本日の新聞に宮古港にカーフェリー誘致をめざす構想の記事が掲載された。
その内容は
「東日本大震災からの復旧に伴う県内重要港湾の効率化や役割見直しなどをトータルで検討する
「戦略」に盛り込み、今秋にも研究会を発足させる。「復興道路」として沿岸縦軸、内陸と結ぶ
陸路ともに改善が図られる中、カーフェリー就航が実現すれば、観光や物流活性化への波及効果
は計り知れない。」と言うものだ。
今から20年ほど前、私は「明日の宮古・下閉伊を考える会」の一員として各種まちづくり運動に
携わっていた。昭和から平成に元号が変わる前後の年にかけて、私たちも本日のこの記事のよう
に「岩手の海の玄関口として宮古港にフェリーの就航を」という壮大なテーマを掲げて運動をし
ていた。
そのきっかけは昭和62年に発刊された『岩手・21世紀の展開』(伊五沢次夫氏著)という
本だった。430ページにもおよぶ膨大な構想の中に「宮釧フェリー航路」というわずか10行ばか
りの提言があった。
岩手沿岸の活力は国道106号を活かすこと。この道路を利用し、宮古ー釧路間をフェリーで結ぶ
ことが港湾振興や観光、物流における地域活性化につながる、というものだった。
幸い、宮古沖には東京ー釧路を結ぶ近海郵船フェリーが就航していた。
これを生かす手はない。
会ではこれを宮古に寄港させ、東京ー宮古ー釧路というコースで就航させることが出来たらと
早速、勉強会を開き、その構想を実現させるための行動に移った。
最初の行動は、無謀にもまず近海郵船の会社を訪れ、直接寄港をお願いするというものだった。
私は釧路の会社にメンバーらと出向いた。
フェリー就航の効果として、
1港湾を利用した物流関連企業の立地
2物流の活性化で盛岡ー宮古間の国道106号の国直轄管理整備で時間短縮
3陸中海岸と北海道東を結ぶ新しい観光ルート開発、海からの観光客誘致などがあった。
幹部が対応してくれたが、もちろんいい返事はもらえない。
何も裏付けもない任意団体のこんな要望を簡単に受け入れる訳がない。当然のことだった。
その席上で、幹部から「ならば宮古から船をチャーターして一度来てみては」という、
ハードルの高い要望が出された。
会ではこれを持ち帰り、構想を練った。
リーダーのK氏が大胆にも客船をチャーターして釧路に乗り込もうという案を出した。
その大胆な発想は、それから一年半後の平成元年9月、「陸中・釧路交流の船」として実現した。
客船「にっぽん丸」をチャーターし、県内外から420人が乗船した。
このイベントは釧路との交流を深め、民間の青年団体の事業としても成功し、次なるフェリー寄港
へのステップとなった。
この事業が弾みとなってフェリー寄港の機運は一気に高まった。
平成2(90)年9月22日、フェリー定期航路開設の夢を乗せて市民待望の近海郵船フェリー「サブリナ」
(12500トン)が臨時試験入港した。
宮古港での盛大な入港歓迎式が行われ、フェリーは一般観光客、北方領土視察団、乗船モニターなど
宮古から145人を乗せて釧路へ向かった。
11時間後の朝には釧路に到着。早速、岩手物産祭りやみなとみらいシンポジウムなど開催した。
それから数年間、フェリーは何度か試験寄港を繰り返した。行政も小学生を対象にした
「親子ふれあいの船」の事業や中学生の修学旅行にも使用した。
しかし、定期航路の開設はフェリー航路が1999年で廃止という形となり、あえなくその夢は途絶えたのである。
そして再び巡ってきたカーフェリー構想。
復興の新しい形として、その実現には大きな期待が寄せられるものだ。
先日の客船入港の際にもフェイスブックに書いたが
「港が真に豊かに国際社会に船出するためにも、単なる海沿いのまちということではなく、
その港町の生まれた歴史を今に知らせ、これからの港湾、みなと宮古の潮気あるまちづくりを
考えていかなければならない。復興後こそ、人、モノ、情報があふれるみなとまちを目指すべき」
と考えている。
その内容は
「東日本大震災からの復旧に伴う県内重要港湾の効率化や役割見直しなどをトータルで検討する
「戦略」に盛り込み、今秋にも研究会を発足させる。「復興道路」として沿岸縦軸、内陸と結ぶ
陸路ともに改善が図られる中、カーフェリー就航が実現すれば、観光や物流活性化への波及効果
は計り知れない。」と言うものだ。
今から20年ほど前、私は「明日の宮古・下閉伊を考える会」の一員として各種まちづくり運動に
携わっていた。昭和から平成に元号が変わる前後の年にかけて、私たちも本日のこの記事のよう
に「岩手の海の玄関口として宮古港にフェリーの就航を」という壮大なテーマを掲げて運動をし
ていた。
そのきっかけは昭和62年に発刊された『岩手・21世紀の展開』(伊五沢次夫氏著)という
本だった。430ページにもおよぶ膨大な構想の中に「宮釧フェリー航路」というわずか10行ばか
りの提言があった。
岩手沿岸の活力は国道106号を活かすこと。この道路を利用し、宮古ー釧路間をフェリーで結ぶ
ことが港湾振興や観光、物流における地域活性化につながる、というものだった。
幸い、宮古沖には東京ー釧路を結ぶ近海郵船フェリーが就航していた。
これを生かす手はない。
会ではこれを宮古に寄港させ、東京ー宮古ー釧路というコースで就航させることが出来たらと
早速、勉強会を開き、その構想を実現させるための行動に移った。
最初の行動は、無謀にもまず近海郵船の会社を訪れ、直接寄港をお願いするというものだった。
私は釧路の会社にメンバーらと出向いた。
フェリー就航の効果として、
1港湾を利用した物流関連企業の立地
2物流の活性化で盛岡ー宮古間の国道106号の国直轄管理整備で時間短縮
3陸中海岸と北海道東を結ぶ新しい観光ルート開発、海からの観光客誘致などがあった。
幹部が対応してくれたが、もちろんいい返事はもらえない。
何も裏付けもない任意団体のこんな要望を簡単に受け入れる訳がない。当然のことだった。
その席上で、幹部から「ならば宮古から船をチャーターして一度来てみては」という、
ハードルの高い要望が出された。
会ではこれを持ち帰り、構想を練った。
リーダーのK氏が大胆にも客船をチャーターして釧路に乗り込もうという案を出した。
その大胆な発想は、それから一年半後の平成元年9月、「陸中・釧路交流の船」として実現した。
客船「にっぽん丸」をチャーターし、県内外から420人が乗船した。
このイベントは釧路との交流を深め、民間の青年団体の事業としても成功し、次なるフェリー寄港
へのステップとなった。
この事業が弾みとなってフェリー寄港の機運は一気に高まった。
平成2(90)年9月22日、フェリー定期航路開設の夢を乗せて市民待望の近海郵船フェリー「サブリナ」
(12500トン)が臨時試験入港した。
宮古港での盛大な入港歓迎式が行われ、フェリーは一般観光客、北方領土視察団、乗船モニターなど
宮古から145人を乗せて釧路へ向かった。
11時間後の朝には釧路に到着。早速、岩手物産祭りやみなとみらいシンポジウムなど開催した。
それから数年間、フェリーは何度か試験寄港を繰り返した。行政も小学生を対象にした
「親子ふれあいの船」の事業や中学生の修学旅行にも使用した。
しかし、定期航路の開設はフェリー航路が1999年で廃止という形となり、あえなくその夢は途絶えたのである。
そして再び巡ってきたカーフェリー構想。
復興の新しい形として、その実現には大きな期待が寄せられるものだ。
先日の客船入港の際にもフェイスブックに書いたが
「港が真に豊かに国際社会に船出するためにも、単なる海沿いのまちということではなく、
その港町の生まれた歴史を今に知らせ、これからの港湾、みなと宮古の潮気あるまちづくりを
考えていかなければならない。復興後こそ、人、モノ、情報があふれるみなとまちを目指すべき」
と考えている。