みやこ海風だより

市議会報告からNPO活動、海を活用したまちづくり、文化創出のまちづくりをベースにしたつぶやきです。

ジュニアヨットはどこに行った

2011-04-26 22:45:24 | Weblog
久しぶりに宮古ジュニアヨットクラブの子どもに会った。

この春から6年生になった2人だ。

「もうヨットがないんだって?」と聞く2人。

子どもたちはあの津波によって壊滅的となったヨットハーバーの惨状を見ていない。

しかし、ハーバーがなくなって、OPをはじめとするヨットすべてが無くなったのは知っているようだ。

「ヨットやりたいけど、艇がないけどどうする?」

「ん~~、でもヨットやりたい」

いつもなら今頃からシーズンが始まる。

だが、今年は一体いつスタート出来るのか皆目検討もつかない。

この子たちの希望をどうつなげていこうか。

今、全く方向性が見えない。

明日からでも流されたOPを探しにいこうか、

探す艇も無い中で気ばかりあせっている。

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宮古ジュニアは1997年に設立した。東北でも後発のクラブだ。

レース主体ではなく、ヨットを学ぶ楽しさ、海で遊ぶ楽しさを伝えるクラブとして時を刻んできた。

ヨットはすべてクラブ艇。

昔、昔、連盟に配艇となった801,802,803のOPで活動をスタート。

その後木製の手作りOPを2艇製作。ネットで中古2艇を購入。

さらに東北のクラブから使わなくなったものを譲り受けた。

知人から使わなくなったミニホッパーを提供してもらい、

救助艇も和船を見つけて何とかクラブとしての形を整えてきた。

クラブ員も増え、毎年平均15人がいた。

ある企業の支援によって念願のOPと呼べる新艇を購入したのは今から5年前。

オ~~これが正しいOP級か、、と皆で喜び合ったものだ。

レースに出るのは東北大会のみ。それも年1回だけ。この大会しかないからね。

それを楽しみに活動してきた。成績なんて二の次、遠征でいろんな体験をすることが楽しみだった。

友だちも沢山できた。

そしてこんな小さなクラブでも、なんと国際交流も行う事ができた。

2004年から6年間、ニュージーランドのヨットクラブと交流してきた。

ヨットを通して海外にも友だちが出来た事はクラブの自慢だった。

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それがあの日を境に、すべてが変わった。

これまで築き上げてきた全てのモノが、忽然と姿を消した。

大好きな海がすべてを奪った。

しかし、海に背を向けることは出来ない。

これからも海を恐れず、海を拓いていかなければ。

ハーバーで見つけたモノは、国際信号機のAP旗と数字旗の3だった。

今度のスタートまでは3分?3ヶ月、3年。。。か。

それを暗示するフラッグだったのかも知れない。

希望を捨てずに頑張っていこう。










震災特集号を発行して

2011-04-20 22:15:45 | Weblog
震災後、いろんな活動を行っている。

いろいろ関わる活動が多いので、その関係団体に合わせて使いパシリから、

労力奉仕、要望活動など、ありとあらゆるものに首を突っ込んでいる。

そんな状況の中で、実は大事なことが一番後回しにされていた。

それは私たちの生業であるタウン誌発行のことだった。

震災後は、完全に業務が停滞し、発行するメドが立たなかった。

スポンサーもほとんど被災、印刷所も停滞。外部執筆者たちも原稿を書いてくれるような状態ではない。

一時は休刊も考えた。

しかし、そんな中でもとにかく被災したまちの写真を撮り続けることは行っていた。

先が見えない中にあって、その記録を残す事がやはり郷土誌の使命であるとの思いは持ち続けていた。

悶々とした日々が続く中で思った。

「今、私たちが出来ること」それはやはりタウン誌の発行だった。

採算は取れないが、この惨状を後世に伝える一冊にしようと、

震災特集の特別号として急きょ編集に取り組んだ。

それがやっとのこと本日完成し、発行に漕ぎ着けることが出来た。

そのことを知ったNHKが取材に来た。テレビ中継で発行のことが知らされると、

思ってもみなかった反響が次々と寄せられた。

購読希望者の電話が東北各地からも寄せられたほか、テレビを見た新聞各社も取材に来た。

ほとんどアポなし。IBCラジオのインタビューもあり、大変な一日となった。

本屋ではすでに予約が殺到してるなど、想像以上の反響に今はとにかく発行してよかったと思っている。



震災から1ヶ月で思う事

2011-04-11 21:53:52 | Weblog
あの日から1ヶ月となった。

地震発生の2時46分、サイレンと同時に尊い命を失った人たちに黙祷を捧げた。

幼い頃からの大親友、叔母、仕事仲間、知人。。。それぞれの顔が浮かび上がってきた。

目を閉じると涙がこぼれ落ちる。しっかりと目を開き、上を向いてその冥福を祈った。



写真の時計の針は、津波が来た時の時間だ。あれ以来止まったままにある市役所の会議室の時計だ。

地震の時間、そして津波の時間、我々は決して忘れることはないだろう。

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海が大好きだった友は、船も大好きだった。

震災がなければ私の家族と友の家族でこの5月、客船に乗ってクルーズする予定だった。

しかし、楽しみにしていたクルーズは実現することが出来なくなった。

友の棺には、乗る予定だった客船の写真を入れてあげた。

きっとこの船で、今どこかの海を航海していることだろう。

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宮古湾に白い帆が浮かぶのはいつの日か。

復興のシンボルはやはりこの宮古湾に浮かぶ白いヨットの姿だ。

ジュニアや高校生たちの夢や希望をなくしてはいけない。

この子たちのためにも未来に向かって、時間がかかろうともいつか失ったものを取り戻していきたい。

あの日の宮古湾で練習していたのは宮古商業ヨット部だった。

毎日新聞でその奇跡の生還劇が報道されたが、神風のお陰でもあったと同時に、

ハーバー職員との見事な連携による避難劇だったことは知られていない。

最悪の状況下で最善の策を見事に発揮し、難局を乗り切ったものだ。

いかにリスクマネージメントが大事だったか、

あの勇気ある行動でリスクを回避できたことに改めて感謝したい。

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悲しみの中にも嬉しい話もある。

震災のお陰で思いがけない人との出会いもあった。

それは20年ぶりの事であり、遠く海外のアメリカ在住の人とだった。

震災後、私たちは地域住民の支援のためにさいがいFM局を立ち上げ、身近な情報を伝える活動を行っている。

その活動をニューヨークタイムスが取材に来た。海外からもメディアが来るほどこの震災の被害は甚大なものだった。

その取材された新聞が昨日、私の手元に届いた。それは新聞社からではなく、アメリカ在住の女性からだった。

彼女は20年前、宮古で英語を教師をしていた。日本文化の俳句にも興味を持ち、私の主宰する雑誌に俳句とコラムを寄せていた。

1年ほどの付き合いだったが、帰国後はその消息は不明で交流することもなかった。

そんな折り、その記事の中に私の名前があったことから驚き、いろんな人を経ながらこの新聞を送ってくれたようだ。

新聞は発行日から約2週間で私のところにたどり着いた。

手紙も入っていて、どうやら私の安否を気遣ってグーグルで検索していたようだ。

彼女の存在は記憶から遠ざかっていたが、こうした再会に何か明るい気持ちにもなった。

これもグローバル化時代ならではのものか。新たな再会にも感謝したい。

私たちは決して一人ではない。多くの人とつながっていることをこの震災を通して実感している。



宮古の被災状況

2011-04-07 14:57:09 | Weblog
4月7日現在

死者 386人 負傷者 33人 行方不明者 1301人

家屋倒壊数 4675(全壊、半壊) 一部破損 176 床上浸水 1760 床下浸水 323
計6934

避難者数 3546人(避難箇所数42)

電力/向町、本町、藤原地区が通電作業中、鍬ヶ崎地区の建柱、通電作業継続中

上下水道/市内の約97%で給水が復旧 給水車巡回は金浜地区
 現在の断水地区は鍬ヶ崎下町 鮹の浜町 山根町 金浜 重茂 川代 田老館が森 

通信/宮古局が復旧 小堀内局 重茂局は復旧作業中


津波 先人の教え

2011-04-01 09:52:18 | Weblog
昨日、太平洋に面した重茂半島の漁村を取材してきた。

震災後、道路も復旧したというので、音部、里、姉吉、千鶏地区を回ってきた。

鍬ヶ崎や田老地区と同じように、漁村の町はほぼ壊滅的だった。

しかし、この半島は過去の津波の教訓を生かし、高台地域に多くの家が建てられている。

そのため被害にあったのは低い平地にある家屋や漁業施設が中心だった。

昨日も家族が見守る中、瓦礫に埋もれた住居跡で自衛隊による行方不明者の捜索が行われていた。

本当に胸が痛む思いだ。



宮古市内には明治29年、昭和8年の大津波に関係する石碑が47基ほどある。

足を運んだ半島南にある姉吉地区は十数世帯の小さな集落だが、

ここは奇跡的に一つも家屋が流されることはなかった。

それは先人による教えが守られていたからである。そのことがこの写真の石碑に

刻まれていた。昭和8年の津波のあとに建立されたものだ。

「明治29年も此処まで波が来て、は全滅し生存者は僅かに前二人、後に四人のみ、

幾歳経るとも、用心何より」「高き住居は児孫の和楽 想え惨禍の大津波 此処より

下に家を建てるな」

とある。


石碑は浜から約800メートルほど上部にある。

確かにこの石碑から下に人家はなかった。

浜まで降りてみた。

大きくS字に曲がりくねった急峻な谷間にある沢沿いの道だが、

津波はこの石碑の下の所まで来ていたことに驚いた。

それは巨大なエネルギーとなって、この谷間の道を一気に駆け上がってきたものだ。

周りの風景がそれを物語っていて、その恐ろしさに何故か身震いした。

先人の教えは尊い。