1944
もし、生まれた直後からの記憶が大人になってからも完全に残っていれば、人間はもっと違う生き方をするかもしれない。
しかし、残念ながら想起できる記憶は3歳くらいからである。だから写真の姿や両親の話などを総合して人生の出発点の状況を自分で形作るしかない。だが、写真もないし、語ってくれる肉親もいないという人が世界にはたくさんいる。
1944。この数字を斐川町の図書館の絵本コーナーで見つけたとき、私はその場に釘付けになった。「わたしが1944年に生まれたことはたしかです。でも、誕生日がいつであるのかはわかりません。生まれたときにつけられた名まえもわかりません。」。そう語っている人は、ドイツでその年に生まれたある女性である。ユダヤ人の彼女は生後二、三か月のときに、ダッハウの強制収容所に向かう貨物列車の小窓から母親の手によって外に捨てられる。それを見つけた人がある女性に赤ん坊を預ける。その女性は命がけでその子どもを家族として育てる……。
「お母さまは、自分は『死』にむかいながら、わたしを『生』にむかってなげたのです。」。成長してからその人は列車の小窓から我が子を投げ捨てるときの母親の心情をそのように想像して語っている。夫とともに死に向かって走っていることを察知した母親の究極の決断が「汽車から外にほうりなげ」ることだったのである。
1944年3月5日。私が生まれた日である。家には生後数か月だと思われる写真がある。母に抱かれて玩具の太鼓を持って甘えたような笑顔で写っている。食糧事情が極めて悪い日本であったが、母乳に恵まれていたそうで丸々と肥っている。……捨てられた赤ん坊と私。この境遇の違いは……。私は胸を締め付けられるような気持ちがした。
私が出合った絵本は、『エリカ・奇跡のいのち』(文/.ルース・バンダー・ジー 絵/ロベルト・インノチェンティ 訳/柳田邦男)という絵本である。
(2006年投稿)
もし、生まれた直後からの記憶が大人になってからも完全に残っていれば、人間はもっと違う生き方をするかもしれない。
しかし、残念ながら想起できる記憶は3歳くらいからである。だから写真の姿や両親の話などを総合して人生の出発点の状況を自分で形作るしかない。だが、写真もないし、語ってくれる肉親もいないという人が世界にはたくさんいる。
1944。この数字を斐川町の図書館の絵本コーナーで見つけたとき、私はその場に釘付けになった。「わたしが1944年に生まれたことはたしかです。でも、誕生日がいつであるのかはわかりません。生まれたときにつけられた名まえもわかりません。」。そう語っている人は、ドイツでその年に生まれたある女性である。ユダヤ人の彼女は生後二、三か月のときに、ダッハウの強制収容所に向かう貨物列車の小窓から母親の手によって外に捨てられる。それを見つけた人がある女性に赤ん坊を預ける。その女性は命がけでその子どもを家族として育てる……。
「お母さまは、自分は『死』にむかいながら、わたしを『生』にむかってなげたのです。」。成長してからその人は列車の小窓から我が子を投げ捨てるときの母親の心情をそのように想像して語っている。夫とともに死に向かって走っていることを察知した母親の究極の決断が「汽車から外にほうりなげ」ることだったのである。
1944年3月5日。私が生まれた日である。家には生後数か月だと思われる写真がある。母に抱かれて玩具の太鼓を持って甘えたような笑顔で写っている。食糧事情が極めて悪い日本であったが、母乳に恵まれていたそうで丸々と肥っている。……捨てられた赤ん坊と私。この境遇の違いは……。私は胸を締め付けられるような気持ちがした。
私が出合った絵本は、『エリカ・奇跡のいのち』(文/.ルース・バンダー・ジー 絵/ロベルト・インノチェンティ 訳/柳田邦男)という絵本である。
(2006年投稿)