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【ウォーキング】北品川界隈今昔探訪

2013-06-18 | ウォーキング・トレッキング
久しぶりに、遊学散歩に参加して参りました。
今回は、大江戸セミナー「江戸の北品川宿界隈について」を受講の後の散策でした。
これは、たまたまだったのですがつい先日荏原神社の例祭に出かけたばかり…。^^;
セミナーに関しては、広重や北斎たちが残した浮世絵に描かれた当時の宿場の情景を見ながら「人々の暮らしぶりや世相などを考察していく」と言った内容でした。
確かにそこに描かれている一人ひとりの人物像などに着目してゆくと、いろいろな情景が思い描く事が出来て新しい発見もあったりなかなか結意義なセミナーでした。

セミナーは午前中で終了し、食事を摂って午後から史跡散策に参加しました。
13:00 スタート


【東海寺】臨済宗大徳寺派のお寺で、1638年(江戸時代前期)に徳川家光が沢庵和尚のために創建しました。当初の寺域は4万7千坪(15.7万㎡)で、幕府から500石の朱印地が与えられました。現在の「東海寺」は、塔頭のひとつだった玄性院(旧名臨川院)がその名を継いだものです。
5代将軍綱吉の母である桂昌院が寄進した梵鐘や原爆犠牲者慰霊碑、堀田家(下総佐倉藩主)青山家(丹波篠山藩主)の墓所などがあります。

【熊本薄細川家墓所】東海寺の塔頭であった旧妙解院(ミョウゲイン)の一部にあります。
妙解院は、寛永20年(1643)細川家4代藩主光尚が、父忠利の菩提を弔うために沢庵和尚を開祖として建立された寺院で、後には清光院・少林院とともに江戸における細川家菩提寺の一つでした。
細川家が明治4年神葬祭に改めたために妙解院は廃寺になりましたが、墓所は細川家の所有となり現在に至っています。


【荏原神社】南品川の鎮守様(南の天王様)で、709年(奈良時代)の創建です。1062年(平安時代中期)には、源頼義・義家親子が、奥州討伐の際に戦勝祈願をしています。
現在の社殿は1844年(江戸時代後期)の造営であり、神殿に掲げる「荏原神社」の扁額は、三条実美の寄進です。
明治元年(1868年)、明治天皇の江戸への行幸の際には、内侍所として社内に内侍所唐櫃を仮鎮座し、境内に仮屋を建てて鳳輦が置かれました。また、「東海七福神」の一つで「恵比寿様」が祀られています。

【鎮守橋】元は荏原神社の境内の参道でしたが、昭和3年(1928年)に目黒側の川筋が変えられた為にかけられた橋です。品川百景にも選ばれているそうです。

【品川橋】 品川宿の中央にある橋ということで品川橋と呼ばれるようになりました。また南北品川の境に圧ろいうことで境橋とも呼ばれていました。江戸時代には木橋でしたが、明治15年(1882年)に東京府によって石橋に架け替えられました。

【旧東海道 北品川商店街】この辺りはかつて宿場街でした。

【品川宿】歌川広重 東海道53次 品川宿 (図版:WIKIより) 


【本陣跡・聖蹟公園】 本陣は、参勤交代の諸大名や公家などの宿泊や休憩所になった所で、門や玄関、上段の間を備えていました。江戸時代前期には、「北および南品川宿」にそれぞれの本陣がありましたが、中期以降は「北品川宿」のみとなりました。
現在の本陣跡は1771年以降に定着し、「歩行新宿」を含む、三宿のほぼ中央に位置しています。明治天皇の行幸の際の行在所(聖蹟)にもなり、昭和13年(1938)に「聖蹟公園」として開園しました。

【八つ山通り】かつての目黒川の河口にあたります。 当時はこの周辺は漁師町でした。


【御殿山下砲台】1853年6月3日のペリー来航に衝撃を受けた幕府は江戸内湾防御のため、11基の台場の築造を計画しました。工事は同年8月から御殿山や泉岳寺近辺の一部の土砂を切り崩して進められましたが、完成したのは「御殿山下砲台」を含めて6基でした。
現存するのは「第3台場(都立お台場海浜公園)と「第6台場」のみです。「御殿山下砲台」は、現在は区立台場小学校の敷地になっていますが、校門右手に、台場の石垣に使用された真鶴石を並べ、明治3(1870)年から昭和32(1957)年まで使用された「品川l灯台」(現在は愛知県の犬山市の明治村に移築)を小さくした模造灯台が置かれています。

【利田神社】前身は、旧目黒川の河口の海に突き出た砂洲に祀られていた弁天社で、須崎弁天とも呼ばれ、明治になって利田神社となり、祭神も市杵島姫命に変わりました。

【鯨塚】1798年(寛政10年(江戸時代後期))5月1日に前夜からの暴風雨によって、品川沖に迷い込み、品川の漁師らが捕獲した「寛政の鯨(長さ約16.5m,高さ約1.8m)」の骨を埋めた上に立てられた塚です。
この鯨は岸から約300mの沖に繋留され、多くの人々が舟で見物に訪れました。
また、鯨に縄をつけ、舟で現在の浜離宮恩賜公園の沖まで引っ張り、11代将軍徳川家斉に上覧させ、家斉からは漁師たちに「猟師元浦」と書いた旗を下賜されたとのことです。上覧後、鯨は再び品川沖に戻され、日が経つにつれ腐りはじめたので、解体されました。

【鯨を模したオブジェ】鯨塚の隣にある公園に置いてありました。


【品川滞船だまり】 現在も猟師町の面影を残していますが、かっては豊富な水揚げを誇り、海苔の産地でもありました。
また、江戸城御用の鮮魚を納める「御菜肴八ケ浦」の一つとして発展しました。現在は、つり船や屋形舟の発着場として賑わっています。

【問答河岸】ここはかつて徳川家光が束海寺を訪れ、沢庵和尚が出迎えた時に問答を行った荷揚場でした。
この場所で、家光は「海近うしても東(遠)海寺とはいかに」と問い、沢庵は「大君にして将(小)軍と称し奉るがごとし」と答えたと云われています。(写真奥は当時海岸でした。左端に当時の石垣が僅かながら残っています。)

【土蔵相模跡】外壁が、土蔵のような海鼠壁(なまこかべ)だった妓楼・「相模屋」(通称土蔵相模)の跡です。(今は何もありません)
高杉晋作、伊藤俊輔(博文)などの長州の尊皇壊夷派は、この妓楼に集まり、外国公使暗殺の密議を重ねましたが、未遂に終わり、その後、此処から御殿山の英国公使館の焼き討ちに出かけました。
また、桜田門外で井伊直弼を襲撃した水戸浪士も、襲撃を前に最後の酒宴を開きました。
明治以降は貸座敷、旅館などとして営業を続けましたが、昭和57(1982)年に取り壊されました。


【北品川の古建築】看板建築が残る金物屋と下駄屋(今でも草鞋を販売しているとか)

【一心寺】真言宗智山派のお寺で、1855年(江戸時代後期)の創建です。
成田山分身の不動明王を安置しています。「東海七福神」の一つで「寿老人」が祀られておりまた、「江戸33観音」の一つでもあり、高村光雲作の「聖観音」なども祀られています。

【養願寺】天台宗のお寺で、1299年(鎌倉時代後期)の創建で「品川の虚空蔵さま」と呼ばれています。
「東海七福神」の一つで「布袋尊」が祀られています。なお、「虚空蔵菩薩」は、丑・寅の守護神であり、13歳の時にお参りすると「福・得・知恵」が授かると云われています。毎年4月と11月の7日前後に大祭が行われます。

【レンガ壁】正徳寺裏手にあったレンガ壁 ドラマのロケ地にも使われたとか。

【品川神社 一之鳥居】先日訪れた時は、例祭で正面からの撮影が出来なかったのでこんなに早く再訪出来て嬉しかったです。

【同 備前焼の狛犬】焼物の狛犬は関東では珍しいらしいそうです。狛犬愛好家(?)の中では、やはりレアな狛犬らしいです。

【同 拝殿】さすがに本日は静かでした。

【同 宝物殿】特別に拝観させて頂けました。大神輿と御神面、その他社宝が展示されておりました。


【板垣退助の墓】幕末には倒幕運動に力を尽くし、明治維新後には自由民権運動を進めました。墓の傍らには「板垣死すとも自由は死せず」の碑(佐藤栄作書)があり、「百円札」の肖像にもなりました。
また、品川ゆかりのお札の肖像では、他にも、「五百円札」の<岩倉具視>(南品川・海晏寺)、「千円札」の<伊藤博文>(西大井)、および「一万円札」の<福沢諭吉>(上大崎)があります。

【清徳寺】鎌倉時代の元徳2年(1330)に創建された禅宗寺院で、天正9年(1591)には、徳川家康から10石の寺領を賜っています。
東海寺の建立に際し、近隣の多くの寺院が移転を命じられたなかで、清徳寺は沢庵和尚の宿寺となっていたため、元の場所に残されたと伝えられています。徳川歴代将軍の朱印状18点等貴重な文書が残っています。
15:30 散策終了

【本日の散策ルート】

今回、ロギングにAndroidアプリ「EasyTrail」と、言うものを使ってみました。
標高差も記録してくれて、Google Mapsと連携してくれるので暫くこちらを利用していこうと思っています。
(実使用にあたって、SXのバッテリー消費量が半端無いので、データ通信をオフにするなどの対策は必要と思われます。)

本日の総歩数12962歩 総距離9.05キロ
※ 本文内の説明書きは、当日配布された資料から転載し一部加筆させて頂きました。


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