みやこ海風だより

市議会報告からNPO活動、海を活用したまちづくり、文化創出のまちづくりをベースにしたつぶやきです。

1期4年を終えて

2014-03-14 21:24:01 | 議会のことなど
2月17日から始まった3月議会定例会も昨日で終了した。

今回は26年度予算、25年度の補正、震災関連の各種事業、予算について市当局との真剣な意見が交わされた。

最終日は午後6時近くまで審議が行われ、すべての議案審議を無事終えることが出来た。

とても長く感じた定例会だった。

これをもって4年の任期が終了する。振り返ればあっという間の4年だった。

自分にとって1期目は、いろんなことを勉強させられるものだった。

行政との関係や議会運営の仕組み、議員としての義務や権利などなど学ぶものは多かった。

委員会、研修会、視察、シンポジウムなど、まちづくりや自己研鑽に関わるすべてのもの

それら時間に追われながらの活動もそれなりに充実したものだった。

一方では新人としてはなかなか理解がしにくい議会運営など、改革の必要性を感じるものも多々あった。

そうした中で一般質問は毎回欠かさず行うことが出来た。

毎回の質問は私の議員としての責務であり、16回もの質問が出来たことは自分としては満足している。

市民の声をつなぎ、意見や提言を行い、実現できた政策もあったほか、出来なかったものもあり課題もそれなりに残った。

これらをどう次期につなげていくか、さらなる努力を重ねていかなければならない。

そんな中での1年目にしての未曾有の大震災との遭遇は、本当に大変な出来事であった。

その震災からの復旧、復興を目指して多くの議員が奔走しながら多くの議論を交わしてきた。

その災害を乗り越えながら、次期の選挙戦を迎えることになった。

前回は多くの方の支援をいただき議席を得る事ができた。

「初心忘るべからず」ー。

次期も必勝を期して戦い、再びこの議席に戻ってきたいと思う。

ちまたでは定数不足と噂されるが、市民の選択を受けての議会になることを望んでいる。


【1期目の議会所属委員会】
 教育民政常任委員会(24年4月まで)
 総務常任委員会(24年5月~)
 議会広報編集特別委員会(22年5月~、委員長25年6月~)
 鉄道復興対策特別委員会(25年12月まで)

 


JR岩泉線廃線について

2013-11-11 21:31:17 | 議会のことなど
JR岩泉線の廃止については、すでに報道されているが、本日、改めて議会に報告された。

それによるとまず合意までの経過であるが、

10月25日 岩手県、宮古市、岩泉町による三者協議
11月5日 岩手県に対し、宮古市、岩泉町から岩泉線廃線受け入れの意向を伝達
11月7日 岩手県、宮古市、岩泉町、JR東日本による四者協議
     岩泉線の廃線受入と、これに伴う代替輸送及び国道340号道路改良に関する基本的事項を合意し覚書
を締結

合意内容(覚書)の要点は以下のとおり

◎代替バスの運行
 代替バスの運行確保についてはJRが支援・協力を行う。
 代替バスの運行区間は茂市駅~岩泉駅間を基本とし、運行本数等のサービス水準は現行鉄道水準を基本とする。
 JR岩泉線の廃止日は、平成26年4月1日を予定する。

◎国道340号線押角峠道路改良事業、鉄道用地等の取扱い
 岩手県が実施する国道340号押角峠の道路改良事業に対し、JRは、押角トンネル等の資産を岩手県に無償譲渡
 するとともに、一定の(20億円)資金協力を行う。
 鉄道用地等は、一部の河川・道路占用橋を除き、茂市駅~和井内駅間を宮古市に、浅内駅~岩泉駅間を岩泉町
にそれぞれ無償譲渡する。

この内容でポイントになるは、
バスは国道340号を走るが、最大の難所である押角峠では岩泉線の押角トンネル(約3キロ)を活用すること。
トンネルは県に無償譲渡され、県が片側1車線道路に改良する。工事費は70億円。JRが最大20億円を負担する。
それに伴い国道340号が改良されることになる。

340号は沿岸地域における生活道路として、また防災や地域間交流の大きな役割を担っている路線。









ICTを活用した教育について

2013-08-06 16:03:15 | 議会のことなど
ICT(情報通信技術)活用の教育が注目される中、宮古市でもタブレット型情報端末iPadを8月9日から、

市内の小学校10校に設置されている特別支援学級16学級に配備することが決まった。

支援が必要とされている児童生徒へのICT活用の有効性は、さまざまなところで実証されている。

こうした端末の活用は学習活動における自立を助けるものにもなり、さまざまなソフトを活用して

表現やコミュニケーションを図る道具としての活用も期待されるものだ。

このICT活用の教育推進については6月議会での一般質問で行った。

その結果、電子黒板も含め年度内に配備されるとの答弁があった。

現代社会は身近にパソコンやスマートフォンなどが普及し、情報通信技術なくして社会が成り立たない

状況でもあり、これからの高度情報社会を担う人材の育成が重要課題であると考える。

国が2011年4月に策定した「教育の情報化ビジョン」においては、「子どもたちの情報活用能力」

「教科指導におけるデジタル教科書・教材や電子黒板などを効果的に活用したわかりやすく、

深まる授業の実現」「教員の校務の情報化」の3点を通して、教育の質の向上を目指すとしている。

これは教育の情報化による学びのイノベーションであり、21世紀を生きる子どもたちに求められる力を育む

教育を行うためには、子どもたちの学習や生活の主要な場である学校において、教育の情報化を推進するということである。

このようなICTを活用した取り組みをすることは、子どもたちの学力の向上や国際感覚を身に付け、養う機会にも繋がる。

しかし、ICTは目的ではなく手段である。あくまでも子どもたちのために行う教育を推進することであり、

それを教育的にどう活用していくかが大切なことであるろう。


海の日に思う

2013-07-16 17:00:06 | 海だより
 暑い日が続いたり、少し肌寒い日となったりしている昨今だが、やはり夏は暑いに限る。
夏と言えば海である。私たちの子ども時代の夏休みは連日海で泳いでいた。
藤原須賀、磯鶏須賀をゲレンデに、一番岩、二番岩、三番岩など目指して泳いでいたものだ。
 一方、宮古湾での夏の風物詩と言えば高校生たちの遠泳大会だった。
隊列を組み、先生たちの監視下のもとで、長い距離を泳いでいた。
 須賀や宮古湾には『われは海の子』と、浜辺で育った子どもたちの当たり前の姿があった。
しかし、近年は海で遊び、海から多くのものを学んでいた子どもたちの姿を見かけることが少なくなった。
 かつて海国日本と言われた国も、今の日本人は一体どれくらい海に関心をもっているのだろうか。
観光やレジャー等で親しみはもっているものの、海で生計を立てている人以外は、
関心の度合いは少ないのではないだろうか。
 時代は変わった。唱歌「『われは海の子』も学校で歌われなくなったという。
日本人の心情やふるさとの風景を思うとき、この歌の似合う季節と、子どもたちの姿が海に戻ってきてほしいと
願うものである。

 この海の日の前後に、北海道苫小牧市で開催された「みなとオアシスsea級グルメ全国大会」に参加してきたほか、
翌日には第21回目となる宮古港での海の日記念カッターレースに出場。
自分なりに海の日にふさわしい充実したひとときを過ごす機会を得た。
 苫小牧は開港50周年ということで、ウォーターフロントの広場でsea級グルメ大会の開催や、
帆船「海王丸」が接岸し、セイルドリルなど展開、多くの来場者で賑わった。
宮古港カッターレースは東日本大震災から3年ぶりの開催ということで、
地域の仲間に復興の海へ繰り出そうと出場を呼びかけた。
 「津波を憎んでも、海は憎まず」と、素人ながらも全員で渾身の力を込めて完走した喜びに絆も深まった。
 海や港をロケーションとしたイベントは多様な年齢層の人々が、こうした機会を通して海や港へ関心を持つ事を促し、
交流人口の拡大にもつながると考える。「経済活動に限られた海の利用」から「海への親しみを共有する意識の醸成」
を経て、多くの住民が「海を楽しむ」状況を生みだすものでもある。
 地域が個性ある発展を将来にわたり着実に進めるためには、地域の持つ海や港といった資産を
住民、市民の視点から再評価することであろう。そのためには観光産業や水産業などの地域産業と連携し、海に開かれた
特性など港の資産を最大限に活用し、美しく活力のあるウォーターフロント空間を形成することが必要である。
 「海の日」を機に、みなとまちの元気の源を地域住民とともに考えていきたい。


Sea級グルメ全国大会へ

2013-06-11 15:41:19 | 海だより
【みなとオアシスSea級グルメ全国大会へ】

海に関する食材を使った自慢料理を競い合う「Sea級グルメ全国大会」に出品する宮古市の予選会が

このほど開かれ、「鮭のメンチカツ」と「あんかけウニ飯」がグランプリを獲得した。







7月に行われる北海道苫小牧市の全国大会に「鮭のメンチカツ」が、

8月の大分市の全国大会には「あんかけウニ飯」が市を代表してそれぞれ出品する。




コンテストは2年前から、「みなとオアシス」の施設を持つ地域が海産物にちなんだご当地グルメを

「Sea級グルメ」と名付け全国から出品者を募って開催している。

宮古市では昨年、市観光協会が「わかめひっつみ」で小名浜での大会に初出品。



今回は市内の飲食店関係、水産加工会社等に広く参加を呼びかけ予選会としての

「宮古市Sea級グルメコンテスト」を行った。予選会には6店舗、13品が出品された。

その結果、丸友しまかの、秋サケを原料に牛乳や天然酵母パン粉、ナチュラルチーズ等で練り上げ

ミンチにして衣づけした「鮭のメンチカツ」と、浄土ヶ浜旅館のウニご飯をおむすびにして、

磯の香味をあんかけにした「あんかけウニ飯」の2品がグランプリに輝いた。

全国大会では被災地、宮古の元気と豊富な食材による美味しさをぜひアピールしてほしい。

カーフェリー構想に思う

2013-04-19 15:12:33 | 議会のことなど
本日の新聞に宮古港にカーフェリー誘致をめざす構想の記事が掲載された。
その内容は
「東日本大震災からの復旧に伴う県内重要港湾の効率化や役割見直しなどをトータルで検討する
「戦略」に盛り込み、今秋にも研究会を発足させる。「復興道路」として沿岸縦軸、内陸と結ぶ
陸路ともに改善が図られる中、カーフェリー就航が実現すれば、観光や物流活性化への波及効果
は計り知れない。」と言うものだ。

今から20年ほど前、私は「明日の宮古・下閉伊を考える会」の一員として各種まちづくり運動に
携わっていた。昭和から平成に元号が変わる前後の年にかけて、私たちも本日のこの記事のよう
に「岩手の海の玄関口として宮古港にフェリーの就航を」という壮大なテーマを掲げて運動をし
ていた。

そのきっかけは昭和62年に発刊された『岩手・21世紀の展開』(伊五沢次夫氏著)という
本だった。430ページにもおよぶ膨大な構想の中に「宮釧フェリー航路」というわずか10行ばか
りの提言があった。
岩手沿岸の活力は国道106号を活かすこと。この道路を利用し、宮古ー釧路間をフェリーで結ぶ
ことが港湾振興や観光、物流における地域活性化につながる、というものだった。
幸い、宮古沖には東京ー釧路を結ぶ近海郵船フェリーが就航していた。

これを生かす手はない。
会ではこれを宮古に寄港させ、東京ー宮古ー釧路というコースで就航させることが出来たらと
早速、勉強会を開き、その構想を実現させるための行動に移った。

最初の行動は、無謀にもまず近海郵船の会社を訪れ、直接寄港をお願いするというものだった。
私は釧路の会社にメンバーらと出向いた。
フェリー就航の効果として、
1港湾を利用した物流関連企業の立地
2物流の活性化で盛岡ー宮古間の国道106号の国直轄管理整備で時間短縮
3陸中海岸と北海道東を結ぶ新しい観光ルート開発、海からの観光客誘致などがあった。

幹部が対応してくれたが、もちろんいい返事はもらえない。
何も裏付けもない任意団体のこんな要望を簡単に受け入れる訳がない。当然のことだった。
その席上で、幹部から「ならば宮古から船をチャーターして一度来てみては」という、
ハードルの高い要望が出された。

会ではこれを持ち帰り、構想を練った。
リーダーのK氏が大胆にも客船をチャーターして釧路に乗り込もうという案を出した。
その大胆な発想は、それから一年半後の平成元年9月、「陸中・釧路交流の船」として実現した。
客船「にっぽん丸」をチャーターし、県内外から420人が乗船した。
このイベントは釧路との交流を深め、民間の青年団体の事業としても成功し、次なるフェリー寄港
へのステップとなった。

この事業が弾みとなってフェリー寄港の機運は一気に高まった。
平成2(90)年9月22日、フェリー定期航路開設の夢を乗せて市民待望の近海郵船フェリー「サブリナ」
(12500トン)が臨時試験入港した。
宮古港での盛大な入港歓迎式が行われ、フェリーは一般観光客、北方領土視察団、乗船モニターなど
宮古から145人を乗せて釧路へ向かった。
11時間後の朝には釧路に到着。早速、岩手物産祭りやみなとみらいシンポジウムなど開催した。

それから数年間、フェリーは何度か試験寄港を繰り返した。行政も小学生を対象にした
「親子ふれあいの船」の事業や中学生の修学旅行にも使用した。

しかし、定期航路の開設はフェリー航路が1999年で廃止という形となり、あえなくその夢は途絶えたのである。

そして再び巡ってきたカーフェリー構想。
復興の新しい形として、その実現には大きな期待が寄せられるものだ。

先日の客船入港の際にもフェイスブックに書いたが
「港が真に豊かに国際社会に船出するためにも、単なる海沿いのまちということではなく、
その港町の生まれた歴史を今に知らせ、これからの港湾、みなと宮古の潮気あるまちづくりを
考えていかなければならない。復興後こそ、人、モノ、情報があふれるみなとまちを目指すべき」
と考えている。










FM局の開局を夢みてーあれから20年

2013-03-23 10:21:29 | ラジオの時間
平成4年に制度化されたコミュニティFM放送局。

それを受けてこの宮古でも設立したいと思い立って20年。紆余曲折しながらもやっと設立の運びとなった。

当時30代だった私は、いろんな人に創設の思いを伝えながらそれなりの活動をやってきた。

当初は1999年の岩手インターハイ開催時に合わせての開局を目指すことを狙いに、コミュニティ放送全国サミットに出席したり、

東北各地の放送局を視察したり、商店街の人たちと勉強会を開いたりしながら自分なりの夢を追っていた。

しかし、なかなか多くの賛同や理解は得られずに実現には至らなかった。

その後、しばらく活動が停滞したが2002年に海からのまちづくりを目的にしたNPOを設立した際に、

再度「市民情報の共有化」「地域の防災」に役立てたいとの思いから、その事業の中に組み込んだ。

そして2006年からミニFMを活用した「ハーバーラジオ」を開設し、社会実験を開始した。

小さな歩みではあったが再び夢に向けて動き出す事ができた。

社会実験を通じて、徐々に多くの人にその有用性を理解してもらった。

次はNPOの枠を超えて多くの市民を巻き込んだ活動にしていかなければと2010年「宮古コミュニティ放送研究会」を設立。

多くの仲間が賛同してくれて新たなスタートを切った。

幸いにも1999年同様、2011年には北東北インターハイのヨットとレスリングが宮古で開催されることから、

この全国規模のイベントを機に、これらの放送を経てコミュニティ放送局設立への機運を高める計画でいた。

インターネット放送で運営を開始しながらインターハイ放送へ向けて準備を進めていたところにあの大震災が起きた。

2011年3月ーみやこ災害FM局は、そうした背景があったからこそ、発災後10日で起ち上がることが出来た。

放送機材を設置し、第一声を届けたあの日を決して忘れない。高校生や一般のボランティアが沢山集まってくれて、

あの惨状の中で多くの情報を収集しながら毎日、毎日放送を続けた。

未曾有の災害の中で、いかに情報が大事かということを知らされた市民や行政、さらに今後の地域振興を図る上でも必要なツール

ということが、この災害FMを通じて多くの人に認識されるにまで至った。

行政としては震災前、FMの情報化整備には積極的ではなかった。災害に対する情報化への対応の認識も薄かった。

しかし、結果としてあれから2年ー。ラジオが防災の力になることが認識され、市民運動としての結果が大きな力へと働いたのも事実だ。

多くの人に支えられながらの放送が国からも認められ、やっと念願のコミュニティ放送局へと移行することになった。

昨日、株主総会が開かれ宮古エフエム放送株式会社が誕生した。奇しくも災害FMの放送を開始した同じ日である。

会社設立は、力強い情熱的な仲間の存在があったからこそ出来たものだと思っている。

長年の思いを受け止め、精力的に積極的に動きながら、新しい文化事業としての放送局を起ち上げてくれた仲間たちに改めて感謝したい。

そしてこれから市民とともに市民に愛されるラジオ局にしていかなければならない。

地域の情報を集め発信することで地域コミュニティを活性化し、新しい波となってよりよいまちになっていく事が私たちの願い。

開局は8月1日だ。


観光産業と地域振興

2013-01-28 16:43:53 | 研修など



本日、宮古市産業復興フォーラムが開かれた。

総合産業としての観光を振興の切り口にした、今後のあり方についてのフォーラムだった。

講師は松蔭大学観光文化部の古賀学教授。

テーマは「宮古を元気にする総合産業としての観光振興」

ー観光の原点回帰と観光施設の複合化ーだった。

その講演を要約してみる。

観光産業の裾野は幅広い。しかし、観光産業という視点はあまり意識されてこなかった。

その理由の一つとして観光は観光関連産業で成り立っているという視点がある。

多くの観光関連産業はあるが、観光産業という1つの産業はないという考え方である。

ビジネスという観点からは当たり前のことであるが、地域産業としての観光産業という視点から、

今一度明確な位置づけを考えていく必要がある。

観光地と観光地域づくりとは何かー。

人々の満足度が高い所を観光地と呼んだだけ。人が評価してくれた呼称が観光地であり、

いい目的を達成させる、満足を与えてくれる所が観光地だった。

すなわち今までは、国立公園だとか世界遺産、国宝だとか他から価値を認められたことで

観光をやってきた。

しかし、これからはどこにでもある地域資源を生かし(見つけ)、育て、売り出していくことだ。

地域資源を観光資源に、そして観光商品にしていく上で、それが観光地域づくりとなる。

地域資源という事実に、知識や知恵を加えることによって、いろんな形につなげることが出来る。

それは料理、歴史、体験活動、美容健康、神事的なモノだったりと。

そこに会話のある観光が生まれ、地域住民が主役の観光となる。

観光施設のこれからの活用方法は、多目的活用をしていくこと。

非常時にもこれら観光施設を活用できるものにする。

加えて利用されない日が多い施設は、住民の活動を支える施設としての位置づけを持たせること。

それが地域の人に愛され、地域の人が大切にしていく施設として活用されることが大事である。

元気な観光地は地域が動いてる。住民が動いている。目的をもって動かしている。

多くの産業に役立っている。来訪者の満足度が高い。

地域の生活をリアルに感じることこそ、観光に求められている変化であり、体験であるといえよう。

そのために我々は何をすべきかー。と考えたとき、

地域資源に新たな価値を見いだす創造力、商品化を図るための企画力、

人や組織を引っ張り突き進む牽引力 、常に良き商品であることを管理し続ける持続力

といった能力が必要である。

それに加えて地域資源を大切にし誇りに思う郷土を愛する心 、

人々とのコミュニケーションを大切にするホスピタリティあふれる心、

お客の満足を自分のものとできる共に喜ぶ心。

これらを有し、観光産業や地域産業という視点から総合的に観光振興をプロデュースできる人材の

育成が望まれる。


文化の搾取

2012-12-22 10:04:55 | 復興まちづくり
多くの復興支援はありがたい。純粋にその地域の力になってくれるそんな絆に

夢を託し共に進んではきたものの、

復興作業のすべてを丸投げにしてしまって得てして起こる不幸な実態が、

今回の山田町の問題ではなかろうか。

しかし、このことは私たちの街でも起こり得ることでもある。

「文化の搾取」ということを劇作家の平田オリザさんが話していた。

復興して新しいまちはできたものの、儲かるのは中央資本だけ。

その丸投げによって文化的に搾取されていったことが、地域の自立を阻んでいる。

そんなことにならないようにするためには、私たち地域の人々が、

地域文化の自己決定能力を持たなければならないのである。

自分たちの地域の文化は自分たちで成熟させていくことこそが、まちづくりには求められる。

多くのまちづくりの失敗は、自分たちの強みであるものを、自分たちで考えられなかったこと。

大切なのはソフトの地産地消で、地域が歩んで来た歴史・文化は地域の人がつないでいくことである。





復興!宮古サーモンハーフマラソン2012

2012-11-11 22:34:27 | まちネタニュース
復興!宮古サーモンハーフマラソン2012