カナダでの生活で常々実感するのは「自然の近さ」です。果樹園のみならず一般家庭の庭木でたわわに実る果物の豊富さ。野鳥、小動物から最近では住宅街やゴルフコースにまで熊が出没することが報じられています。
日常生活の場面で自然をあまり近く感じない日本では「サバイバル」というと産業界やサラリーマン社会等競争社会での「生き残り」を連想しますが、ここカナダでは文字通り自然界の外からの攻撃に如何に対処して自分を守るか、「自然の中で生き残る能力」そのものであることを実感します。サバイバル能力が問われる場面は日本よりはるかに多いと思われます。それと同時に、如何に自然と共存・共生するかとの視点を大切にした様々の社会のシステムが出来上がっていると感じます。
自然の厳しさを体験して初めて身につくサバイバル能力、自然を相手に生き残る知恵。自然との付き合いが浅く、経験の乏しい私なんぞにはとても備わっていない能力です。
卑近な例として、私と同い年の日系カナダ人(戦時中の幼少期を日本で過ごした、いわゆる『帰加二世』)の友達がいます。
彼も松茸大好き人間で毎シーズンの松茸狩りを楽しみにしている一人ですが、森の中に入るからには熊との遭遇も想定して、それなりの用意を怠りません。熊鈴の他に研ぎすまされたナタを必ずベルトに下げて携行するのです。彼にしてみれば「熊に襲われたら手をこまねいてるわけにゃいがねだろ。俺も命を落とすかもしれないけんど、相手に一撃・二撃を加えてから死にたいだろ。死力を尽くして戦ってもダメならあきらめもつくけんどよ」と東北訛りで言われると、なかなか迫力あるし、説得力もあります。これも多分これまでの経験から身につけたサバイバルのノウハウであろうし、ここにいたるまでには何度か危うい目にあってきたに違いありません。
ひたすら熊と遭遇しないことを祈るだけの我が身の軟弱な無防備さを思うと、サバイバル能力を比較するのもおこがましい話です。
パソコンが少しばかりいじれたり、思ったとおりのショットが打ててパーで上がったなんて喜んでいるような自分が、随分と小さく感じることの多いカナダ生活です。
日常生活の場面で自然をあまり近く感じない日本では「サバイバル」というと産業界やサラリーマン社会等競争社会での「生き残り」を連想しますが、ここカナダでは文字通り自然界の外からの攻撃に如何に対処して自分を守るか、「自然の中で生き残る能力」そのものであることを実感します。サバイバル能力が問われる場面は日本よりはるかに多いと思われます。それと同時に、如何に自然と共存・共生するかとの視点を大切にした様々の社会のシステムが出来上がっていると感じます。
自然の厳しさを体験して初めて身につくサバイバル能力、自然を相手に生き残る知恵。自然との付き合いが浅く、経験の乏しい私なんぞにはとても備わっていない能力です。
卑近な例として、私と同い年の日系カナダ人(戦時中の幼少期を日本で過ごした、いわゆる『帰加二世』)の友達がいます。
彼も松茸大好き人間で毎シーズンの松茸狩りを楽しみにしている一人ですが、森の中に入るからには熊との遭遇も想定して、それなりの用意を怠りません。熊鈴の他に研ぎすまされたナタを必ずベルトに下げて携行するのです。彼にしてみれば「熊に襲われたら手をこまねいてるわけにゃいがねだろ。俺も命を落とすかもしれないけんど、相手に一撃・二撃を加えてから死にたいだろ。死力を尽くして戦ってもダメならあきらめもつくけんどよ」と東北訛りで言われると、なかなか迫力あるし、説得力もあります。これも多分これまでの経験から身につけたサバイバルのノウハウであろうし、ここにいたるまでには何度か危うい目にあってきたに違いありません。
ひたすら熊と遭遇しないことを祈るだけの我が身の軟弱な無防備さを思うと、サバイバル能力を比較するのもおこがましい話です。
パソコンが少しばかりいじれたり、思ったとおりのショットが打ててパーで上がったなんて喜んでいるような自分が、随分と小さく感じることの多いカナダ生活です。