源九郎判官義経
歴史上義経のように謎や伝説の多い人物は珍しい。にもかかわらずその魅力はいよいよ深まるばかりである。NHKの大河ドラマを観ていても私の血が騒ぐ。私はふとその訳を考えることがある。
夏草や兵どもが夢の跡
芭蕉は奥州平泉の高舘から四囲の風景を望んだ。そのとき込み上げてきた感慨に涙しながらこの一句を成した。高舘は義経が自刃した所である。「兵ども」は義経主従を指している。しかし、「ども」という突き放した表現が私には気にかかる。身分や肩書きを捨てた芭蕉の心の底に戦を厭う気持ちが潜んでいたかもしれない。
では、義経のその「夢」の究極はいかなるものであったか。これはやはり武士(もののふ)としての功名に関わるものであったに違いない。兄頼朝を凌いで天下人になることだったのか。それは知る由もない。しかし、いずれは武蔵坊弁慶とともに衣川の合戦で最期を迎える。しかも庇護されていた藤原氏の軍勢を敵に迎えつつ。無念極まりない。その末路をだれも知っている。だから、ドラマや歌舞伎の中でいかに人間的な魅力を備えていても、いかに目覚しい新戦法で勝ち戦を遂げても、頼朝に付き従う凛々しい武者姿に、そこはかとない陰翳を私たちは感じる。非業の死という悲劇性を背景にしてたち現れているからこそ輝いて見えるのである。
私たちには悲劇を好む深層があるかもしれない。夢半ばに死す。これを潔しとする心が。
蝦夷の地に逃れたという伝説をもし肯定すれば、義経像は地に堕ちてしまう。
(2005年投稿)
歴史上義経のように謎や伝説の多い人物は珍しい。にもかかわらずその魅力はいよいよ深まるばかりである。NHKの大河ドラマを観ていても私の血が騒ぐ。私はふとその訳を考えることがある。
夏草や兵どもが夢の跡
芭蕉は奥州平泉の高舘から四囲の風景を望んだ。そのとき込み上げてきた感慨に涙しながらこの一句を成した。高舘は義経が自刃した所である。「兵ども」は義経主従を指している。しかし、「ども」という突き放した表現が私には気にかかる。身分や肩書きを捨てた芭蕉の心の底に戦を厭う気持ちが潜んでいたかもしれない。
では、義経のその「夢」の究極はいかなるものであったか。これはやはり武士(もののふ)としての功名に関わるものであったに違いない。兄頼朝を凌いで天下人になることだったのか。それは知る由もない。しかし、いずれは武蔵坊弁慶とともに衣川の合戦で最期を迎える。しかも庇護されていた藤原氏の軍勢を敵に迎えつつ。無念極まりない。その末路をだれも知っている。だから、ドラマや歌舞伎の中でいかに人間的な魅力を備えていても、いかに目覚しい新戦法で勝ち戦を遂げても、頼朝に付き従う凛々しい武者姿に、そこはかとない陰翳を私たちは感じる。非業の死という悲劇性を背景にしてたち現れているからこそ輝いて見えるのである。
私たちには悲劇を好む深層があるかもしれない。夢半ばに死す。これを潔しとする心が。
蝦夷の地に逃れたという伝説をもし肯定すれば、義経像は地に堕ちてしまう。
(2005年投稿)