続いて、神之峰から4キロ南西に行った場所に面白い謂れのある巨石があると言う情報があったので訪れてみることに。
市内を南北に縦断する県道247号(米川駄科停車場線)をイタチガ沢沿いに走り住宅地を抜け谷戸の風景が広がった場所に、尾科諏訪神社は鎮座しています。
車道よりイタチガ沢へと降りた場所に諏訪神社と文吾岩があります。(トップ写真)橋の隣に目的の巨石があったのですが、まずは神社へ参拝しに参りましょう。
参道の石段を登ります。
拝殿 本家と同じくここでも七年に一度御柱祭が執り行われているそうです。
WEB調査したのですが、特に由緒などはヒットしなかったのですが諏訪社ですので、祭神は建御名方神と思われます。
境内拝殿横にあった石碑 達筆過ぎて判読不可でした。
さて、境内を一通り散策したのち文吾岩を見に行きます。
文吾岩の由来(写真クリックで拡大)
こちらが文吾岩と呼ばれている巨石です。周囲が草で覆われて全容を見ることは叶いませんでしたが、こちらに掲載されている写真を見るとけっこう大きそうです。長さ5mくらいはありそうです。中央には伝承の由来となる盃状穴が見られます。
面白いのは、この岩に伝わる伝承なのですがラストの落ちがが微妙に異なっている点です。
「文吾は力持ちだった。たまたまこの辺りを通りかかったら、大岩が道を塞いでいた。村人たちがいくらどかそうにもびくともしなかった。大岩を天竜川の河原まで運んだ」
ここまでは、共通しているのですが案内板の由来には「大岩の上に飛びおりたら文吾の足跡と睾丸の跡が付いた」と、あります。
少々ストレート過ぎですが(^^; 別名“金玉岩”は、ここから来ています。
ですが「文吾のへそ岩」の民話では、谷に投げ込んだ大岩が谷川を堰き止めてしまい上流の家が水浸しになってしまった。そこで、文吾は再び天竜川の河原まで大岩を運んだが、その際に「文吾のへその跡が岩の中央に付いた」
と伝えています。
まぁ“金玉”では、ストレート過ぎたので「落ち」を“へそ”に変えたのは想像がつきます。
そして「尾科の文吾」では“大岩を運んだ”までで終わり途中から別の話になります。
殿様は、褒美として「腹いっぱいきな粉もちを食べたい」と言う文吾にきな粉もちを食べさせるのですが、文吾の食べること、食べること。 文吾の後ろに餅ときな粉が山のように積み上げられた。
あまりにもせわしく食べたので、腹が張って豪快な放屁を尾科に向かってしたら山盛りのきな粉が渦を巻いて空に舞い上がり文吾はその渦の中へ餅をちぎっては投げ、ちぎっては投げた。尾科の衆は、飯田の空から降ってきたきな粉もちを、大よろこびで食べた。
「落ち」が、それぞれ異なるなかなか面白い伝承をもつ大岩です。
ここでも、中央の「盃状穴」に溜まった水が「皮膚病に良く効く」と言う民間療法が伝えられています。
文吾は、実在の人物だったらしく近くには、文吾の生まれた高橋家があって、その墓地には、文吾の墓があるそうです。「尾科長常高橋豊後守」と彫られているそうです。(☞参考リンク)
【マップ】
地元の伝承って面白いですよね。
各地を訪ね歩いて謂れを聞いてなるほど!と、思うことが多々あります。
特に、巨石がらみが多いですね。
また、近況など声をお聞かせください。