五色不動を詳細に考察されている“まぼろしの五色不動”サイトでの結論は・・・。
現在有名な五色不動六寺院が出そろうのが明治末年、そして「五色不動」という名称が現われたのは大正時代である。少なくとも「天海が風水に基づいて江戸防衛のために五色不動を置いた」というのは、史実ではないということが明らかだ。
江戸時代には、目白、目黒、目赤の三不動しか存在していなかったのである。それを裏付けるように、江戸切絵図には目青、目黄の文字はどこにも見られない。
また、目黒不動竜泉寺以外は、戦災以降移転を余儀なくされているが、その旧地を見てもその痕跡を今となっては何処にもみつける事は出来ない。(下記表参照)
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(出展:陰陽道とは何か 戸矢学 著PHP新書2006年)
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江戸切絵図より 目赤不動の文字が見える。
以下からは、その後追跡調査を行った際のお蔵入りのスナップ。眠らせておくには忍びないのであえて紹介
(撮影日からかなり時が過ぎている事をお断りしておく)
目白不動(旧地)新長谷寺 東京都文京区関口2丁目2(撮影:2005年5月)
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江戸切絵図 新長谷寺 目白不動とある。
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現在の同地区周辺マップ ★辺りにかつて新長谷寺があった。
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目白坂
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大泉寺
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永泉寺
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正八幡神社
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かつて新長谷寺があった辺り
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目白坂上に鎮座する“幸神社”
目青不動(旧地)正善寺 東京都港区六本木1丁目3(撮影:2005年5月)
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江戸切絵図 正善寺 この後、青山の教学院(青山墓地辺り)から現在の世田谷区太子堂へ移転
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以前、どこかのWEBからキャプチャしていた切絵図だがこちらには、“目青不動”の文字が見える。しかしこれは、編集して追記したものだろう。
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現在の同地区周辺マップ ★辺りに正善寺があったと思われる。
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霊南坂教会から桜坂周辺
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右手は、アークヒルズ
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霊南坂教会 山口百恵と三浦友和がかつてここで挙式をした事で有名
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サントリーホールとアークヒルズ 都心でも一等地の場所
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桜坂と霊南坂の中央にある“陽泉寺”江戸切絵図には、ここの名前が見られたのでだいたいの正善寺の位置が特定できた。
冒頭で、引用した「陰陽道とは何か/戸矢学著」だが、書の中で五色不動を、なかなか興味深い視点で考察されていたので紹介したい。
氏は、五色不動は風水思想で言うところの龍脈に沿って不動尊が置かれていると解いている。
そして、不動堂や五重・三重の塔が建てられている場所は“龍穴”の地なのだそうだ。
いみじくも目黄に関しては「明治以降後生のもの」と、割り切られている。
続けて、「不動堂が設置されている場所そのものは、ピン・ポイントでとらえるなら、一般の人の住まいは適当でない。そこはあくまでも「鎮護」の押さえであって、神社や寺院の建つ場所が、適当ではないのと同様だ。」
適地は、その周辺にありそれぞれの場所を特定しながら、不動堂のある周辺地域は、非常に栄えた場所であることを解いている。
なるほど!今まであるようで無かった視点でのアプローチだ。実に興味深い。
で、あるならば誰が“龍脈に沿って”これら不動堂をシカケたのだろうか?
少なくとも江戸幕末までには、目白、目黒、目赤の三不動は存在していたワケだから、明治以降の高僧か政府高官かの誰かが命を出し、人々に信仰の対象として意味を持たせ流布させていた事は、あきらかであろう。
ひょっとすると都市伝説もその際に、まことしやかに天海僧正の名前が一人歩きし尾ひれが付いて、広まったのが真相かも知れない。
現在有名な五色不動六寺院が出そろうのが明治末年、そして「五色不動」という名称が現われたのは大正時代である。少なくとも「天海が風水に基づいて江戸防衛のために五色不動を置いた」というのは、史実ではないということが明らかだ。
江戸時代には、目白、目黒、目赤の三不動しか存在していなかったのである。それを裏付けるように、江戸切絵図には目青、目黄の文字はどこにも見られない。
また、目黒不動竜泉寺以外は、戦災以降移転を余儀なくされているが、その旧地を見てもその痕跡を今となっては何処にもみつける事は出来ない。(下記表参照)
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(出展:陰陽道とは何か 戸矢学 著PHP新書2006年)
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江戸切絵図より 目赤不動の文字が見える。
以下からは、その後追跡調査を行った際のお蔵入りのスナップ。眠らせておくには忍びないのであえて紹介
(撮影日からかなり時が過ぎている事をお断りしておく)
目白不動(旧地)新長谷寺 東京都文京区関口2丁目2(撮影:2005年5月)
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江戸切絵図 新長谷寺 目白不動とある。
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現在の同地区周辺マップ ★辺りにかつて新長谷寺があった。
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目白坂
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大泉寺
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永泉寺
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正八幡神社
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かつて新長谷寺があった辺り
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目白坂上に鎮座する“幸神社”
目青不動(旧地)正善寺 東京都港区六本木1丁目3(撮影:2005年5月)
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江戸切絵図 正善寺 この後、青山の教学院(青山墓地辺り)から現在の世田谷区太子堂へ移転
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以前、どこかのWEBからキャプチャしていた切絵図だがこちらには、“目青不動”の文字が見える。しかしこれは、編集して追記したものだろう。
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現在の同地区周辺マップ ★辺りに正善寺があったと思われる。
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霊南坂教会から桜坂周辺
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右手は、アークヒルズ
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霊南坂教会 山口百恵と三浦友和がかつてここで挙式をした事で有名
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サントリーホールとアークヒルズ 都心でも一等地の場所
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桜坂と霊南坂の中央にある“陽泉寺”江戸切絵図には、ここの名前が見られたのでだいたいの正善寺の位置が特定できた。
冒頭で、引用した「陰陽道とは何か/戸矢学著」だが、書の中で五色不動を、なかなか興味深い視点で考察されていたので紹介したい。
氏は、五色不動は風水思想で言うところの龍脈に沿って不動尊が置かれていると解いている。
そして、不動堂や五重・三重の塔が建てられている場所は“龍穴”の地なのだそうだ。
いみじくも目黄に関しては「明治以降後生のもの」と、割り切られている。
続けて、「不動堂が設置されている場所そのものは、ピン・ポイントでとらえるなら、一般の人の住まいは適当でない。そこはあくまでも「鎮護」の押さえであって、神社や寺院の建つ場所が、適当ではないのと同様だ。」
適地は、その周辺にありそれぞれの場所を特定しながら、不動堂のある周辺地域は、非常に栄えた場所であることを解いている。
なるほど!今まであるようで無かった視点でのアプローチだ。実に興味深い。
で、あるならば誰が“龍脈に沿って”これら不動堂をシカケたのだろうか?
少なくとも江戸幕末までには、目白、目黒、目赤の三不動は存在していたワケだから、明治以降の高僧か政府高官かの誰かが命を出し、人々に信仰の対象として意味を持たせ流布させていた事は、あきらかであろう。
ひょっとすると都市伝説もその際に、まことしやかに天海僧正の名前が一人歩きし尾ひれが付いて、広まったのが真相かも知れない。
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