日本人の手で最初に作られた海図は釜石港である。
その原版(銅製)と印刷された現物が、釜石で公開展示され、昨夜足を運んだ。
海図は明治4年に測量され、翌5年に日本初の海図第1号として刊行された。
昨夜は、それに関する講演会もあり、その歴史的背景など興味深く聞いた。
海図の原版の大きさは縦36センチ、横45センチ、36,453分の1の縮尺だ。
何故、釜石が第1号だったのかは、当時、釜石港は東京ー函館間の中間補給地点として
重要な港であったほか、洋式高炉による鉄の生産に成功し、官営製鉄所建設の動きがあった
ことから、海図第1号の対象港に選ばれたようだ。
明治4年といえば、日本初の洋式海戦が行われた宮古港海戦の2年後である。
興味深いのは、その測量船には「春日」という船が使われているが、
宮古港海戦の時は、新政府軍の軍艦として宮古港にも入港し旧幕府軍の船と戦った。
当時の「春日」には、後の日露戦争で連合艦隊司令長官となった東郷平八郎が、三等士官
として乗り組んでいた。左舷一番砲担当士官兼射士だった。
ちなみに幕府軍の「回天」には、土方歳三が乗っていた。
「回天」による「アポルタージュ」攻撃の宮古港海戦は後の箱館戦争の
明暗を分けたとも言われる海戦でもあった。
その測量船「春日」は、北海道を測量し、帰路に宮古、釜石、石巻、塩釜も測量している。
そこで気になるのは、わが宮古港の海図のことである。
第1号が釜石であるならば、他の測量した港の海図はどうだったのか。
宮古市にはそれら海図に関する資料はないが、海上保安庁の記録を調べてみると、
宮古港は北海道の野付湾についで第3号に作られている。
第3号だけにおそらく刊行された年も釜石のものと同年であると思う。
東京や函館よりも前に作られていて、第1、第3が岩手県であるというところにも興味を
惹かれる。
宮古港の第3号海図はもちろん残されていはいない。
が、釜石同様その歴史的背景を知りたいものだ。
ちなみに現在の海図番号は釜石がW1091、宮古がW1094となっている。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/01/e3/3135be184c47af72ec841c891cf8204c.jpg)
その原版(銅製)と印刷された現物が、釜石で公開展示され、昨夜足を運んだ。
海図は明治4年に測量され、翌5年に日本初の海図第1号として刊行された。
昨夜は、それに関する講演会もあり、その歴史的背景など興味深く聞いた。
海図の原版の大きさは縦36センチ、横45センチ、36,453分の1の縮尺だ。
何故、釜石が第1号だったのかは、当時、釜石港は東京ー函館間の中間補給地点として
重要な港であったほか、洋式高炉による鉄の生産に成功し、官営製鉄所建設の動きがあった
ことから、海図第1号の対象港に選ばれたようだ。
明治4年といえば、日本初の洋式海戦が行われた宮古港海戦の2年後である。
興味深いのは、その測量船には「春日」という船が使われているが、
宮古港海戦の時は、新政府軍の軍艦として宮古港にも入港し旧幕府軍の船と戦った。
当時の「春日」には、後の日露戦争で連合艦隊司令長官となった東郷平八郎が、三等士官
として乗り組んでいた。左舷一番砲担当士官兼射士だった。
ちなみに幕府軍の「回天」には、土方歳三が乗っていた。
「回天」による「アポルタージュ」攻撃の宮古港海戦は後の箱館戦争の
明暗を分けたとも言われる海戦でもあった。
その測量船「春日」は、北海道を測量し、帰路に宮古、釜石、石巻、塩釜も測量している。
そこで気になるのは、わが宮古港の海図のことである。
第1号が釜石であるならば、他の測量した港の海図はどうだったのか。
宮古市にはそれら海図に関する資料はないが、海上保安庁の記録を調べてみると、
宮古港は北海道の野付湾についで第3号に作られている。
第3号だけにおそらく刊行された年も釜石のものと同年であると思う。
東京や函館よりも前に作られていて、第1、第3が岩手県であるというところにも興味を
惹かれる。
宮古港の第3号海図はもちろん残されていはいない。
が、釜石同様その歴史的背景を知りたいものだ。
ちなみに現在の海図番号は釜石がW1091、宮古がW1094となっている。
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