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【ウォーキング】「みをつくし料理帖」の舞台を尋ねる@東京都千代田区外神田~神保町~九段下界隈

2015-02-01 | ウォーキング・トレッキング
最近ハマっている本に「みをつくし料理帖」と、言う江戸を舞台とした時代小説があります。
もともとは、サクラさんが読んでいて「読みやすいから」と、言うので勧められて通勤の最中読み始めたら、これがどうしてなかなか面白いのです。
内容はというと…。
まぁ、簡単に言ってしまえば幾多の困難を乗り越えながら小さな料理屋を繁盛店にする主人公女料理人「澪」のサクセスストーリーなわけなのですが、登場人物が少ない分わかりやすくストリー自体も凝った捻りもなくさりとて、つまらないわけでもなく。
読み進めていくと、妙に感情移入してしまい次の巻が読みたくなる中毒性のある小説なのです。
全10巻で完結し、今現在8巻目を読んでいる真っ最中

そんな中
以前よりサクラさんが「みをつくし料理帖」の舞台を訪ね歩いてみたいと申していたので、1月の最後の休日の日
秋葉原で買物もしたかったので、暫くご無沙汰だったウォーキングを兼ね出かける事にしました。

スタート11:30 都営新宿線 九段下駅下車 九段坂方面
俎橋(まないたばし) 小説の中で良く名前が出てくる橋です。由来は「2本の俎板を渡した様な橋から」と言う説と、この界隈にかつて存在していた御台所町との関連からといった説があるそうです。
一般的には「俎板」表記ですが橋銘では「爼」の漢字が使われています。
千代田区九段北1丁目周辺 俎橋のすぐたもとになります。明神下から新たに引っ越してきた「つる家」がある場所辺りになります。この辺りの旧町名は「元飯田町」と呼ばれていました。
版元坂村堂と一緒につる家に良く通っていた戯作者「清右衛門」の屋敷はつる家のすぐ近くにあった様です。
どうりで、毎日の様に通っていたのですね。
そして、清右衛門のモデルとなった実在した人物がいたそうです。
その人の名は“滝沢馬琴”
滝沢馬琴といえば、誰もが知ってる南総里見八犬伝で、有名ですね。
馬琴は、この地で未亡人と結婚し履物屋の婿となるのですが、なぜか相手姓を名乗らず自ら“滝沢清右衛門”と、名乗っていたそうです。
都史跡 滝沢馬琴 硯の井戸がこの近くにあるのです。
滝沢馬琴宅跡の井戸(九段北1-5)マンションのエントランスにあります。この前を2度も素通りしてしまいました。看板が横向きなのでまず気づきません。マンションのエントランスを目印に訪れてみてください。
彼は、27歳から58歳までここで暮らしていたそうです。

 さて、せっかくこの地を訪れたので、少し遠回りをして靖国神社と築土神社に立ち寄ることにしました。
靖国鳥居 ここへは、昨年の花見以来の訪問でしょうか。
大鳥居ですが、地割れがちょっと気になりました。
当日は、フリマが開催されていました。当然ですが、靖国神社は江戸時代存在していませんでした。かつては、幕府の“歩兵屯所”なる施設がありました。
続いて、中坂の途中におる築土神社(九段北1-14)を参拝して参りました。
祭祀:天津彦火邇々杵尊 
ここは、平将門の首(頭蓋骨や髪の毛)が、かつて安置されていたと伝わる将門信仰の曰くある一社でもあります。
ここの狛犬は、古くその筋では有名らしいです。
ビルの屋上に剣が置かれています。将門を祀っていたことから武勇長久の神社として親しまれてきた象徴の様です。
中坂 小説の中でも登場しました。九段坂と平行して飯田橋方面へ至ります。
再び俎橋へと戻ります。上は首都高5号線です。
俎橋の先は現在靖国通りで神保町方面へと繋がるのですが、江戸時代この先へは道が続いていませんでした。
俎橋の対岸に、創業文久元年 老舗のお米屋さんがありました。つる家はここから、お米を仕入れていたのでしょうか?想像が膨らみます。

江戸の地図を見ながらたぶん澪や芳、おりょうたちは、“表神保小路”(現在のさくら通り~すずらん通り)を歩いて通って来たものと推測しています。実際に歩いてみると40分ほどで通えるみたいです。(画像をクリックすると別タブにて拡大表示します。)
地図の右端にある“土屋采女”のひときわ広い上屋敷に注目。彼は、土浦藩10代目藩主で、寺社奉行(寺社を統括する役職)や大坂城代など幕府の要職に就いた人物です。みをつくし料理帖にも采女相馬(登龍楼店主)と言う人物が登場しますが作者が、ここかららヒントを得たかどうかは分かりません。

すずらん通りを出て、駿河台下から靖国通りに戻り淡路町交差点を北へ。昌平橋を渡ると澪達が住む長屋があります。(画像をクリックすると別タブにて拡大表示します。)
※江戸地図はこちらのPDF資料から頂戴致しました。
ここで、遅めのランチを摂ることにしました。
選んだのは、老舗の神田志乃多寿司さん 久しぶりの来訪です。
地下のイートインコーナーで、押寿司と志乃多を頂きました。志乃多は本当に絶品です。一度お試しあれ。
さて、志乃多寿司さんから少し路地を入るとあの!有名な神田藪蕎麦さんがあります。一昨年火事が出て震災や空襲にも耐えた貴重な店舗と「つゆだれ」を失ってしまったとか。それでもたくさんの行列が出来ておりました。
この周辺には、あんこうの専門店があったり甘味処があったり、老舗の料理屋さんが軒を連ねています。登龍楼も小説の中では、神田須田町にある設定となっていますので、ここを訪れると雰囲気は伝わってきます。
さて、再び外堀通りへと戻り北へと歩きます。
昌平橋 当初は、寛永年間(1624~1644)に架けられたと伝えられています。現在の橋は昭和3年に架けられたものです。
アーチ状の煉瓦塀は、かつての昌平橋駅のなごりだそうです。
橋の下に見える石垣は、江戸城造営時のものだとか。城内と城外を隔てたいわば区界の意味合いもあるそうです。
さて、昌平橋を渡るとすぐに神田明神下交差点となります。この左手は、源斉先生の邸宅がある神田旅籠町(外神田2-1)になります。
かつての旧つる家があった辺り 神田御台所町(外神田2-5)
澪の長屋があった辺り 神田金澤町(外神田3-4)現在の区立昌平小学校周辺
ここで、思わぬ偶然がありました。
なんと!先ほど登場した滝沢馬琴の邸宅がここにもあったのです!
この場所で、彼は12年間暮らしていたようです。
住居跡があった芳林公園 ここへは、秋葉原に買物のついでに休憩スポットとして幾度と訪れた記憶があるのですが…。
まさかこんな場所に、このような史跡があるとは思いもよりませんでした。
みをつくし料理帳に毎回登場する戯作者“清右衛門”独特なキャラクタではありますが、重要なキーパーソンだったわけですね。
 さて…。最後の訪問地は“化け物稲荷”と、決めていました。
散策途中でみつけた鯛焼き屋さんで、もうひと頑張り。皮がクリスピーで餡も程よい甘さでサクラさんも絶賛。
“化け物稲荷”棘々しい名称ですが、特に謂れなどは分かりません。
設定では、お参りすると祟があるとか狐に化かされるとかの記述があるだけで、荒れ放題だった周辺と社を澪が何とかお参り出来る状態にし、澪が重要な決断を強いられるとき幾度とここを訪れては、神狐の笑みに助けられる情景描写豊かなシーンが幾度と登場します。
江戸切絵図にもその記述は確かにあって、ブログでも紹介されている記事は目にしていました。
しかしそのモデルとなった稲荷社なのですが、実際歩くとこれがかなり遠く場所もわかりづらく周辺まで行きながら周りをぐるぐるぐるぐる…。
で、ようやくみつけたのが…。
民家の路地の先にありました。写真は裏手の駐車場からお社の背後から撮らせて頂きました。
こちらの写真は、偶然フォト蔵にアップされていたものから直リンさせてもらっています。
場所は、文京区湯島3-16-12 セブンイレブン隣の路地突き当りになります。
真新しい紙垂がお社にかかっていましたので、今でも大切にお守りされているものと思われます。
失礼では、ありましたが背後からお参りをさせていただきました。
訪れる際は、民家の中ですので、敷地内には立ち入らないようにくれぐれも気をつけてお参りしてください。
ゴール16:00 秋葉原に戻り買物を済ませ本日の「みをつくし料理帖」その舞台を歩く散策終了
本日の総歩数14722歩総歩数(推定)10.3キロ
【総評】
テーマを決めて歩くのは、なかなか楽しめました。
今回は、江戸切絵図を元に「みをつくし料理帖」の舞台を、澪や他の登場人物と当時の人々の暮らしぶりに想いを馳せながら歩くことが出来て歩数は、かなり行きましたが途中いいポイントで、休みも織り交ぜながらだったので疲労感もソコソコで帰路に着くことが出来ました。
滝沢馬琴との思わぬ出会いと普段行き親しんでいた場所が実は、貴重な史跡だったり。
数年ぶりに訪れた志乃多寿司はやはり絶品でした。
みをつくし料理帖にハマっている方には、是非お勧めしたい散策コースです。

参考資料:嘉永・慶応 江戸切絵図で見る 幕末人物事件散歩/人文社

【みをつくし料理帖舞台散策マップ】


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