蛍
自然界の動植物の中で、蛍は特異な文学的素材となる。ただ、これを使いこなすには相当の力量が求められる。私はまだ蛍を素材に用いたことがない。蛍は今でも表現上では遠い存在である。このごろ夏の夜空に蛍が飛ぶ姿を見なくなってしまったので、現実面でもいよいよ私から蛍は遠ざかってしまった。
同人誌『蛮族』所属の作家内藤美智子氏の随筆に「ほたる」という秀作がある。高校の国語の教科書にも掲載された。
作者はある日家の前の田んぼの中で小さい蛍を見つける。そのことが若い頃の思い出へ誘う。作者は高校時代部活動の遠征の帰り、出雲発のバスに乗る。しばらくすると、誰かが蛍を見つける。しかも蛍合戦。運転手はバスを止め、乗客に見物させる。火の玉がぶつかりあって独特の匂いを放っていたのである。二十数年後、作者は久しぶりに蛍のかすかな光を見つめながら、夢多き青春時代を振り返り、そのときに想像した世界とは「ずいぶん遠い風景」に辿り着いたと感じる。しかし作者はそのことを後悔せず、「それもまたよし」と呟き、即座に前向きの姿勢に切り替える。
……「それもまたよし」。この開き直りとも違う気持ちの切り替えに私は唸ってしまった。そして事あるごとにそう呟いて私自身を励ましてきた。かつて作者が見た群舞する蛍と眼前のか細い蛍。それは青春の夢が萎(な)えてしまったことと重なる。……見事である。
蛍を素材とする作品は他にもある。だが、それらのほとんどは、蛍のはかなさ、妖しげな美をやるせない現実の生に重ねたものが多い。しかし、内藤作品には、哀しさを凌ぐ力のようなものが感じられて爽やかである。
それにしても、私はもう二十年くらい、いや、もっと以前からかもしれないが、蛍を一匹も見たことがない。これだけは、「それもまたよし」と割り切る訳にはいかない。
(2005投稿)
自然界の動植物の中で、蛍は特異な文学的素材となる。ただ、これを使いこなすには相当の力量が求められる。私はまだ蛍を素材に用いたことがない。蛍は今でも表現上では遠い存在である。このごろ夏の夜空に蛍が飛ぶ姿を見なくなってしまったので、現実面でもいよいよ私から蛍は遠ざかってしまった。
同人誌『蛮族』所属の作家内藤美智子氏の随筆に「ほたる」という秀作がある。高校の国語の教科書にも掲載された。
作者はある日家の前の田んぼの中で小さい蛍を見つける。そのことが若い頃の思い出へ誘う。作者は高校時代部活動の遠征の帰り、出雲発のバスに乗る。しばらくすると、誰かが蛍を見つける。しかも蛍合戦。運転手はバスを止め、乗客に見物させる。火の玉がぶつかりあって独特の匂いを放っていたのである。二十数年後、作者は久しぶりに蛍のかすかな光を見つめながら、夢多き青春時代を振り返り、そのときに想像した世界とは「ずいぶん遠い風景」に辿り着いたと感じる。しかし作者はそのことを後悔せず、「それもまたよし」と呟き、即座に前向きの姿勢に切り替える。
……「それもまたよし」。この開き直りとも違う気持ちの切り替えに私は唸ってしまった。そして事あるごとにそう呟いて私自身を励ましてきた。かつて作者が見た群舞する蛍と眼前のか細い蛍。それは青春の夢が萎(な)えてしまったことと重なる。……見事である。
蛍を素材とする作品は他にもある。だが、それらのほとんどは、蛍のはかなさ、妖しげな美をやるせない現実の生に重ねたものが多い。しかし、内藤作品には、哀しさを凌ぐ力のようなものが感じられて爽やかである。
それにしても、私はもう二十年くらい、いや、もっと以前からかもしれないが、蛍を一匹も見たことがない。これだけは、「それもまたよし」と割り切る訳にはいかない。
(2005投稿)