる民間人拉致の前にガザ地区やヨルダン川西岸で多くの罪のないパレスチナ人が違法に逮捕されている実態がある。」という指摘に「具体的にどこの事件を指しているのか明らかでない指摘だ」と答えるプロイスラエルの論客。また「ハマスによる殺害人数の数倍の市民や子供がイスラエル軍に殺害されている。」という指摘に「数で言うなら第二次大戦で悪いナチスを消滅させるためにもっと多くのドイツ市民が連合軍に殺害されたでしょ。」と問題をすり替えている。二枚目では「今まで多くの犠牲や略奪がパレスチナ人に行われた。」という指摘に「今回の問題は10月7日のハマスの暴虐に始まっている」と言い張る司会者。
追記(2023年11月29日): 解放されたのは法の裁きを受けた囚人(Prisoner)なのか?
イスラエル政府とハマスの一時的休戦によってハマスは10月7日に捕えた人質(Hostage)の一部を解放し、イスラエルからは数千人以上と言われるパレスチナ人の囚人(Prisoner)の一部を解放したと伝えられます。メディアでは一貫して罪なく拉致された「人質」と有罪で監獄に服役する「囚人」の交換であるという印象操作が行われています。しかしイスラエル人死亡者はkilled(殺された)、パレスチナ人死亡者はdied(死んだ)と統一して報じていた様に、本当はパレスチナ人は収監されている(inmate)だけで囚人(prisoner)と表現するべきではない様に思います。メディアの印象操作の一つと考えますが、The Interceptの記事にある様に、正規の手続きなく、不当に逮捕・長期収監されたパレスチナ人は囚人ではなく(不当)収監者と呼ぶべきだと思います。
パレスチナの収監者達は、法の決定(司法)に基づく囚人(prisoner)とは言えないのではないか。
イスラエル寄りと言われるCNNでも収監者はテロリストと勝手に見なされた(Reckoning)だけで39名中23名は女性であり、15人は微罪で、10名しか起訴されていない、とレポーターが怒りをこめて告発しています。イスラエルという国が世界に受け入れられることはもう無いかもしれません。
兵法でも「知信仁勇厳」って道徳も列挙するのに。それを御座なりできるのは、阿呆っていえるのでしょうが。
その阿呆が「大学教授」「国家の上級公務員」「国会議員」「大臣」とかですから・・
実は巨大なガラパゴス島である日本の方が少数派?と言うか、欧米一神教世界やアジアアフリカ中東のイスラム教社会では、実は「法」と「道徳」と「宗教」の三者は、別々ではなくて、ぴったり重なった同心円。それぞれ、「大きさが違っている」だけだと思っているらしいのですよ。
しかも一番を大きい全てを飲み込む同心円が宗教で、次が道徳、法の順番との発想
10月7日ハマスの奇襲攻撃後のアメリカの首都ワシントンでの市民デモでは、パレスチナ市民支持のデモ隊は「即時停戦」「和平」を訴えていた。人間として子供が溺れていれば説教する前に助けるのが当然であるように、目の前で殺し合いがあれば、とりあえず「止める」のが人道、イロハのイなのです。戦争が起きれば伊勢崎賢治が言うように人命優先で『先ず、停戦』が第一で、それ以外は全てが二番
ところが、
即時停戦を掲げたパレスチナ支持のデモに対して、道路の反対側に陣取ったイスラエル支持のデモ隊側が、一斉に声をそろえて「恥を知れ」とシュプレヒコールの大合唱。
もちろん、報道ではイスラエル首相やら大統領、国防大臣やら議員やメディア有力者もほぼ同じ「恥を知れ」発言を繰り返していたのですから、我々日本人的には目が点に、
アメリカでは自分たちの偏狭な宗教と、それとは別である法や道徳とが、同心円だと思っている(日本人には理解不能の)破壊的カルト宗教が国民の多くを占め、しかも政府が同じ破壊的カルト宗教を絶対の真理だと信じているらしいのです。しかもリベラルメディア知識人が、少しも自分たちの間違いに気が付いていないのですから、ため息しか出てきません。
日本では明治維新後に大学認定された歴史だけを公表する風潮があり、それなら一番古くても東大の百数十年前程度の長さにしかならないが、現存する大学で日本最古の大学は京都にある種智院大学で弘法大師空海が828年に創設しているので1200年の伝統があり、世界最古と言われている1088年設立のイタリアのボローニャ大学よりも遥かに古い長い伝統がある。
1209年創設のケンブリッジや1096年創設のオックスフォード大学など全ての欧州の伝統ある大学は最初は教会付属の神学校として設立しているのです。物理学も聖書の記述の正しさを証明する学問として発展する
ですから工学部など実用学部がこれ等の有名大学の正式な『学部』とされるのは19世紀以降の極最近の出来事です
これ等の高等教育機関は元々は日本でも事情は同じで、最初は神学(教理)を教える学問所として設立された。京都にある大学でも、西本願寺系の本願寺派の1639年創立の龍谷大学とか、東本願寺の真宗大谷派系の1665年創設の大谷大学 は教祖親鸞の他力本願を学ぶ目的で設立した歴史があるが、日本では全てが同心円であるなどとは誰一人思っていない
ボストンに留学中の息子から聞いた話では、今回は露骨に「イスラエル支持を表明」していると「身の危険」を感ずる場合があるとかで、大学内に相談窓口ができている由です。米国内でも今までとは少し旗色が変わってきているようだと言っていました。
バイデン政権のイスラエル支持も内容が少し変わりつつあるようで、今回の休戦圧力もその辺が反映している可能性があります。
それが今世紀になってから、各国で政府の御用機関になり下がってきているのでは?
最高裁にしても、高度な政治判断はお手上げだとして、結果的に政府に追随か、ポピュリズムを隠れ蓑にしているきらいがあります。
司法を担う人たちは何を考えているのか、疑ってしまうことが多々あります。
追記:やはりハマスの最初のテロに言及すると、パレスチナの自治を認め、隣人として共に生きると、イスラエルは約束しました。にもかかわらず、植民地をすすめ、壁をつくり、反乱分子だけでなく民間人までも人質(稼ぎ手)にとった。その数1万人以上です。女性、子ども、年寄りを残して、難民として出て行った人々は何百万人とか・・。
ネタニヤフ首相の目的は「敵の排除」ですから、あのテロ以前のハマスは袋の鼠状態だったわけです。
性善説、性悪説をこえた、戦争ではなく一方的な虐殺ジェノサイドでしょうね。心が痛みますし、終息が見えません。
それは、人口のたった2%にすぎないグループが言論を支配し、思想を抑圧しているからだ。
反シオニズムは、意図的に反セミティズムと論点をすり替えられ、政治的姿勢が人種差別の問題にすり替えられ容赦ない制裁が下される。2%の持つ圧倒的なカネの力によって。
だから私もネットでこの手のコメントを残すのさえ、非常に気を使ってきた。
そのタブーに風穴が空いた。
これは、毎日これでもかと報じられるガザの悲惨な状況に、人々、特に若い人達の道徳心、正義感が触発されたのも大きいとは思うが、それだけが原因と思うのもナイーブな気がする。
とにかくアメリカの深部で地殻変動が起こっているように思う。
余談ですが、アメリカのカウンティオフィスで結婚の手続きをした際、聖書のうえに手をのせて、誓わされた。私も連れ合いもクリスチャンじゃないのに。
今だったら、なんでクリスチャンでもないのに聖書に向かって誓えるかって大暴れするところだが、あの頃の私はウブだった。
宗純さんの同心円説に同感。
中華文化圏なら「儒・仏・道」の三教があるので、「どれか」の宗教・道徳を、法律に決めつけるのは、難しいような気がします。
一応「儒教」がベースでしょうけど。
あと日本は、法治などせいぜい「江戸時代以降」にすらと思えるし。
むろん朝廷や武家の訴訟とか律令・式目とかあっただろうけど。「革命・諫言抜きの儒教」がメインなら、それも機能するか怪しいけど・・
ともわれ、東アジア文化圏が西欧の「宗教・道徳・法律の非同心円」なのが、ある程度受け入れれたのは、そんなのもあるのかな。
けど、曲りなりにも「道徳」~東アジアは儒家的倫理の反映を、東アジアの近世までの法は影響を受けていると思う。
「法だけに従えばいいなどしてりゃ、倫理も社会秩序も壊れるは」って儒家や孔子の主張。
「法を指導者が守らんと、誰も法を守らん」と兵家や法家。
それが見事の的中しているのが、今の西洋近代文明だったてかも。
でもその西洋近代文明も「裏」ではキリスト教~カトリック・新教~の傘の下にしかない。
そういう意味では日本での考える「宗教・道徳・法が非同心円」ってのは、西洋の実態とは大違いの「絵空事」だったかもしれません。
なら、なお、倫理・道徳が破綻するってことでしょうか。