霊石が祀られている「神社」は、けっこうありますが、それがご神体だったり昔から霊験あらたかな為非公開だったりわざわざ訪れても、なかなかお目にかかる機会は少ないのですが東京大田区大森北に鎮座する『磐井神社』には、不思議な伝承を持つ霊石が二つ存在するそうで、サクラさんも前から気になったいた場所だったので初参りがてらぶらっと詣でてみました。
いつもの新橋から都営浅草線経由で、京急大森海岸駅にて下車。最寄には、品川水族館があります。京急と平行して第一京浜をしばらく歩くと『磐井神社』があります。
大田区大森に鎮座する「磐井神社」
祭神は、応神天皇 大己貴命 仲哀天皇 神功皇后 姫大神です。
“磐井”の由緒『磐井の井戸』第一京浜歩道脇にあります。もともとは、ここも境内だったのでしょう。
由緒:
「三代実録」によれば、貞観元年(八五九)『武蔵国従五位下磐井神社官社に列す』とあり、当社を武州の八幡社の総社に定めたといわれる。
また「延喜式神名帳」に記載されている古社であり、当社の由緒書によれば、徳川家の将軍もここに参詣したことが記されている。
万葉集の「草陰の荒藺の崎の笹島を見つつか君が山路越ゆらむ」の歌にある笹島とは、ここの笹島弁天を指したものという説もある。 大田区教育委員会
延喜式神名帳荏原郡二座の一磐井神社に比定される古社で、社伝によれば、敏達天皇2年(573)の創建と伝えられています。
『三代実録』には、貞観元年(859)に武蔵国従五位下磐井神社を官社に列すとあり、この時、武州八幡社の総社に定められたそうです。今でこそ境内入り口にある鳥居ですが当時の鳥居は、沖合い(と、言っても当時は、第一京浜を挟んだすぐ先まで海岸線だった様です。)にあったようです。
“磐井”の名は『磐井の井戸』に由来するそうですが現在もある事はあるのですが、残念ながら境内を出たすぐ外の第一京浜歩道の脇ににあります。
コンクリートで固められて当事の様子を伺い知る事は出来ませんが「祈願の時に心の正しいものがこの井戸の水を飲めば清水となり、邪なものが飲むと潮水になる」
と伝えられています。
冒頭でも述べましたが、この神社には、『鈴石』と『烏石』という二つの霊石がある事でインターネットで情報収集しましたが『烏石』の写真はみつかるのですが、『鈴石』の写真はみつかりませんでした。なんでも「打つと鈴の音が鳴る」という不思議な謂れを持つ石です。しかし情報では、どちらも非公開との事…。
ここの旧社名は、「鈴ヶ森八幡宮」と呼称していたそうですが、この近くにある「鈴が森」(幽霊が出ると伝わる心霊スポット。当事の江戸罪人達の処刑場跡)は、ここの「鈴石」から由来しているんだそうです。
両方とも非公開との情報だったのですが「烏石」は、拝殿横の社務所窓から覗き見ることが出来ます。ですが、「鈴石」は、外からは見ることは出来ません。
私達は、社務所の方にお願いして拝見する事が出来ました。(とは、言っても入り口から覗き込むだけでしたが…)
石の形状は「鶏卵のようで大きさは2尺ほど、色は青赤色」と伝わりますが卵形なのは判りますが赤色かどうかまでは、判りませんでした。
神官さんに「叩くとどんな音がするのか?」恐れ多くも聞いてみましたが、叩いた事はないそうです。^^;
「烏石」の石の組成も尋ねてみましたたが詳しくは判らないとの事。また、なんでも烏が描かれている部分は「後からくっつけた様だ」ともお話されていました。
「鈴石」の由緒ですが、神功皇后が三韓征伐の際、長門国豊浦(とゆら)の砂上で見つけ、その後筑前国香椎宮に納め、後に豊前国宇佐八幡宮に遷され、神勅によって宇佐八幡の神祇伯石川年足(じんぎはくいしかわのとしたり)に授け、後に年足の孫の豊人が、延暦元年(782)に武蔵国の国司に任ぜられた際に、この石をこの社に奉納したそうです。こんな場所で「宇佐」と繋がる由緒は、実に興味深いです。
もう一つの霊石「烏石」ですが、烏の容姿が表面上部に浮き出た霊石で、こちらも出処を調べていたら面白いエピソードがありました。
この霊石は、「江戸名所図会」や「東海道名所図会」にも載るほど当時は、かなりの名所だったそうす。
もともとは、元麻布古川橋辺にあって「鷹石」と呼称していたものを、近所に住んでいた“書家松下(烏石)君岳”が購入し自分の名の号「烏石」に、変えさせたんだそうです。一旦は、赤羽の新居に移したそうですが、不朽を願って「鈴ケ森八幡」へ奉納したそうです。その際に「服部南郭」が銘を執筆し(烏石)君岳が自分の号を石に彫り付け、祠を建て神体としたと伝えているのですが…。
自分の号を刻んだ「石」を祠を建てて祀る…。その容姿から人々は珍重し彼も人々から敬われたそうですが、そもそもこの“松下君岳”という人物は、実はかなりの食わせ物だったらしいのです。
どうした手づるからか西本願寺門跡の師匠格なっていた君岳は、宝暦十一年(1761)親鸞の500回忌を期に大師号を授けられるよう関係者や朝廷に働きかけいたそうです。
しかし、結局朝廷・幕府双方から拒絶され話が頓挫しているのを知った彼は、不良公家衆と謀って、金を出せば事が円滑に運ぶと檀家や関係者を説いて回りその金を着服し、このことはすぐに発覚し同罪の不良公家衆は蟄居させられたそうです。しかしなぜか君岳の罪については、後に記された物が見つかっていないので頭のいい彼は、どうにか言いのがれて罪を逃れたのかも知れません後に再び江戸に戻った君岳について、江戸中期の幕臣“根岸鎮衛”は、逸話として「町屋の者その利を求むる工夫の事」を残しています。
江戸に戻った君岳は日本橋二丁目にある本屋「須原屋」に100両を借り受けたが、君岳には返済の当てなど無い事を見抜いていた須原屋が、君岳の住まいを訪ねて彼の書を没収し、100両以上の利益を得たという話です。
書家としては一流とみなされていた彼ですが、放蕩無頼な山師で犯罪者という一面をも併せ持つ事実は、あまり知られていないようです。
そもそも「烏石」の出処もいろいろあるうで、WEBでいろいろ調べていたら全く違う所から興味深い事実もみつかりました。以下の記述によれば、由緒にある「元麻布古川橋辺にあった」というくだりは、嘘になります。
曽谷城跡は「曽谷殿屋敷」といわれた地域で、わずかに土塁と空堀の一部が残っている。曽谷城主は国分胤鎮が同族重胤に曽谷の近在の広い土地を与え、重胤が城主となった。この孫が安国寺開山の教信だ。この城内には「曽谷のからす石」と呼ぶ、青色の石に墨で描いたような烏の形が現われた石があり、歴代城主が珍重した。曽谷氏が滅んだ後も城中に残されていたが、江戸時代の書家松下雨石はこの石に心を魅かれ、号を烏石(うせき)に改め、この石を密かに江戸に運び秘蔵したといわれる。現在、大田区大森北の磐井神社に保管されている。
月刊いちかわのエピック公式ホームページ いちかわ散歩
烏石は、社殿の横から覗き見ることが出来ます。
烏の姿は、この角度だとちょっと判りにくいです。
こちらのサイトだとはっきり判ります。
鳥居が邪魔で「烏」が、見えません
叩くと鈴の音が出る伝わる「鈴石」
社務所にお願いして撮影させて頂きました。
「笹島弁天」ここは、東海道七福神の一つ弁財天を祀ります。
万葉集に歌われた
「草陰の荒藺の崎の笹島を見つつか君が山路越ゆらむ」
の「笹島」とは、ここの笹島弁天を指したものという説があります。
いつもの新橋から都営浅草線経由で、京急大森海岸駅にて下車。最寄には、品川水族館があります。京急と平行して第一京浜をしばらく歩くと『磐井神社』があります。
大田区大森に鎮座する「磐井神社」
祭神は、応神天皇 大己貴命 仲哀天皇 神功皇后 姫大神です。
“磐井”の由緒『磐井の井戸』第一京浜歩道脇にあります。もともとは、ここも境内だったのでしょう。
由緒:
「三代実録」によれば、貞観元年(八五九)『武蔵国従五位下磐井神社官社に列す』とあり、当社を武州の八幡社の総社に定めたといわれる。
また「延喜式神名帳」に記載されている古社であり、当社の由緒書によれば、徳川家の将軍もここに参詣したことが記されている。
万葉集の「草陰の荒藺の崎の笹島を見つつか君が山路越ゆらむ」の歌にある笹島とは、ここの笹島弁天を指したものという説もある。 大田区教育委員会
延喜式神名帳荏原郡二座の一磐井神社に比定される古社で、社伝によれば、敏達天皇2年(573)の創建と伝えられています。
『三代実録』には、貞観元年(859)に武蔵国従五位下磐井神社を官社に列すとあり、この時、武州八幡社の総社に定められたそうです。今でこそ境内入り口にある鳥居ですが当時の鳥居は、沖合い(と、言っても当時は、第一京浜を挟んだすぐ先まで海岸線だった様です。)にあったようです。
“磐井”の名は『磐井の井戸』に由来するそうですが現在もある事はあるのですが、残念ながら境内を出たすぐ外の第一京浜歩道の脇ににあります。
コンクリートで固められて当事の様子を伺い知る事は出来ませんが「祈願の時に心の正しいものがこの井戸の水を飲めば清水となり、邪なものが飲むと潮水になる」
と伝えられています。
冒頭でも述べましたが、この神社には、『鈴石』と『烏石』という二つの霊石がある事でインターネットで情報収集しましたが『烏石』の写真はみつかるのですが、『鈴石』の写真はみつかりませんでした。なんでも「打つと鈴の音が鳴る」という不思議な謂れを持つ石です。しかし情報では、どちらも非公開との事…。
ここの旧社名は、「鈴ヶ森八幡宮」と呼称していたそうですが、この近くにある「鈴が森」(幽霊が出ると伝わる心霊スポット。当事の江戸罪人達の処刑場跡)は、ここの「鈴石」から由来しているんだそうです。
両方とも非公開との情報だったのですが「烏石」は、拝殿横の社務所窓から覗き見ることが出来ます。ですが、「鈴石」は、外からは見ることは出来ません。
私達は、社務所の方にお願いして拝見する事が出来ました。(とは、言っても入り口から覗き込むだけでしたが…)
石の形状は「鶏卵のようで大きさは2尺ほど、色は青赤色」と伝わりますが卵形なのは判りますが赤色かどうかまでは、判りませんでした。
神官さんに「叩くとどんな音がするのか?」恐れ多くも聞いてみましたが、叩いた事はないそうです。^^;
「烏石」の石の組成も尋ねてみましたたが詳しくは判らないとの事。また、なんでも烏が描かれている部分は「後からくっつけた様だ」ともお話されていました。
「鈴石」の由緒ですが、神功皇后が三韓征伐の際、長門国豊浦(とゆら)の砂上で見つけ、その後筑前国香椎宮に納め、後に豊前国宇佐八幡宮に遷され、神勅によって宇佐八幡の神祇伯石川年足(じんぎはくいしかわのとしたり)に授け、後に年足の孫の豊人が、延暦元年(782)に武蔵国の国司に任ぜられた際に、この石をこの社に奉納したそうです。こんな場所で「宇佐」と繋がる由緒は、実に興味深いです。
もう一つの霊石「烏石」ですが、烏の容姿が表面上部に浮き出た霊石で、こちらも出処を調べていたら面白いエピソードがありました。
この霊石は、「江戸名所図会」や「東海道名所図会」にも載るほど当時は、かなりの名所だったそうす。
もともとは、元麻布古川橋辺にあって「鷹石」と呼称していたものを、近所に住んでいた“書家松下(烏石)君岳”が購入し自分の名の号「烏石」に、変えさせたんだそうです。一旦は、赤羽の新居に移したそうですが、不朽を願って「鈴ケ森八幡」へ奉納したそうです。その際に「服部南郭」が銘を執筆し(烏石)君岳が自分の号を石に彫り付け、祠を建て神体としたと伝えているのですが…。
自分の号を刻んだ「石」を祠を建てて祀る…。その容姿から人々は珍重し彼も人々から敬われたそうですが、そもそもこの“松下君岳”という人物は、実はかなりの食わせ物だったらしいのです。
どうした手づるからか西本願寺門跡の師匠格なっていた君岳は、宝暦十一年(1761)親鸞の500回忌を期に大師号を授けられるよう関係者や朝廷に働きかけいたそうです。
しかし、結局朝廷・幕府双方から拒絶され話が頓挫しているのを知った彼は、不良公家衆と謀って、金を出せば事が円滑に運ぶと檀家や関係者を説いて回りその金を着服し、このことはすぐに発覚し同罪の不良公家衆は蟄居させられたそうです。しかしなぜか君岳の罪については、後に記された物が見つかっていないので頭のいい彼は、どうにか言いのがれて罪を逃れたのかも知れません後に再び江戸に戻った君岳について、江戸中期の幕臣“根岸鎮衛”は、逸話として「町屋の者その利を求むる工夫の事」を残しています。
江戸に戻った君岳は日本橋二丁目にある本屋「須原屋」に100両を借り受けたが、君岳には返済の当てなど無い事を見抜いていた須原屋が、君岳の住まいを訪ねて彼の書を没収し、100両以上の利益を得たという話です。
書家としては一流とみなされていた彼ですが、放蕩無頼な山師で犯罪者という一面をも併せ持つ事実は、あまり知られていないようです。
そもそも「烏石」の出処もいろいろあるうで、WEBでいろいろ調べていたら全く違う所から興味深い事実もみつかりました。以下の記述によれば、由緒にある「元麻布古川橋辺にあった」というくだりは、嘘になります。
曽谷城跡は「曽谷殿屋敷」といわれた地域で、わずかに土塁と空堀の一部が残っている。曽谷城主は国分胤鎮が同族重胤に曽谷の近在の広い土地を与え、重胤が城主となった。この孫が安国寺開山の教信だ。この城内には「曽谷のからす石」と呼ぶ、青色の石に墨で描いたような烏の形が現われた石があり、歴代城主が珍重した。曽谷氏が滅んだ後も城中に残されていたが、江戸時代の書家松下雨石はこの石に心を魅かれ、号を烏石(うせき)に改め、この石を密かに江戸に運び秘蔵したといわれる。現在、大田区大森北の磐井神社に保管されている。
月刊いちかわのエピック公式ホームページ いちかわ散歩
烏石は、社殿の横から覗き見ることが出来ます。
烏の姿は、この角度だとちょっと判りにくいです。
こちらのサイトだとはっきり判ります。
鳥居が邪魔で「烏」が、見えません
叩くと鈴の音が出る伝わる「鈴石」
社務所にお願いして撮影させて頂きました。
「笹島弁天」ここは、東海道七福神の一つ弁財天を祀ります。
万葉集に歌われた
「草陰の荒藺の崎の笹島を見つつか君が山路越ゆらむ」
の「笹島」とは、ここの笹島弁天を指したものという説があります。