復興!宮古サーモンハーフマラソン2012
ロンドンオリンピックがまもなく開会する。
ロンドンに行ったのはもう30年前の昔だが、ビックベンやバッキンガム宮殿、
ピカデリーサーカスなど懐かしい。
アビーロード・スタジオ前に行かなかったのが心残りだったが、
立ち寄ったバールで飲んだビールは旨かった。
オリンピックはすでにサッカーが始まった。
男女ともいい滑り出しだ。
これから本格的に始まる競技の数々に釘付けになりそうだ。
一昨日のTVではセーリングの女子470級の紹介を行っていた。
メダル候補として有力な種目なのだが意外と知られていない。
「ロンドンの海に日の丸を!」頑張れ、コンタバ!
さて、わが宮古地域にも過去のオリンピックや世界選手権などで活躍したアスリートたちがいる。
そんな選手たちを「みやこわがまち的オリンピックをちょっと楽しくみるためのプチ情報」
として紹介してみたい。
【オリンピック】
工藤 章 選手
76年モントリオール レスリング48キロ級フリースタイル 銀メダル (宮古高校卒)
前川 健吉選手
76年モントリオール レスリング62キロ級フリースタイル (宮古水産高校卒 現姓藤倉)
瀬川 正義選手
84年ロスアンゼルス ボクシング フライ級 (宮古水産高校卒 山田町出身)
瀬川 設夫選手
88年ソウル ボクシング フライ級 (宮古水産高校卒 山田町出身 正義選手の弟)
岡野 知幸選手
88年ソウル ボート エイト (宮古高校卒業 田野畑村出身)
湊 義雄選手
72年ミュンヘン ボート シングルスカルノ (山田町出身)
瀬川 孝喜選手
84年ロスアンゼルス 馬術 (山田町出身 現姓牧野)
三浦 国宏選手
84年ロスアンゼルス ボクシング -88年ソウル ボクシング (岩泉町出身)
【世界選手権】
日陰 暢年選手
83年モスクワ 柔道78キロ 金メダル 85年ソウル 柔道78キロ 金メダル
オリンピックはシドニー、アテネでコーチ。08年北京女子監督(重茂中卒ー国士舘高・大)
岩間 怜那選手
00年ソフィア レスリング62キロ級 銀メダル (宮古商業高校卒)
城内 史子選手
05年ドーハ ウエイトリフティング (宮古北高校卒)
佐々木昌常選手
93年ストックホルム レスリング・グレコローマン (宮古水産高校卒)
【ワールドカップ】
村上 和隆選手
94年ハンガリー レスリング・グレコローマン 銅メダル (宮古商業高校卒)
【世界ジュニア】
塚田美和子選手
92年ソウル 陸上競技・競歩 (宮古西中卒ー盛岡三)
ロンドンに行ったのはもう30年前の昔だが、ビックベンやバッキンガム宮殿、
ピカデリーサーカスなど懐かしい。
アビーロード・スタジオ前に行かなかったのが心残りだったが、
立ち寄ったバールで飲んだビールは旨かった。
オリンピックはすでにサッカーが始まった。
男女ともいい滑り出しだ。
これから本格的に始まる競技の数々に釘付けになりそうだ。
一昨日のTVではセーリングの女子470級の紹介を行っていた。
メダル候補として有力な種目なのだが意外と知られていない。
「ロンドンの海に日の丸を!」頑張れ、コンタバ!
さて、わが宮古地域にも過去のオリンピックや世界選手権などで活躍したアスリートたちがいる。
そんな選手たちを「みやこわがまち的オリンピックをちょっと楽しくみるためのプチ情報」
として紹介してみたい。
【オリンピック】
工藤 章 選手
76年モントリオール レスリング48キロ級フリースタイル 銀メダル (宮古高校卒)
前川 健吉選手
76年モントリオール レスリング62キロ級フリースタイル (宮古水産高校卒 現姓藤倉)
瀬川 正義選手
84年ロスアンゼルス ボクシング フライ級 (宮古水産高校卒 山田町出身)
瀬川 設夫選手
88年ソウル ボクシング フライ級 (宮古水産高校卒 山田町出身 正義選手の弟)
岡野 知幸選手
88年ソウル ボート エイト (宮古高校卒業 田野畑村出身)
湊 義雄選手
72年ミュンヘン ボート シングルスカルノ (山田町出身)
瀬川 孝喜選手
84年ロスアンゼルス 馬術 (山田町出身 現姓牧野)
三浦 国宏選手
84年ロスアンゼルス ボクシング -88年ソウル ボクシング (岩泉町出身)
【世界選手権】
日陰 暢年選手
83年モスクワ 柔道78キロ 金メダル 85年ソウル 柔道78キロ 金メダル
オリンピックはシドニー、アテネでコーチ。08年北京女子監督(重茂中卒ー国士舘高・大)
岩間 怜那選手
00年ソフィア レスリング62キロ級 銀メダル (宮古商業高校卒)
城内 史子選手
05年ドーハ ウエイトリフティング (宮古北高校卒)
佐々木昌常選手
93年ストックホルム レスリング・グレコローマン (宮古水産高校卒)
【ワールドカップ】
村上 和隆選手
94年ハンガリー レスリング・グレコローマン 銅メダル (宮古商業高校卒)
【世界ジュニア】
塚田美和子選手
92年ソウル 陸上競技・競歩 (宮古西中卒ー盛岡三)
「輝く五月の草原を~ さざ波遥かに渡って行く。。。」
今日は、そんな鮮やかなシーンを彷彿させる一日だった。
朝からとてもいい天気。盛岡での会議の日だったが、出発を早めて、まずは亀ケ森へ。そう目指すは一本桜。
こんな日だからこそ、見にいかなければと、車を走らせた。
すでに現地には沢山の人いた。
この桜は県内の1本桜でも有数のものだろう。素晴らしい地域資源の一つでもある。
樹齢は不明だがかなりの古木。その枝振りはなんとも言えない。
早速、写真やビデオに収めた。
桜を見た後は、源兵衞平方面へと抜けた。
ここは標高千メートルほどの高原の道。
そんな道の向こうの鮮やかな空の青さの中に、くっきりと早池峰山が、同じ目線の中に現れてきた。
ん~~絶景!絶景!
牧野に放牧されている和牛が元気にかけずり回っている。
そんな鮮やかなシーンの数々に満足しながら、気分も爽快に国道106号を駆け抜けた。
今日は、そんな鮮やかなシーンを彷彿させる一日だった。
朝からとてもいい天気。盛岡での会議の日だったが、出発を早めて、まずは亀ケ森へ。そう目指すは一本桜。
こんな日だからこそ、見にいかなければと、車を走らせた。
すでに現地には沢山の人いた。
この桜は県内の1本桜でも有数のものだろう。素晴らしい地域資源の一つでもある。
樹齢は不明だがかなりの古木。その枝振りはなんとも言えない。
早速、写真やビデオに収めた。
桜を見た後は、源兵衞平方面へと抜けた。
ここは標高千メートルほどの高原の道。
そんな道の向こうの鮮やかな空の青さの中に、くっきりと早池峰山が、同じ目線の中に現れてきた。
ん~~絶景!絶景!
牧野に放牧されている和牛が元気にかけずり回っている。
そんな鮮やかなシーンの数々に満足しながら、気分も爽快に国道106号を駆け抜けた。
新しい人生の航海に出て、今、その嵐の真っただ中にいる。
気がつけば、もう折り返し地点だ。
毎日、毎日、朝3時から4時の間に目が覚める。
これがもう1ヶ月ほど続いている。
当然、疲れてはいるが気を抜く事はもちろんできない。
だからいつも「克己」という言葉を噛み締めている。
つらい、苦しいとついつい自分に負けてしまうからだ。
沢山の人に支えられてきて、今の自分がある。
この人たちの期待に応えるためにも、負けてはいけない。
多くの人の声援と励ましの声に元気をもらっている。
目指す港のゴールはあと、もう少しだ。
風を読み、潮を読み、みんなと力を会わせてこの嵐を乗り越えて、
港に待つすべての人々の笑顔に出会いたい!
気がつけば、もう折り返し地点だ。
毎日、毎日、朝3時から4時の間に目が覚める。
これがもう1ヶ月ほど続いている。
当然、疲れてはいるが気を抜く事はもちろんできない。
だからいつも「克己」という言葉を噛み締めている。
つらい、苦しいとついつい自分に負けてしまうからだ。
沢山の人に支えられてきて、今の自分がある。
この人たちの期待に応えるためにも、負けてはいけない。
多くの人の声援と励ましの声に元気をもらっている。
目指す港のゴールはあと、もう少しだ。
風を読み、潮を読み、みんなと力を会わせてこの嵐を乗り越えて、
港に待つすべての人々の笑顔に出会いたい!
我社の近くで整備されていた宮古道路が完成したようだ。
日々その全容が見えていたが早いものだ。
明日が開通式で一般開放は午後3時からだという。
この道路は三陸縦貫自動車道の一部となるもの。
宮古の金浜地区と松山地区を結ぶ4・8キロの距離だ。
これによって国道45号の津軽石地区から国道106号の千徳地区までの距離と時間は
5・2キロと14分ほど短縮される。
我々も国道45号を使って津軽石や山田方面に向かう場合には、
花輪地区から根井沢地区を通って大回りしていたが、これでかなり利便性が良くなる。
小山田橋付近の交通混雑の緩和にもつながるだろう。
あとは、小山田橋と花輪橋の間にもう一つの橋が必要になってくるが、
いずれ将来の三陸縦貫自動車道の一歩が見えたものと歓迎したい。
日々その全容が見えていたが早いものだ。
明日が開通式で一般開放は午後3時からだという。
この道路は三陸縦貫自動車道の一部となるもの。
宮古の金浜地区と松山地区を結ぶ4・8キロの距離だ。
これによって国道45号の津軽石地区から国道106号の千徳地区までの距離と時間は
5・2キロと14分ほど短縮される。
我々も国道45号を使って津軽石や山田方面に向かう場合には、
花輪地区から根井沢地区を通って大回りしていたが、これでかなり利便性が良くなる。
小山田橋付近の交通混雑の緩和にもつながるだろう。
あとは、小山田橋と花輪橋の間にもう一つの橋が必要になってくるが、
いずれ将来の三陸縦貫自動車道の一歩が見えたものと歓迎したい。
昭和8年3月3日、午前2時30分頃に起きた地震によって、当地方は未曾有の津波惨事となった。その時、襲った津波の高さは10m。
もっとも被害にあった田老町は、数戸の民家と高地にある役場、学校、寺院を残すだけでほとんどの町が流失した。
うず高く積まれた家屋の破片と数百の死体をながめた2000余の生存者は不帰の客となった家族と明日の生活を思ってただ自失するだけだった。
港は流木の山、まちは一夜にして荒野、自然の暴威はあまりにもむごかった。
情報や防災対策も何もない時代。人々は地獄の苦しみを味わった。
あれから70余年。
奇しくも先日の大津波は、本当に忘れた頃にやってくるという教訓だった。
本日予定されていた津波避難訓練は中止となったが、またいつ来るとも分からない津波にこれからも我々は対峙していかなければならない。
チリと津波はこの地方にとっては縁が深い。
本日は、日本の防災計画を研修するため来日していたチリの関係者5人が宮古・田老を訪れ、防潮堤などの視察を行った。
母国の被害を心配しながらも、国の復興と防災のためにと先進地の計画を真剣な表情で学んでいた。
もっとも被害にあった田老町は、数戸の民家と高地にある役場、学校、寺院を残すだけでほとんどの町が流失した。
うず高く積まれた家屋の破片と数百の死体をながめた2000余の生存者は不帰の客となった家族と明日の生活を思ってただ自失するだけだった。
港は流木の山、まちは一夜にして荒野、自然の暴威はあまりにもむごかった。
情報や防災対策も何もない時代。人々は地獄の苦しみを味わった。
あれから70余年。
奇しくも先日の大津波は、本当に忘れた頃にやってくるという教訓だった。
本日予定されていた津波避難訓練は中止となったが、またいつ来るとも分からない津波にこれからも我々は対峙していかなければならない。
チリと津波はこの地方にとっては縁が深い。
本日は、日本の防災計画を研修するため来日していたチリの関係者5人が宮古・田老を訪れ、防潮堤などの視察を行った。
母国の被害を心配しながらも、国の復興と防災のためにと先進地の計画を真剣な表情で学んでいた。