【井伊谷宮】
井伊谷宮 祭祀:宗良親王
旧社格は官幣中社。建武中興十五社の一社である。 後醍醐天皇の第四皇子で南北朝時代に征東将軍として関東各地を転戦した宗良親王を祀る。元中2年8月10日に73歳で歿した地と伝えられ、社殿の背後に宗良親王の墳墓がある。(WIKIより)
井伊社 祭祀:道政公・高顕公
南北朝時代 当時の井伊家当主“道政公”とその息子“高顕公”は、この地を訪れた宗良親王に奉じ多大な尽力をつくしました。
そして、更に親王と駿河姫(道政公の娘、重子姫)との間に尹良(ゆきなが)親王を授かり吉野朝(南朝)と井伊家の間に非常に深い関わりを持つ事となりました。
こうした井伊家と皇室の結び付きは明治期の井伊谷宮創建に際しても変わらず表され、親王様の御墓整備並びに井伊谷宮御鎮座が井伊家の多大なる貢献によって整ったことにより、明治八年井伊道政公・高顕公を御祭神として「井伊社」が井伊谷宮本殿横に創建されました。(こちらから引用し一部編集させて頂きました。)
境内の裏手には、宗良親王の陵墓がありますが立ち入り禁止となっています。(初詣期間は開放されているようです。こちらに記事がありました。)
併設されている資料館には、宗良親王の遺品や重要文化財として指定されている太刀(銘國綱)などが所蔵されています。入場無料です。
井伊谷宮御朱印 初穂料300円
【渭伊神社・天白磐座遺跡】
さて、続いて訪れたのは今回のメインだった渭伊神社・天白磐座遺跡です。
一の鳥居
渭伊神社
拝殿と本殿 祭祀:玉依姫命 品陀和氣命 息長足姫命
近世までは、正八幡宮と呼ばれていたそうで元は龍潭寺境内にあったと伝わります。
南北朝時代(一説に享保年間)に現在地へ遷座したそうですが真偽は不明です。龍潭寺の共保出生の井戸伝承と共に、井戸や井戸水を祭祀とした神社でもあり井伊家と深いつながりがある神社でもあります。
境内の裏手には薬師山と言う丘陵がありそこに、天白磐座遺跡があります。
天白磐座遺跡 同志社大の調査チームによる発掘調査で、4世紀(古墳時代)から13世紀(鎌倉時代)に至る長期間、連綿と続いた祭祀場であったことが明らかとなった。
とくに高さ7.39mに及ぶ最大の磐座の西側直下は、古墳時代の祭祀場として限定され、多量の手づくね土器や鉄鉾(てつほこ)、滑石製勾玉(まがたま)などの遺物が出土した。また3個の巨石から成る三角形の空間からは、渥美半島で生産された経筒外容器が和鏡とともに出土しており、平安末期から鎌倉時代にかけての、経典を土中に埋納する経塚であったと推察されている。(こちらより引用)
午前中まで降り注いでいた雨で磐座の表面がくっきり現れなかなか素晴らしい景観を見せてくれました。
磐座解説(サムネイルをクリックして拡大)
ここでPart1の冒頭でも記述した大ハプニングが発生!!
自分の左足のふくらはぎが肉離れになってしまい歩行が困難となってしまいました。
痛さで暫く動けませんでしたが暫く安静にしていたら何とか足を引きずりながらも歩くことができて、散策をここで中止し残念ながらホテルのある浜松まで戻ることにしました。
【妙雲寺】
最寄りのバス停近くへ行く道すがらに直虎が晩年過ごした寺がありました。
案内板(クリクして拡大)
妙雲寺 ここには直虎の位牌があり近くには、直虎(次郎法師)のもう一つの墓があるそうです。
本来であれば、このあと…。
直虎のもう一つの墓所~地域遺産センター(井伊家ゆかりの歴史遺産展示)~井伊谷城~井殿の塚(直満・直義兄弟の墓)~井伊氏館跡
を、散策する予定でしたが時間的にも無理だった様ですので、いずれ是非リベンジがてら再訪したいと思っています。
【マップ】
Part3へつづく
井伊谷宮 祭祀:宗良親王
旧社格は官幣中社。建武中興十五社の一社である。 後醍醐天皇の第四皇子で南北朝時代に征東将軍として関東各地を転戦した宗良親王を祀る。元中2年8月10日に73歳で歿した地と伝えられ、社殿の背後に宗良親王の墳墓がある。(WIKIより)
井伊社 祭祀:道政公・高顕公
南北朝時代 当時の井伊家当主“道政公”とその息子“高顕公”は、この地を訪れた宗良親王に奉じ多大な尽力をつくしました。
そして、更に親王と駿河姫(道政公の娘、重子姫)との間に尹良(ゆきなが)親王を授かり吉野朝(南朝)と井伊家の間に非常に深い関わりを持つ事となりました。
こうした井伊家と皇室の結び付きは明治期の井伊谷宮創建に際しても変わらず表され、親王様の御墓整備並びに井伊谷宮御鎮座が井伊家の多大なる貢献によって整ったことにより、明治八年井伊道政公・高顕公を御祭神として「井伊社」が井伊谷宮本殿横に創建されました。(こちらから引用し一部編集させて頂きました。)
境内の裏手には、宗良親王の陵墓がありますが立ち入り禁止となっています。(初詣期間は開放されているようです。こちらに記事がありました。)
併設されている資料館には、宗良親王の遺品や重要文化財として指定されている太刀(銘國綱)などが所蔵されています。入場無料です。
井伊谷宮御朱印 初穂料300円
【渭伊神社・天白磐座遺跡】
さて、続いて訪れたのは今回のメインだった渭伊神社・天白磐座遺跡です。
一の鳥居
渭伊神社
拝殿と本殿 祭祀:玉依姫命 品陀和氣命 息長足姫命
近世までは、正八幡宮と呼ばれていたそうで元は龍潭寺境内にあったと伝わります。
南北朝時代(一説に享保年間)に現在地へ遷座したそうですが真偽は不明です。龍潭寺の共保出生の井戸伝承と共に、井戸や井戸水を祭祀とした神社でもあり井伊家と深いつながりがある神社でもあります。
境内の裏手には薬師山と言う丘陵がありそこに、天白磐座遺跡があります。
天白磐座遺跡 同志社大の調査チームによる発掘調査で、4世紀(古墳時代)から13世紀(鎌倉時代)に至る長期間、連綿と続いた祭祀場であったことが明らかとなった。
とくに高さ7.39mに及ぶ最大の磐座の西側直下は、古墳時代の祭祀場として限定され、多量の手づくね土器や鉄鉾(てつほこ)、滑石製勾玉(まがたま)などの遺物が出土した。また3個の巨石から成る三角形の空間からは、渥美半島で生産された経筒外容器が和鏡とともに出土しており、平安末期から鎌倉時代にかけての、経典を土中に埋納する経塚であったと推察されている。(こちらより引用)
午前中まで降り注いでいた雨で磐座の表面がくっきり現れなかなか素晴らしい景観を見せてくれました。
磐座解説(サムネイルをクリックして拡大)
ここでPart1の冒頭でも記述した大ハプニングが発生!!
自分の左足のふくらはぎが肉離れになってしまい歩行が困難となってしまいました。
痛さで暫く動けませんでしたが暫く安静にしていたら何とか足を引きずりながらも歩くことができて、散策をここで中止し残念ながらホテルのある浜松まで戻ることにしました。
【妙雲寺】
最寄りのバス停近くへ行く道すがらに直虎が晩年過ごした寺がありました。
案内板(クリクして拡大)
妙雲寺 ここには直虎の位牌があり近くには、直虎(次郎法師)のもう一つの墓があるそうです。
本来であれば、このあと…。
直虎のもう一つの墓所~地域遺産センター(井伊家ゆかりの歴史遺産展示)~井伊谷城~井殿の塚(直満・直義兄弟の墓)~井伊氏館跡
を、散策する予定でしたが時間的にも無理だった様ですので、いずれ是非リベンジがてら再訪したいと思っています。
【マップ】
Part3へつづく
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます